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450.歴史を訪ねる(9):信田ノ丸城(3)

20180716杉氏墓  20180716杉氏墓2

 歴史を訪ねる(信田ノ丸城)の3回目になります。

 これまで見てきましたように、万倉杉氏の第5代杉重矩(しげのり)は厚狭の地で陶晴賢の軍に討たれ、その子重輔(しげすけ)は山口で内藤隆世に討たれいずれも非業の死を遂げました。

 重輔の子重良(しげよし)は、父の死(1556年)の後、4才(2才とするものもあります)で家督を継ぎました。毛利氏に仕え、地元の万倉との関係では、元亀年中(1570~1573年)に宮尾八幡宮を再興し、山口宮野より定林寺を正楽寺の地に移して杉氏の菩提寺とし(現在の天竜寺に当たります)、若一王子社(現在の広矛神社)宝殿を再興するなどといった記録が残されています。

 毛利氏の家臣として重良は、かつて杉氏が守護代として統治していた豊前の松山城に入りましたが、毛利氏と、対立していた大友氏との抗争、交渉の中で、城を明け渡したり再度入城したりという経緯がありました。
 永禄12年(1569年)大友氏の庇護のもとにあった大内輝弘が毛利氏を攻撃するという事態が起こりましたが、重良は大友宗麟からの誘いを拒否し毛利元就につき、大友氏の毛利氏攻略を阻止します。この戦功により所領を与えられることになりましたが、毛利氏の重臣の反対によりこれが反故になり、代わりに与えられた徴税権も重良が実質的に支配していない領地からのもので空文(くうぶん:空手形?)となるということもあったようです。
 その後も重良は毛利氏の家臣として各地に転戦し戦功をあげ、また、天正元年(1573年)には毛利氏の声がかりで、重臣福原貞俊の妹を妻とします。

 天正7年(1579年)九州の秋月氏との人質交換が難航し、その使命を果たすことができなった使者がかえって重良が謀反を起こしたと毛利氏に報告するという事件がありました。この時、重良は豊前松山城を退去し豊前蓑嶋城に拠って毛利氏に反旗を翻したとされます。その結果、重良は毛利勢に攻められて蓑嶋の地で討死します。26才だったと伝えられます。
 この重良の謀反についても、毛利氏内での讒言にその原因があったとも、重良が当時中国征討を進めていた豊臣秀吉に通じていたとも、様々な見方があるようです。いずれにしても、断続的に続いた杉氏による豊前国の統治はこれで終焉を迎えることとなりました。

 重良の死後、毛利輝元は、重良の子である松千代丸(のちの元良・もとよし)に対して、父重良の行為は謀反と認めながらも一家断絶の処分は許し、重良の所領の相続を認めたと伝えられています。重良の妻であった福原貞俊の妹が謀反に同意していなかったことや貞俊が丁寧にわびをいれたことがその背景にあるといわれています。 

 前々回の記事でも触れましたが、杉重良はこの時に戦場を落ち延びて、各地を経て対馬に渡り宗氏に、後に松浦氏、大村氏にも仕え、秀吉の朝鮮出兵にも従軍し、関ヶ原の戦いの後に鍋島氏の客分になってそこで生涯を閉じたという言い伝えも残っているそうです。それとは別に、重良は壽福寺の開基に関してかかわりがあるという説もあって、その晩年についてはよく分からない部分も多いようです。

 防長二藩の家臣やゆかりの者についてその来歴をまとめた『萩藩閥閲録』という書がありますが、この中で杉氏については次のように記載されています。

 従是以前不分明
  杉彦八郎重祐
 此間之世代不分明
  杉伯耆守重輔 始七郎(彦右衛門尉)
   弘治二年三月(二日)ニ果候由申傳候事
  杉七郎重良 始松千代
  (天正七年三月四日死、二十五才)
  杉七右衛門元良 始松千代 少輔九郎
  (寛永二年五月廿五日死) 
 (以下略)

 つまり、杉重祐(重矩の父・養父?に当たります)まではよく分からないとし、その後も重輔(重矩の子です)までの間もよく分からないとされています。陶晴賢の謀反との関連で重矩の存在をはっきりさせたくないという一族の思いがあったのかもしれません。

(写真は、万倉天竜寺にある杉氏の墓所です)

 右は、墓所に至る石段と杉孫七郎が明治22年5月に建てた碑と灯篭です。
 天竜寺は杉氏の後に万倉の地を領地とした国司氏の菩提寺でもあり、国司家の墓地もあります。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)
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