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384.『阿弥陀経』を読む(46)

20171127室生寺紅葉2   20171127室生寺紅葉

[御文] 舍利弗・若有善男子・善女人・聞説阿弥陀仏・執持名号・若一日・若二日・若三日・若四日・若五日・若六日・若七日・一心不乱・
     (しゃりほツ・にゃくうぜんなんし・ぜんにょにん・もんせツあみだぶツ・しゅうじみょうごう・にゃくいちにち・にゃくににち・にゃくさんにち・にゃくしにち・にゃくごにち・にゃくろくにち・にゃくしちにち・いっしんふらん・)

[訓読] 舎利弗、もし善男子・善女人ありて、阿弥陀仏を説くを聞きて、名号を執持すること、もしは一日、もしは二日、もしは三日、もしは四日、もしは五日、もしは六日、もしは七日、一心にして乱れざれば、

[訳文] 舎利弗よ、もし善良なものが、阿弥陀仏の名号を聞き、その名号を心にとどめ、あるいは一日、あるいは二日、あるいは三日、あるいは四日、あるいは五日、あるいは六日、あるいは七日の間、一心に思いを乱さないなら、

 前回に続いて、この御文について学びます。

 今回は、「聞説阿弥陀仏」です。
 この部分の訓読文は「阿弥陀仏を説くを聞きて」となっており、訳文は「阿弥陀仏の名号を聞き」となっていますが、この訳文は訓読文を直接訳した言葉になっていないように見えます。なぜ「阿弥陀仏を説くことを聞く」が「阿弥陀仏の名号を聞く」になっているのかということについて考えてみたいと思います。

 まず、『浄土真宗辞典』で「名号」をたずねますと、「(名号は)阿弥陀仏の名を指し」、「南無阿弥陀仏を六字の名号」とし、「(親鸞聖人は、)名号が仏の衆生救済の願いのあらわれであり、摂取して捨てないという仏意をあらわす本願招喚の勅命であること、すなわち、仏の衆生救済の力用(りきゆう:働き)である本願力そのものが名号であると示している」とあります。
 つまり、「名号」は、阿弥陀さまのお名前であり、「南無阿弥陀仏」になって私たちの届いていただいている、阿弥陀さまからの呼び声であり、私たちを救うそのお力(本願力)のことでもある、ということが示されています。

 瓜生津師によれば、玄奘三蔵が訳された『称讃浄土教』では、この部分は「かくの如きの無量無辺不可思議の功徳の名号と、極楽世界の功徳荘厳を聞く」つまり、阿弥陀さまの無量の功徳にみちた名号と極楽浄土の功徳の荘厳のことを聞く、こととなっているということです。お釈迦さまが説かれた、阿弥陀さまの極楽浄土の姿と阿弥陀さまの功徳、つまりは阿弥陀さまの名号を聞くことになります。
 さらに、中村元氏によれば、サンスクリット原典ではこの部分は「かの世尊・無量寿如来の名を聞き」となっていて、まさに「阿弥陀仏の名号を聞く」となっているということです。

 さらに、辻本敬順氏は『阿弥陀経のことばたち』の中でこの「聞説阿弥陀仏」を説明する項で、何を聞くのか、という問いをたてられ、「仏願の生起本末」を聞く、という言葉を記されています。つまり、阿弥陀さまが、苦しみ悩む私たちをどうしても救わずにはおれないと願を起こされた由来と、その願を成就されて私たちを救済しつつあるお姿を、聞くのだ、と記されています。

 以上のように、「阿弥陀仏の名号を聞く」、ということは、阿弥陀さまのおられるお浄土について聞くことであり、阿弥陀さまの限りない光明と限りない命について聞くことであり、苦しむ私たちを救うために阿弥陀さまが願を立てられた由来を聞くことであり、その願を成就された姿とお力について聞くことであり、私たちに「我に任せよ」と呼びかけられる声「南無阿弥陀仏」を聞くことでもあります。

 また、この「聞く」とは、単に耳に聴こえるということではなくて、親鸞聖人が『教行信証』で、「衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。」と説かれたように、それがそのまま「信」となるべき「聞」だということになります。
 
(写真は、室生寺の紅葉です。)

 奈良県宇陀市にある室生寺は、紅葉やシャクナゲ、新緑、冬景色と四季それぞれに違った姿を見せてくれるお寺です。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)
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