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409.歴史を訪ねる(4):咸宜園(1)

20180223咸宜園   20180223咸宜園2

 昨年末のことですが、大分県日田市にあります「咸宜園(かんぎえん)教育研究センター」から、咸宜園開塾200年記念事業として「咸宜園門下生子孫の集い」を開催するという案内をいただきました。
 いただいたパンフレットによりますと、この「咸宜園」は文化14年(1817年)日田市に開塾された私塾で、多くの門下生が幕末から近代にかけて活躍したということです。

 実は、平成26年の夏に「咸宜園教育研究センター」の副主幹(当時)の方が寺を訪ねて来られたことがありました。その時に、寺からも入塾した人がいるという情報をいただき、遠く豊後の私塾で学んだ人がいるということに興味を持っておりました。
 また、寺の歴史やご門徒さんとのかかわりについてもう少し知らなければいけないと思っていたこともあり、この集いに出席しようと準備をしている所です。

 いただいたパンフレットを中心に調べてみますと、この咸宜園は1817年に開塾され、明治30年(1897年)に閉塾となったもので、5000人の塾生を輩出した江戸時代としては最大規模の私塾になるのだそうです。
 門下生の出身地の資料がありましたが、九州出身者が多いのは当然ですが、九州の諸藩以外では長州藩出身者が最も多く154人となっています。周防出身者は71人と長州の半分以下ですから、長州と豊前、豊後とのつながりを思わせる構成になっています。塾の出身者として高野長英や清浦奎吾、長州からは大村益次郎の名前が挙げてありました。

 平成26年にいただいた資料によりますと、壽福寺からは文政11年(1828年)に弟子の釋真量という人が、釋自然という人の紹介(紹介によって塾生がつながり広がっていったようです)で入塾しています。そのときのお話しでは、この釋自然氏は常念寺の人だということでした。

 そのようなことで、なぜ壽福寺から日田の私塾に弟子を派遣したのか(お聞きしますと、組内には咸宜園に僧侶を派遣されたお寺も多いようです)、釋真量氏はどんな人だったのか、どのようなことを学びその後どのようにされたのか・・・などと様々な興味がわいてきました。
 
 そのようなことで、日田市訪問を楽しみにしているところです。

(写真は、いただいた「咸宜園」のパンフレットの一部です)

 左は、パンフレットの表紙で、描かれている人が開塾者の広瀬淡窓師です。

 右は、嘉永元年(1848年)6月の「月旦評」という塾生の成績を記した席次表です。毎月成績表を作成して公表していたのだそうです。
 この表をみますと、在塾者は240人、そのうち「釋」がついている人が56人いますから、僧侶の入塾者も多かったことが推測されます。その中に、釋自然という名前があります。ただ、年代からすると釋真量さんを紹介した釋自然さんとは別の人のように思われます。

 この記事を書いた日に驚いたことがありました。
 その夜、横になって「週刊文春」の連載記事「週刊藝人春秋」を読んでいましたら、この「月旦評」という言葉が出てきたのです。この連載記事は水道橋博士というタレントさんが連載されているのですが、芸能界の内幕話などが紹介されていて面白く読んでいました。その一節は、次のようになっていました。
 「そして、ボクが週刊誌ながら月を跨ぎ、月旦評として今回乗り継ぐのは「バス」ではなく、蛭子能収という「因果鉄道」だ。」「月旦評」は、蛭子能収という不思議な(?)キャラクターをどのように評価するのか、といった意味で使われているようです。「乗り継ぐ」と言っているのは、多分、3週にわたって「バス」がキーワードになっているからだと思います。
 ちなみに、「月旦」は毎月一日を意味する言葉で、「月旦(評)」は毎月初めに人を評価したという故事に由来し「人物を評価する」という意味に使われるそうです。
 この言葉、今回パンフレットを読んで初めて目にした言葉のように思いますが、その初めて出会った同じ日にもう一度出会ったことになります。忘れられない言葉になりそうです。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)
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