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388.『阿弥陀経』を読む(48)

20171211西明寺紅葉  20171211西明寺紅葉2

[御文] 舍利弗・若有善男子・善女人・聞説阿弥陀仏・執持名号・若一日・若二日・若三日・若四日・若五日・若六日・若七日・一心不乱・
     (しゃりほツ・にゃくうぜんなんし・ぜんにょにん・もんせツあみだぶツ・しゅうじみょうごう・にゃくいちにち・にゃくににち・にゃくさんにち・にゃくしにち・にゃくごにち・にゃくろくにち・にゃくしちにち・いっしんふらん・)

[訓読] 舎利弗、もし善男子・善女人ありて、阿弥陀仏を説くを聞きて、名号を執持すること、もしは一日、もしは二日、もしは三日、もしは四日、もしは五日、もしは六日、もしは七日、一心にして乱れざれば、

[訳文] 舎利弗よ、もし善良なものが、阿弥陀仏の名号を聞き、その名号を心にとどめ、あるいは一日、あるいは二日、あるいは三日、あるいは四日、あるいは五日、あるいは六日、あるいは七日の間、一心に思いを乱さないなら、

 今日は、「若一日・若二日・若三日・若四日・若五日・若六日・若七日」の部分について学びます。
 今回の部分を、前回学びました「執持名号」と次に出てきます「一心不乱」と併せて読みますと、お釈迦さまは「心を乱すことなく、若一日、~若七日、名号を執持すれば」と説かれます。

 この「若一日、~若七日」をどのように理解するのかということについて様々に理解がなされたとお聞きしました。
 七日までの間一心不乱に念仏を称えることをいっているのだという解釈がなされた一方、「若(もしは)」の語に注目して日時を限らずに一生涯称えることをいっているのだという解釈もあったようです。
 これに対して、法然聖人は、経典のことばは一日から七日と特定の日数を説いているようだが、日時を限らず一生涯称える念仏のことだと領解された、と瓜生津師は記されています。
 第十八願に「乃至十念」の念仏が誓われていますが、この「乃至十念」は十ぺんの念仏に限らず、一声の念仏でも一生涯の念仏であっても、その多寡は影響がない、と理解されます。

 法然聖人は、お念仏を往生の因とされたのですが、法然聖人ご存命中から、往生に必要なお念仏の多寡について論争があったということです。一念多念の諍論(じょうろん)と呼ばれる論争なのですが、親鸞聖人はこの論争に対して、一念か多念かというお念仏の多寡にこだわるべきではない、とされ、お念仏の根底にある信心が往生の因であるとされたと伺いました。

 ということは、お念仏を称える回数の多寡が往生の条件ではない、ということです。さらには、回数に関わらず私がお念仏を称えたからそれが因となって往生を得ることができる、ということではないということです。煩悩に苦しみ、抜け出せずにいる私を救い摂らずにはおられない、私に任せよ、と呼びかけていただく阿弥陀さまの声がお念仏となり私に届いていただいたことが、南無阿弥陀仏のお名号だということです。それが阿弥陀さまから私に向けられた信心だと、親鸞聖人はお示しいただいたのだと思います。
 そこでは、「私が称えるお念仏」から「私に届いていただいているお念仏」に、主体が入れ替わるということになります。決して、私が信心をもってお念仏申し上げたから、それで阿弥陀さまが私の方に向いていただいたのではなくて、阿弥陀さまは既に私のことを救わねばならない存在だと声をおかけ続けていただいていたということになります。
 そしてまた、南無阿弥陀仏のお念仏は、間違いなく救うという阿弥陀さまの願い対する感謝の想いが私の声になってあらわれ出たものでもあり、これを「称名報恩」とお呼びしています。

(写真は、京都の高尾にある西明寺の紅葉です。11月中旬の写真です)

 西明寺(さいみょうじ)は真言宗のお寺で、近くの清滝川(右の写真です)周辺も含めて紅葉の美しいところです。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)
 
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