FC2ブログ

445.歴史を訪ねる(8):信田ノ丸城(2)

20180629信田ノ丸城跡  20180629信田ノ丸城跡2

 前回に続いて「信田ノ丸城」に関する記事です。
 今回は、三叉路のところにある説明板に名前が出ていた杉重良およびその一族に関する情報です。戦国の時代、凄絶な争いが日常的に行われていたのだ、と感じさせられます。資料によって内容が違う部分もありますが、ほぼ共通した内容を記してみます。

 説明板には次のように記されていました。
 「『防長風土注進案』には信田ノ丸城は杉伯耆守重良の居城跡の由と書かれていますが、本拠地は、豊前国蓑嶋の松山城でした。」

 杉氏は古くは土佐の出身だったとされているようです。その後、大内氏に仕えるようになり、大内氏の版図拡大に従って九州、中国、堺、京都などの戦いに名前が登場するようになります。特に豊前国とは縁が深く、豊前松山城(現在の福岡県京都郡苅田町にあります)を築き、歴代守護代としてその地を統治してきたということです。
 万倉の地と関連ができた時期というのもはっきりしないようですが、杉重綱という人が、1441年に大内教弘より厚狭鴨庄、万倉の地を賜り、万倉杉氏の初代とされています。

 そのようなことから、信田ノ丸城が築かれたのは、説明板にある重良の時代よりはもう少し遡るのではないかと思いますが、記録が残っておらずよく分からないというのが実情のようです。当時の城というのはいわゆる山城で、日常は麓の屋敷で生活をしていて、戦になると城に立てこもって戦う、というようなことが行われていたようです。「防長風土注進案」にも、「信田ノ丸城の東北の谷間に御城村と呼ばれているところがある」と記されていて、ここが屋敷のあった所ではないかと、されています。
 従って、屋敷とは別に城が築かれた時期となると、なおさら分からないということになるのでしょうか。

 その万倉杉氏の5代目の重矩(しげのり)の時に、主君の大内義隆が陶晴賢(隆房)の謀反にあい、1551年湯本の大寧寺で自刃するという事変がありました。事変後に晴賢と対立することになった重矩は陶氏の軍勢に攻められ、当時隠居していた佐波郡大崎というところから領地であった万倉に逃れたのですが、追い詰められて厚狭の長光寺(現在の洞玄寺)で自刃します。1553年のことです。晴賢は主君義隆を殺害した責任を重矩に転嫁し、その首級を義隆の墓前で晒し首にしたと伝えられます。
 また、重矩の長子重輔(しげすけ)も信田ノ丸城で陶軍の攻撃を受け、奮戦しますが遂に落城し、山口に逃れます。

 この変とその後の晴賢と重矩の争いについては様々な解釈があるようです。
 もともとライバルながら共に武断派である重矩と晴賢が、文治に傾いた主君義隆に不満を抱いていて、それが謀反につながったといわれています。その後、義隆の後継について両者は対立します。また、重矩が主君の大内義隆に、晴賢に謀反の動きがあると告げたことを晴賢が知るところとなり、晴賢が重矩を攻めることになったという見方もあるようです。晴賢からすると、自分が主君を討ったのは重矩に策を弄されたためだ、ということになります。そのようなことから、重矩を「奸臣(よこしまな家来)」とする説も伝えられています。

 父を殺され自らも居城を追われた重輔は深く晴賢を恨み、1555年晴賢が厳島で毛利元就に討たれたと聞くと、晴賢の子である陶長房兄弟を攻めて滅ぼします。しかし、今度は陶氏の家人(家来)がこれを恨み、内藤隆世(晴賢の義弟にあたります)に復讐してくれるよう訴え出ます。義兄と甥を殺された隆世はその訴えを受けて、山口にいた重輔を襲うのですがその後仲裁が入りいったんは和睦を結びます。しかし、その後隆世は再び重輔を襲い、重輔主従は山口で討死するという結果となります。1556年、重輔は36才だったと伝えられています。

 その重輔の後を4才で継いだのが宇部市の説明板に出ている重良ということになるのですが、信田ノ丸城は、このような権謀術数、殺戮と怨恨が繰り返される戦国時代のただ中にあった城だということになります。
 
(写真は、信田ノ丸城跡です。)

 左は城跡からの眺望、右は1908年に杉孫七郎氏が建てた記念碑(「杉伯耆守城跡」と記されています)と、宇部市が設置した説明板です。いずれも前回5年前に撮影したものです。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)
 
スポンサーサイト



コメント

非公開コメント

カウンター
カテゴリ
検索フォーム
リンク
最新記事
最新コメント
月別アーカイブ
最新トラックバック
RSSリンクの表示
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR