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452.歴史を訪ねる(11):壽福寺の歴史(2)

20180723日高氏著書   20180723日高氏著書2

 3回続けて「歴史を訪ねる」となりますが、今回は「寿福寺の歴史」の2回目として寿福寺が創建された経緯について調べてみたいと思います。
 前回記しましたように寺の開基につきましては様々なの説があるようですが、今回はその第一の説です。

 手元に『寿福寺とその里』という18ページからなる冊子があります。著者は日高実夫さんといわれる方で、奥書には昭和58年(1983年)12月と記してあります。

 その中に壽福寺の創建に関する経緯が記されています。概要を要約しますと、次のようになります。
 陶晴賢が主君の大内義隆を討った変の後に、後継について晴賢と意見を異にした杉重矩は陶軍に追われて、所領の万倉の地に逃れますが、長男重輔が守る信田ノ丸城に入ることを得ず、厚狭の地で自刃に至ります。

 日高氏の記述によりますと、その時に「本城の重輔と、その弟(名不詳)は、この事変を知ったが、時既に遅く忽ち晴賢の大軍によって城山は包囲されたのである。主従一丸となって能く城を守り、又反撃を繰り返したので、容易に落城しなかった。」
 しかし、「伝説によると、陶軍は峻険な山の要害と旺盛な城方の反撃に手古摺り、一計を案じて万倉、船木方面より大量の松明を徴発して、暗夜に灯の間隔を点々と開いて、長蛇の列をなす如く装い山麓に進めた。到着した先頭の順から灯りを消さして最後尾の山陰に引返させ、又点灯して山麓に進めた。これを繰り返して如何にも新手の大軍が続々集結する如く装ったのである。城方はこれを見て全く勘違いし最早落城の他はないと、遂に防戦を諦め、その夜のうちに重輔兄弟以下闇に紛れて落ち延びたと伝えられる。」

 このようにして、兄の重輔は山口に落ち延びるのですが、その弟は「現寿福寺山門のやや左下(現道路の下)に在った寺院に這入り出家して追討を遁れたのである。」そして、「真宗融光山寿福寺を創建した開基が杉重輔の実弟であるか、又はその子孫であるかは、前述のように古文書などの資料がなくて判然りしないが、後で兄重輔の再起について触れるので、それによって想像すると、多分この弟であったろう。」

 私が知る限り、壽福寺の開基が、信田ノ丸城主であった杉重輔の弟とするのはこの日高氏の著書以外には思い浮かびません。
 この日高氏の説は、前回の長谷川卒助氏の大内氏滅亡に伴う真宗寺院の創建の類型でみますと、
  起源の類型では、「本人が戦後自ら剃髪して僧となる者」
  思想の類型では、「わが生命を全うするための手段」
 ということになるのでしょうか。

 寺の開基についての他の説には、その典拠が残されていますが、今回の「重輔の弟」説の根拠は示されておらず、確認はできていません。それでも、落城の城主の弟が追っ手を逃れて寺に入った、敵が松明を灯して欺こうとしたのに騙された、といったところに親しみを感じてこの説を最初に取り上げました。

 この冊子の著者である日高実夫氏とは直接お会いしたことはないと思いますが、電話番号が分かり先日電話をしました。娘さんが出られてお話をお聞きすることができました。
 娘さんのお話しでは、実夫さんは約25年前に亡くなられたのだそうです。もともとは刑事をされていて、退職後個人で資料を調べてこの冊子も作成されたと仰っておられました。冊子の内容について知っておられることや、内容についてお聞きできる方をご存知ないかお聞きしたのですが、娘さんご自身もこの冊子については余り聞かされていなかったようです。
 実夫さんは、昔気質の方だったのでしょうか、娘さんとも冊子について会話されることも少なかったのかもしれません。

 実夫さんは冊子の中で、ご自身が寺のある現宇部市奥万倉黒五郎のご出身だと記されています。この冊子は、実夫さんが育たれた黒五郎の地に対する哀惜の思いが随所に感じられるものです。
 私の父顕雄がこの冊子に一文を寄せていまして、その中で父は、「私は、このご労作に接して、日高さんの黒五郎の地と寿福寺とに対する深い愛着のお気持ちをくみとらせていただきますとともに、急激なスピードで進展して行く現代社会のなかで、過去の遺産を大切にすることの重要さを説かれるその情熱に深くうたれるのであります。」と記しています。

 失われていく史実、事績を次の世代に伝えていくことの大切さを、実夫さんや父と共有したいと思います。

(図は、『寿福寺とその里』の表紙と「あとがき」です。)

 日高氏はこの「あとがき」の中で、
 「石原の地に在った若宮社、今ある大日の大日社、通り道の首切り地蔵やけんだん屋敷などについても、黒五郎のみならず、この地方の歴史的な事柄もあるようであるが、子供の頃薄々聞いた話で確かな記憶も手掛かりにする資料もないので、触れる事が出来なかったことを深くお詫びする。」
 と記されています。私も、首切り地蔵の話は子どもの頃に聞いた記憶があり、懐かしく思い出しておりました。そのような言い伝えが失われていくことは惜しむべきことだと思い、このようなことも「歴史を訪ねる」こととして記録したいと思っています。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)
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