FC2ブログ

354.ご紹介します(16):「訳せない日本語~日本人の言葉と心~」

20170818本s   20170818本2s

 今回の「ご紹介します」は、「訳せない日本語~日本人の言葉と心~」という本です。

 この本は、大來 尚順(おおぎ しょうじゅん)さんという方が著された本です。大來さんは山口市徳佐の超勝寺という浄土真宗本願寺派のお寺のご出身で、大学卒業後アメリカで研究をされ、現在では英語を駆使され国内外を通じて伝道活動をしておられる方です。
 また、これは後から知ったのですが、TVの「ぶっちゃけ寺」という番組にも出演されているそうです。

 この本は次の4つの章で構成されていて、その中で24の「翻訳しにくい(できない)日本語」が取り上げられます。
  第1章 あいさつの言葉に隠された暖かな思い
  第2章 何気なく使う言葉に含まれる「和」の心
  第3章 日本人の心に根ざした言葉
  第4章 日本文化に育まれた奥深い言葉

 第1章の最初に取り上げられた2つの言葉は「いただきます」と「ごちそうさまでした」です。
 この「いただきます」「ごちそうさまでした」は、料理を準備していただいた方への感謝の言葉として翻訳すると大事なものが抜けてしまいそうだと、大來さんは言われます。
 私たちは、私たち自身の命を維持するために他の命、動物や植物の命、かれらが生きている環境の命を「いただ」かなければ生きていけない存在なのです。従って「いただきます」は「命をいただきます」ということになります。そうすると「ごちそうさまでした」も、走り回って(馳走して)食材を準備していただいたことに対するお礼にとどまらず、いただいた命、に対するご恩を謝する言葉となります。
 私たちが称える「食前のことば」にも「多くのいのちと、みなさまのおかげにより、このごちそうをめぐまれました・・」と、まさにそのことが言われています。
 考えてみますと、私たちが自分の命を維持するために他の命をいただいているのだということを実感することが少なくなっています。魚も肉も調理され、野菜もきれいに洗われて店頭に並んでいて、私たちが命をいただいているという実感をもちにくくなっています。そのことをいつも思い返すことの大切さを思いますし、「もったいない」(この言葉も第3章にとりあげられています)という言葉の深い意味も理解できるように思います。そして何よりも、直接命にかかわっている方々への感謝の気持ちをひと時も忘れないことが大事なことだと、改めて思います。

 第3章では「おかげさまで」という言葉が取り上げられていました。「ご家族はお元気にされていますか」「おかげさまで元気にしています」という時の「おかげさま」です。これも翻訳しにくい言葉なのだそうです。
 話をしている当の相手に対して「おかげさま」と感謝しているだけではない、「おかげさま」がそこには感じられます。
 大來さんは、この言葉には自然の中で生き抜いてきた日本人の感性が込められているといわれます。地震など自然災害が多い環境の中で、日本人は自然には逆らうことができない力があるということを理解していて、そこには「良し悪しの区別無く、すべての現象は人の力ではなく、目には見えない力によってもたらされているという『人の驕(おご)り』をかき消す精神が流れている」とされます。
 そのような精神は、仏教思想にも通じるところがあって、「諸々の法(物事)には、我は無い(何一つとして独立して存在していない)」という「諸法無我」の仏教の大切な教えと違和感なく合致したのではないかと言われます。
 自然と自身を区分し、自然を解析し利用し、時には自然と対決するという西欧流の自然観とは違った、日本人の古来の自然観が外国から入ってきた仏教思想と融合して日本人の世界観を形成してきたということになるのでしょうか。「おかげさまで」は相手も含めた私たちのいる世界の中で、自然現象も含めてお互いに依存しあいながらの「おかげさま」であるということを思いました。

 最近の、少なくとも昔にはなかった「若者ことば」(と私が感じているもの)も2つほど取り上げられていました。それは「お疲れさま」(第1章)と「微妙」(第3章)という言葉です。

 「お疲れさま」は、顔を合わせたときの仲間の間の挨拶の言葉として使われているようです。もう何年も前になりますが、最初にこの言葉をかけられた時は、「え?別に仕事もしていないのになあ・・・」という妙な感覚を感じましたが、大來さんはこの言葉には「相手を思いやる気持ち」が表されているとされます。
 友人や同僚に出会ったときに、やはり何かひとこと声をかけたいと、私たちは思います。アメリカだと「ハーイ」、日本ならば「やあ」でしょうか。そのようなときに、相手をねぎらい思いやる「お疲れさま」といいう言葉が使われ、それは仏教用語でもある「和顔愛語」にも通じるもので、人間関係での「和」を作り出すことになると、大來さんは言われます。
 これはなるほど、とうなずかされるものがあります。

 もう一つの「微妙」ですが、「こんな案はどうでしょうか?」「うーん、微妙ですね」という感じでしょうか。
 大來さんは、この言葉は「ダメとは言いにくいものに、やんわり否定的なニュアンスを含めながらも、全否定はしない」という優しい気遣いの言葉だとされています。若い人たちの会話の中でこの「微妙」が使われているのを聞いて、どうやら上のような意味ではないか、と推測したことを思い出します。

 複数の国語辞典で「微妙」を調べてみました。大きくは2つの意味があるようです。(1988年 三省堂『大辞林』)
 1.「なんともいえない味わいや美しさがあって、おもむき深いこと」
 2.「はっきりととらえられないほど細かで複雑なこと」
 おもしろいのは、同じ『大辞林』の第3版(2006年)では、1.と2.はほぼ同じ記述があるのですが、2.の記述の後に次の言葉が付記されています。
 [自分の意見や判断をはっきり言いたくない場合や、婉曲に断ったり否定的に言ったりする場合に用いることがある]として、次の例文があげてありました。「日曜日は来られる?」「ちょっと微妙ですね」
 どうやらこの時期に、「微妙」の新しい使い方が一般的になってきたようです。

 大來さんも書かれていますが、「微妙(みみょう)」はもともと仏教用語で、「仏教の真理・教えやそれを悟る智慧の深遠ですぐれたさまを形容する語」(岩波仏教語辞典)でした。いま、学んでいます『阿弥陀経』にも「微妙香潔(みみょうこうけツ)」とあるよう経典にはよく使われる言葉だと伺いました。
 そして、これが上の1.の意味に使われるようになり、「なんともいえない」というところを受けたのでしょうか、2.の意味を加え、そして「若者ことば」になったものと思われます。

 仏教の教えが私たちの生活の中に深く浸透するに従って、多くの仏教用語が日常用語になりましたが、その中で仏教用語の意味するものが変遷していった実例のように思われます。
 大來さんが言われるように「微妙」は日本的な気遣いの言葉だと思いますが、「日本語には微妙(!)なニュアンスがあって難しい」とされる原因にもなりそうです。

(写真は、その本です。右の帯に取り上げられた24の言葉が記されています)

 大來さんは一昨年『英語でブッダ』という本を出されています。仏教用語を英語に翻訳されたもので、『正信偈』の翻訳も掲載されています。
 この本を読んで思ったのですが、英語に置き換えることによって仏教用語の意味するところがはっきりするということもあるようです。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください。)
 
スポンサーサイト



コメント

非公開コメント

カウンター
カテゴリ
検索フォーム
リンク
最新記事
最新コメント
月別アーカイブ
最新トラックバック
RSSリンクの表示
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR