FC2ブログ

417.歴史を訪ねる(6):咸宜園(3)

20180323真量資料   20180323真量資料2

 「歴史を訪ねる」の(1)と(2)で、大分県日田市に開設されていた私塾「咸宜園」に関する情報をお伝えしましたが、今回は、この咸宜園に壽福寺から入塾していた釋真量という人についての情報を得ましたので、現在までに分かったことを整理しておきたいと思います。

 釋真量さんに関する「入門簿」(入塾に際して作成された一身資料)には、次のような情報が記載されていました。(これは、平成26年に「咸宜園教育研究センター」の吉田さんからいただいた資料によります)
 「長州厚狭郡万倉村 壽福寺弟子 釋真量
  入門文政十一年戊子四月十九日
  紹介 釋自然」

 つまり、釋真量さんという壽福寺のお弟子さんは、釋自然さんの紹介によって、咸宜園に入塾したということが分かります。

 今回「咸宜園教育研究センター」からいただいた真量さんに関する資料には次の記事がありました。

 創塾者の廣瀬淡窓師の著『懐旧楼筆記』の文政11年の記事に、
  「文政十一年。戊子の正月。余歳四十七。咸宜園ニ在ツテ業ヲ講ス。此年入門スル者。」として56人の中に「釋真量 長門人。」という名前がありました。

 さらに、淡窓師の日記『欽斎日暦』の文政11年4月には次のような記事がありました。
  「(四月)十九日 長門僧真量入門。居塾。」
 つまり、真量さんは文政11年(1828年)4月19日に入門し、塾の施設に居住することになったようです。

 興味深いのは、その『懐旧楼筆記』の文政11年に入塾した塾生の名前の中に、「釋自然 長門人」という名前があり、その自然さんは2月に入塾されていたようで、この自然さんが真量さんを紹介した人です。2月に入塾した自然さんの紹介で、4月には真量さんが入塾したということになります。

 その真量さんですが、『欽斎日暦』には次の記事がみえます。
 (文政11年)4月27日に「改月旦評。」として、新しい級付けが記されていますが、それに加えて、真量さんほか合計6名について「入席」とされています。これは、真量さんはこの日までに成績表の「月旦評」の対象となったということを示しています。
 その後に「凡(およそ)一百三十九人。在塾生凡六十四人。」という記述がありますので、その時の塾生は139人でそのうち64人が塾に居住していたということのようです。
 センターの吉田さんのお話しでは、当時は塾生が生活する塾舎がまだ多くない状況で、在塾生の多くは地元の下宿先あるいは自宅から通学していたということです。

 その後真量さんが成績表の「月旦評」でどのように評価されたのか、という点にも興味があるのですが、現存する「月旦評」の数が少なく(個人蔵も含めて5枚しか確認されていないとのこと)、その中には真量さんの「成績」に関する資料はないようです。

 真量さんが入塾した文政11年(1828年)といいますと、壽福寺では天保5年(1834年)示寂の11代住職の顕意および天保7年(1836年)示寂の10代顕明の時代です。寺の過去帳にはお弟子さんの名前もありますが、その中に真量さんの名前は見当たりませんでした。その他の寺に関する古文書が残されていませんので、真量さんの入塾に関する寺側の背景は分からない状況です。

 もう一つ、吉田さんからいただいた情報をご紹介します。
 それは、真量さんを紹介された自然さんは、太田文安さんという人の紹介で入塾されたということです。太田文安さんは、周防佐波郡三田尻のお医者さんで、文政10年(1827年)3月6日に咸宜園に入塾されたという記録があるということです。その文安さんの紹介によって、自然さん以外にも周防、長門から多くの人が咸宜園に入塾されたようです。
 以前にもご紹介しましたように、咸宜園は紹介者あるいは保証人があればだれでも入塾できたということですので、このような形で、塾生の輪が広がっていったことを知ることができます。 

 また、入塾して以降の真量さんに関する情報(退塾とその後の情報)もいただいているのですが、その内容についてはもう少し確認して整理したいと思っています。

(図の左は、釋真量の「入塾簿」、右は「十九日 長門僧真量入門。居塾」と記された『欽斎日暦』の写しです。)
 いずれも、「咸宜園開塾200年記念事業」で記念品としていただいたものです。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)
スポンサーサイト



コメント

非公開コメント

カウンター
カテゴリ
検索フォーム
リンク
最新記事
最新コメント
月別アーカイブ
最新トラックバック
RSSリンクの表示
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR