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413.歴史を訪ねる(5):咸宜園(2)

20180305咸宜園  20180305咸宜園2

 以前ご紹介しました「咸宜園(かんぎえん)開塾200年記念」の行事が、去る2月24日、日田市の「パトリア日田」を会場に開催され、出席してきました。この「咸宜園」に壽福寺からもお弟子さんが入塾していたということを知り、咸宜園のことや入塾した釋真量というお弟子さんのことについて知りたいと思って参加したものです。
 併せて、日田市内の咸宜園に関連する資料館や史跡を見ることができ、翌日は、壽福寺の本寺であった中津市の長久寺さんや、北九州市苅田にあります旧豊前松山城跡(麓まででしたが)を訪ねることができました。

 24日の記念行事は次の次第で進められました。

 第1部「咸宜園の日」記念式典
  式典に続いて、記念講話がありました。
  講師:咸宜園教育研究センター名誉館長後藤宗俊氏
  演題:「咸宜園と門下生たち」

 第2部記念講演会
  講師:法政大学総長 田中優子氏
  演題「江戸時代の人々にとっての学び」

 第1部の記念講話や関連する資料によりますと、咸宜園は日田の実業家廣瀬家出身の廣瀬淡窓(ひろせたんそう)師が開塾したもので、約80年間に5000人を超える塾生を育てた塾でした。塾の情報はいわば口伝えに広がったようで、塾生の出身地は68の旧藩のうち63藩にわたるというように全国に広がっていました。
 遠く故郷を離れた塾生の多くは、敷地内の塾舎で起居するという共同生活を営んでいたようです。同時に在塾している塾生は200人近くになりますので、当時の地元の人口2000人に対して占める割合も大きく、いわば「学園都市」だったという紹介がありました。地元からも様々な支援(実業家の廣瀬家からの経済的な支援はもちろん、地元の民家を寮として借り上げる制度、さらにはアルバイトを提供して塾生を支援するなど)が寄せられ、また開塾者の淡窓師は地元の会合に積極的に出向いて講話をするなどの努力もあって、地元と強い結びつきを持った塾だったという紹介もなされていました。

 この塾で行われた教育の特徴は、平等主義、実力主義、実学主義に徹したことだと言われます。
 新たに入塾する者は、年齢(極端な例では10才未満で入塾した者もあったようです)やそれまでの身分、学歴を問わない(奪う)「三奪法」により、全員同じスタート地点に立ちます。
 前回の記事でもご紹介しましたように、入塾後は成績によって級の位置づけを明確にし、毎月初めにこれを公表するという「月旦評」が行われました。その昇級の様子をみてみると、入塾後3年未満で最上の級に到達するのが一番早いペースだったようで、他方同じ級に留め置きという者もあり、大きな差が生じたようです。
 また、規則正しい共同生活を送らせるために、塾を運用するための役割を全員が分担する制度があり、実務の経験を通じて社会性を養う工夫もされていました。

 しかし、そのような教育方針の根底には、塾生は自分が学びたいことを自由に学ぶことを尊重するということがありました。入塾を希望する者は、紹介者を得て適宜申し込み、学び終えたと思ったら申し出て退塾する(これは「大帰」と呼ばれていました)、あるいはしばらく塾を離れてまた戻ってくることも可能、というような運用がなされていたようです。
 塾名の「咸宜」は「ことごとくよろし」という意味で、門下生一人ひとりの個性を尊重したいという淡窓師の志をあらわすものだと紹介されていました。

 廣瀬淡窓師は江戸時代後期の三大詩人とされた人でもあり、次のような詩が残されています。

  休道他郷多苦辛
  同袍有友自相親
  柴扉暁出霜如雪
  君汲川流我拾薪

  道(い)うことを休めよ 他郷 苦辛多しと
  同袍(どうほう) 友有り 自ら相(あい)親しむ
  柴扉(さいひ) 暁に出づれば 霜 雪の如し
  君は川流(せんりゅう)を汲め 我は薪を拾わん
 
  他郷での勉学は辛いことが多いと弱音を吐くのはやめにしよう
  一枚の綿入れを譲り合って共有するほどの仲の良い友達もできて、自然と親しくなってくるものだ
  朝早く柴のしおり戸を開けて外に出てみると、真っ白に降りた霜はまるで雪のようである
  その寒さの中、朝の炊事のため、君は小川の水を汲んできたまえ、僕は雑木林の中の薪を拾ってこよう
  (このように苦しいが楽しい寮生活があるではないか)

  淡窓師が、故郷を離れて勉学に励む塾生を気遣い、力づけたいと詠まれた「休道の詩」として、地元の日田市では多くの人に親しまれているそうです。小学校でも唱和されているそうですし、今回の記念式典でも子どもたちが吟詠していました。

 ○お詫びです:この記事、作成途中の3月5日に誤って掲載してしまいました。

(写真は、「咸宜園」の跡地です)

 敷地は通りを隔てて東西に分かれており、東部分で50メートル四方近い広さを持っていました。塾生の増加に従って拡大してきたことが分かりました。
 右の写真は、「秋風庵」と呼ばれる建物で、開塾以来現存する唯一の建物だということです。 

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)
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