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444.歴史を訪ねる(7):信田ノ丸城(1)

20180625信田ノ丸城  20180625信田ノ丸城2

 本日の「歴史を訪ねる」は信田ノ丸(しだのまる)城に関するものです。信田ノ丸城は、壽福寺の開基にもゆかりのある旧跡でもあります。

 信田ノ丸城(城跡)は、宇部市大字奥万倉字城南にある戦国時代の城跡です。寺から南方、今富ダムに向かって約2キロメートル下った所に三叉路があり「信田ノ丸城」への入り口を示す表示があります。ここを右(西)に折れて、約700メートル進むと城跡への登り口になり、ここからは山頂まで1キロメートルです。

 この三叉路に信田ノ丸城跡に関する説明版(2010年2月に宇部市教育委員会が作成とあります)があり、その内容を要約しますと次のようになります。
 ・この城跡は標高324メートルの山頂にあり、天険を利用した戦国期の山城で、その遺構も残っている
 ・「防長風土注進案」によれば、信田ノ丸城は杉伯耆守重良の居城跡の由書かれているが、本拠地は豊前国蓑嶋の松山城であった
 ・築城に関する資料は不明だが、1570年頃(元亀年中)と推測される
 ・山頂には杉氏の末裔である杉孫七郎が1908年(明治41年)4月に建立した石碑が建てられている

 その「防長風土注進案」の信田ノ丸城に関する記述は、次の通りです。(山口県文書館編集「防長風土注進案」の「15船木宰判」119ページ)
 (「防長風土注進案」は、天保12年に藩が防長二州の各村落について、その実態を詳細に調査しまとめたもので、当時の社会の実情をつぶさに知ることができる資料です)

 「一 古城跡
  城山 信田丸村ニ(に)有り
   但杉伯耆守重良居城跡之由申傳、于今(いまに)城山と唱山内ニ(に)本丸二ノ丸三ノ丸なといへる所有、また山ノ東北ニ(に)當ル浴を御城村と唱候事」

 この杉伯耆守重良は天文23年(1554年)、万倉杉氏の6代杉重輔の子として生まれましたが、父重輔が内藤隆世に攻められ戦死したため4才で家督を継ぎ、毛利元就に仕えた人です。重良は豊前国松山城を居城としていましたが、その後毛利氏に反旗を翻し天正7年(1579年)26才で討死しました。(ただし、重良はこの戦で落ちのびて、豊臣秀吉の朝鮮出兵や関ヶ原の戦いにも参戦したという異説もあるのだそうです)

 ここで気になるのは、宇部市の説明文で城の築城時期を1570年頃(元亀年中)としている所です。
 この頃は重良の存命中なのですが、信田ノ丸城はそれ以前に築かれていた、とする説もあるようです。天文20年(1551年)に大内義隆が陶晴賢の反乱で討たれた後、重良の父重輔は陶軍の攻撃を受け信田ノ丸城に拠って防戦したがかなわず、山口に落ちのびたとされています。そのようなことからも、信田ノ丸城は1570年よりも早く、明応時代(1500年頃)にはあったとする書もあります。

 いずれにしてもこの信田ノ丸城を舞台にした戦が壽福寺の開基につながるとされているのですが、その経緯については次回以降で訪ねたいと思います。

(写真左は三叉路の説明版と案内表示、右は頂上への途中で見かけた石垣です)

 城跡には5年前に2回登ったことがありますが、今回、この記事を書くに当たって、もう一度登りたいと思い城の登り口まで行きました。しかし、その先は背丈を超えるような草で、今回は登るのを諦めました。従って右の写真は5年前のものです。
 また、この石垣が築城当時からのものかどうか、はよく分かりません。
 
(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)
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