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364.『阿弥陀経』を読む(39)

20170922ハイビスカス2   20170922ハイビスカス   20170922フウリンブッソウゲ

[御文] 舍利弗・彼仏光明無量・照十方国・無所障礙・是故号為阿弥陀 
    (しゃりほツ・ひぶツこうみょうむりょう・しょうじっぽうこく・むしょしょうげ・ぜこごういあみだ)

[訓読] 舎利弗、かの仏の光明無量にして、十方の国を照らすに障礙(しょうげ)するところなし。このゆゑに号して阿弥陀とす。

[訳文] 舎利弗よ、その仏の光明には限りがなく、すべての国々を照らして何ものにもさまたげられることがない。それで阿弥陀と申しあげるのである。

 お釈迦さまは、ここから阿弥陀仏という名前の由来を説かれます。

 サンスクリット語では「ア」は否定を、「ミタ」は「量る」ということを表し「アミタ」は「量ることができない:無量」という意味となり、「アミターバ」が「無量の光」、「アミタユース」が「無量の命」を表すのだと教わりました。お釈迦さまは、この「無量の光」と「無量の命」を備えた仏を阿弥陀仏とお呼びするのだと説かれます。

 お釈迦さまは、その無量の光について、その光は限りがなく、すべての国々を照らしてさえぎるものもないと説かれます。
 お正信偈の中に阿弥陀さまの働きを十二の光明で表した「十二光」がありました。その最初の3つが無量光(量る知ることのできない光)、無辺光(辺際なく照らす光)、無礙光(さえぎられることのない光)でした。
 阿弥陀さまの光は、私たちがどこにいようとも、私たちがそのことを意識していないときでも、いつでも私たちを照らしていただき、私たちは見守られ、育てられています。
 瓜生津隆真氏は『聖典セミナー 阿弥陀経』で「私たちの心の闇を照破し、私たちの心を豊かに育てる光によって、私たちは迷いの世界から悟りの世界へ、欲望や愚かさにみちた凡夫の世界から、智慧と慈悲とが欠けることなく完成している仏の世界へいたることができるのです」と記されています。

 善導大師は、『往生礼賛』の中で、阿弥陀さまの光明について、次のように説かれていると学びました。
 「かの仏の光明は無量にして十方国を照らすに障礙するところなし。ただ、念仏の衆生を観そなはして、摂取して捨てたまはざるがゆゑに阿弥陀と名づけたてまつる」(『注釈版聖典七祖徧』P662)

 親鸞聖人は、この言葉を受けられて和讃をおつくりになりました。
 「十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなわし 摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる」
 このご和讃は、『宗祖讃仰作法(音楽法要)』にも取り入れらていて、大変に印象に残るご和讃です。
 親鸞聖人は、このご和讃の「摂取」という語に次のような左訓(注釈)を付しておられます。(本願寺出版社刊『三帖和讃(現代語版)』による。原文はカタカナです)
 「おさめとる ひとたびとりてながくすてぬなり せふはものヽにぐるをおわえとるなり せふはおさめとる しゅはむかえとる」
 聖人はこのご和讃で、阿弥陀さまの光明は、私たちを見守りお育ていただき、煩悩に苛まれている私たちを救いとっていただき、私たちが逃げようとしても決して逃すことなく、ひとたび救いとられたら永久に捨てられない、そのような光明なのだと讃嘆されています。
 
(写真は、ハイビスカスの花です。)

 花の写真では前回がムクゲ、その少し前にフヨウと、アオイ科フヨウ属に分類される花が2回登場しましたが、このハイビスカスも同じ仲間です。
 フヨウ属の属名(学名)がHibisucusですからハイビスカスは文字度通り「本家筋」に当たるということになりましょうか。

 和名はブッソウゲ(仏桑華)です。原産地(?)の中国で「扶桑」と呼ばれていたものが日本に渡来して、仏前に供えることもあって「仏桑華」となったのだそうです。
 右の花はフウリンブッソウゲ(風鈴仏桑華)と呼ばれる近縁種です。花弁に深い切り込みが入り、下向きに咲きます。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください。) 
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