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440.『阿弥陀経』を読む(68)「弥陀経讃(3)」

20180611ウツギ   20180611ウツギ2

 親鸞聖人が『阿弥陀経』に説かれたみ教えを讃嘆された「弥陀経和讃」の3首目になります。

「第3首」 十方恒沙(ごうじゃ)の諸仏は 極難信(ごくなんしん)ののりをとき 五濁(ごじょく)悪世(あくせ)のためにとて 証誠(しょうじょう)護念せしめたり

「訳文」 すべての世界の数限りない仏がたは、自力では信じることができない他力の教えを説き示し、さまざまな濁りと悪に満ちた世のもののために、その教えが真実であると証明し、信じて念仏するものをお護りになっている。

 親鸞聖人はこの第3首で、ガンジス河の砂にたとえられるほどの多くの仏がたが、お釈迦さまの教えを間違いないものと証明し、念仏するものをお護りになるという、『阿弥陀経』の「諸仏証誠の段」を取り上げられます。

 お釈迦さまは現実の世界を「五濁悪世」と表現されています。五濁とは、社会悪がはびこり、思想が乱れ、煩悩は盛んになり衆生の質が低下する世でした。
 これは私たちが生きている現在の姿そのものだといえます。お釈迦さまは2500年前すでに私たちの姿を見通しておられました。そして、そのような五濁悪世の中で私たちが救われる道は、阿弥陀さまのお救いのお力にお任せするほかない、とお示しいただいたのです。私たち自身のいかなる努力やはからいをもってしても、私たちの根源的な迷い、苦しみから逃れることはできないとお示しいただきました。

 阿弥陀さまに全てお任せするという道は難しいことではないのですが、自分の力で、自分の努力で・・と考えてしまう私たちの思いがあることによって、そのたやすい道が困難な道になってしまう、これがまさに「難信」とされる所以でした。
 たとえが適切ではないかもしれませんが、水泳で水に浮こうと努力している姿を思い浮かべました。水に浮こうと体に力を入れてもがいていると体は沈んでしまうように感じたことがあります。力を抜いて水の浮力に任せることが分かってくると体は自然に浮いてくる(のだそうです。私は水泳が苦手で、とうとうそのことを実感することができなかったのですが)ということに似ているのかもしれません。

 昨日、山口別院でお勤めされた永代経法要でのご講師安方哲爾師のお話しが思い出されます。

 ご講師は、阿弥陀さまのお救いの力を、ビル火災で20階建ての屋上に追い詰められた人にたとえてお話しされました。
 私たちが考えてしまうお救いというのは、地上にマットを敷いて絶対に安全で大丈夫だからここに飛び降りなさい、と呼びかけられるようなものだとご講師は言われます。絶対に大丈夫だと言われても、地上に小さく見えるマットに向かって飛び降りるのは怖いこと、本当に大丈夫かと疑わしいことです。ここでは、ことは私の判断に任せられています、お救いに身をゆだねる決意を行い、実行するのは私たちなのだといわれます。
 一方、阿弥陀さま本当のお救いの姿は、この場合レスキュー車が梯子を伸ばして、レスキュー隊員が私たちを抱きかかえて救っていただく姿なのだといわれます。
 私たちが望むから救われるのではありません。救わずにはおれない私たちの姿があるから、阿弥陀さまは時には逃げようとまでする私たちを抱きかかえてお浄土にお連れいただくのだと、ご講師はお示しいただきました。

 親鸞聖人はこのご和讃によって、十方の仏がたがこの阿弥陀さまのお救いの力を間違いないことだと証明され、それをお護りされている、とお伝えいただいています。

(写真は、ウツギの花です)

 ちょっと花期を過ぎたところですが、初夏に白と緑のコントラストをヤマボウシと競っているという感じでしょうか。漢字では「空木」。茎が中空だというところからこの名前になったのだそうです。別名はウノハナ(卯の花)。童謡の「夏は来ぬ」にはこちらの名前で登場します。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)
 
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