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458..御絵伝に見る親鸞聖人のご生涯(3):上巻第一段

本 本2

 「御絵伝に見る親鸞聖人のご生涯」は、今回からその内容に入りたいと思います。

 今回は、『御伝鈔』の最初の部分「上巻第一段」です。
 前回学びましたように、蓮如上人以降広く伝えられている御絵伝は、全体が15段(上巻8段、下巻7段)で構成されています。今回の第一段は「出家学道の段」とも呼ばれるもので、『御伝鈔』では親鸞聖人の家系から始まり出家得度され勉学に励まれる姿が記されている部分です。

 以下、『御伝鈔』の現代語訳でこの段の最初の部分を見てみます。

 「そもそも、親鸞聖人の在俗当時の姓は藤原氏でした。藤原氏は先祖が天児屋根尊(あまつこやねのみこと)で、それから二十一代目の子孫が、大織冠C(たいしょっかん)位を与えられた藤原鎌足(ふじわらのかまたり)大臣で、その「やしや孫」、つまり四代目の子が近衛大将右大臣従一位藤原内麿(ふじわのうちまろ)公でした。この人は後長岡大臣(ごながおかのだいじん)とも、閑院大臣(かんいんのだいじん)とも号して、贈正一位太政大臣房前(ふさざき)公の孫に当り、大納言式部卿真楯(またて)の息子です。その内麿公から数えて六代のちの孫が弾正大弼(だんじょうだいひつ)と参議を兼ねた有国(ありくに)卿で、更にその有国卿から五代のちの孫が、聖人の父君有範(ありのり)様です。この方は皇太后宮(こうたいごうぐう)で大進(だいしん)という役職を勤められました。」

 『御伝鈔』は、親鸞聖人の家系に関する長い記述で始まります。
 これによりますと、親鸞聖人の家系は藤原氏という貴族だということが述べられています。日本史で学んだことを思い出しますが、藤原氏は長くにわたって朝廷の重要ポストを独占してきた一族でした。聖人のご出身である日野家はその藤原氏のいくつかの系統のうちの一つとされています。

 『御伝鈔』には、聖人はその日野家の日野有範卿の子息としてお生まれになられた、と記され、父の有範卿が皇太后宮大進の位にあったとする関する簡単な紹介だけが記されています。

 明治から大正にかけて、聖人のご出身を日野家とすることのみならず聖人ご自身が実際においでになられたのか、ということについてまで疑問が呈されたことがありました。
 しかし、その後、聖人の奥様の恵信尼公のお手紙が発見され、その記述と伝えられた聖人の行実が一致することが確認されました。併せて多方面の研究により、聖人が実在され、承安三年(1173年)に日野有範卿の子息4人兄弟の長男としてお生まれになったことが明確になりました。
 お生まれになった場所については、現在の京都市伏見区の日野の地とされ、西本願寺ではその地を飛び地境内として日野誕生院が昭和6年に建立されています。
 聖人の母君に当たられる方については諸説があるようですが、まだ最終的な結論には至っていないようです。
 
(図は、参考にさせていただいている赤松俊秀氏著の『人物叢書 親鸞』のカバーと同書の14、15ページの部分です。本は、父の蔵書にあったものです。)

 この本に父が引いた傍線があることに気づきました。今回の記事に関わる部分では、次の部分に青色の傍線が付してあります。
 「宗昭の『親鸞伝絵』や『口伝鈔』の中で親鸞の行実といわれているものが、全部とはいえないまでも、一部はこの恵信尼書状のように信頼できる史料に基づいていることが明白になったのである。恵信尼書状が発見されたのち、親鸞の行実の研究は面目を一新した。」
 (文中の「宗昭(しゅうしょう)」は覚如上人の諱(いみな:没後に贈られる名前)です)

 同じページの他の個所には赤い傍線もありますから、父は聖人の家系の解明の経緯について興味を持っていたように思われます。
 記憶をたどってみますと、口数の少なかった父とは言葉を交わさすことが多くはなかったように思います。この傍線を見て、父から時間を超えて語りかけられているような思いです。
 
(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)
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