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392.『阿弥陀経』を読む(49)

 

[御文] 舍利弗・若有善男子・善女人・聞説阿弥陀仏・執持名号・若一日・若二日・若三日・若四日・若五日・若六日・若七日・一心不乱・
     (しゃりほツ・にゃくうぜんなんし・ぜんにょにん・もんせツあみだぶツ・しゅうじみょうごう・にゃくいちにち・にゃくににち・にゃくさんにち・にゃくしにち・にゃくごにち・にゃくろくにち・にゃくしちにち・いっしんふらん・)

[訓読] 舎利弗、もし善男子・善女人ありて、阿弥陀仏を説くを聞きて、名号を執持すること、もしは一日、もしは二日、もしは三日、もしは四日、もしは五日、もしは六日、もしは七日、一心にして乱れざれば、

[訳文] 舎利弗よ、もし善良なものが、阿弥陀仏の名号を聞き、その名号を心にとどめ、あるいは一日、あるいは二日、あるいは三日、あるいは四日、あるいは五日、あるいは六日、あるいは七日の間、一心に思いを乱さないなら、 

 しばらく空きましたが、『阿弥陀経』に戻りました。
 今回は、この段の最後「一心不乱」について学びます。

 この部分の訓読は「(名号を執持すること)一心にして乱れざれば」であり、訳文は「(その名号を心にとどめ)一心に思いを乱さないなら」で、「一心不乱に念仏することによって往生を遂げる」というように受け止めることができます。
 私たちも日常的に「一心不乱で受験勉強をする」などと使いますが、この場合はまさしく自分の努力で目標を達成しようという活動です。そのような見方でみると、この「一心」はあたかも(自力)念仏のことを説いているかのように思われる部分です。

 しかし、辻本師は、「一心不乱」に当たるサンスクリット語の原文は「心を散乱させることなく」となっているといわれます。つまり、念仏以外のものに心を乱されないこということになります。

 親鸞聖人は、『教行信証』の中で、『阿弥陀経』の「一心」について「「一」の言(ごん)は無二になづくるの言(みこと)なり。「心」の言は真実になづくるなり。」「執持はすなはち一心なり。一心すなはち信心なり。」と記されています。
 聖人は、『阿弥陀経』のお経の表面では、一心不乱の(自力の)称名念仏が説かれているように思われる部分(顕彰:けんしょう)も、その底に深く流れ隠れている真意(隠彰:おんしょう)は、他力の真実信心に他ならないのだと明らかにされました。

 親鸞聖人は、「この一心は、念仏のまことを信じて疑わず、弥陀に自己のすべてをまかせる心であって、しかもその心は如来から恵まれるものである」(瓜生津師)とされたのです。

(写真は、先日、山陽小野田市の焼野海岸で出会った夕日です)

 焼野海岸の夕日が登場するのはこれが3回目になりますが、夕日を見ていると、一日の終わりにホッと肩の力を抜くことができるような思いです。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)
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