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326.『阿弥陀経』を読む(19)

20170512鎌倉大仏  

「御文」 舍利弗・彼土何故・名為極楽・其国衆生・無有衆苦・但受諸楽・故名極楽
    (しゃりほツ・ひどがこ・みょういごくらく・ごこくしゅじょう・むうしゅく・たんじゅしょらく・こみょうごくらく)

「訓読」 舎利弗、かの土(ど)をなんがゆゑぞ名づけて極楽とする。その国の衆生、もろもろの苦あることなく、ただもろもろの楽を受く。ゆゑに極楽と名づく。

「訳文」 舎利弗よ、その国をなぜ極楽と名づけるかというと、その国の人々は、何の苦しみもなく、ただいろいろな楽しみだけを受けているから、極楽というのである。

 前回までに、お釈迦さまは、極楽と名づけられるお浄土に阿弥陀さまがおられて、遠い昔から今現在も説法をされていると説かれました。
 今回、お釈迦さまはこのお浄土の地がなぜ極楽と名づけられたのか、その由来を示されます。

 今回のお釈迦さまの言葉は「舎利弗」で始まります。以前にも書きましたが、お釈迦さまはこの『阿弥陀経』の中で、何回も何回も「舎利弗よ」と呼びかけておられます。その呼びかけは合計で35回にもなるのだそうですが、今回がその最初の呼びかけになります。
 これも以前に書きましたが、この「舎利弗よ」という呼びかけは、そこで説法を聞いておられたお弟子さん方への呼びかけでもあり、それはまた現在の私たち、時代は変わっても同じ苦しみにとらわれている私たちに対する呼びかけでもあります。

 お釈迦さまはまず、「その国の衆生、もろもろの苦あることなく」と説かれます。極楽浄土の人々には何の苦しみもないのだと説かれます。
 中村元氏の翻訳されたサンスクリット本ではこの部分は、「(さて、シャーリプトラよ、そなたはどう思うかーこの世界はどうして<幸あるところ>と言われるのであろうか。シャーリプトラよ。)実にかの<幸あるところ>という世界には、生ける者どもの身体の苦しみもないし、心の苦しみもない。」とされています。(シャーリプトラは舎利弗さんのこと、<幸あるところ>とは極楽を示します)
 「もろもろの苦」というのは、身と心の両方の苦しみを指しているということが分かります。瓜生津師は曇鸞大師のお言葉を引いて「心の悩みとは、是非、得失、三毒など」されています。物事が正しい、間違っているとか得だ損だという自分中心のものの見方、それに貪欲・瞋恚・愚痴という三つの代表的な煩悩、が心の悩み、苦であるということになります。
 これに体の苦も合わせて考えますと、「もろもろの苦」とは、私たちが生を受け、生きて、命の終わりを迎えるまでの過程で出遭うあらゆる悩みということになります。極楽浄土ではこれらの悩みから自由になれるのだと説かれています。

 ついで、お釈迦さまは、その国の衆生は「ただもろもろの楽を受く」と説かれます。この楽も、この世のいわゆる「楽しみ」を超えた楽を示しています。
 瓜生津師は、この楽は「地上の幸せを超えたこのうえない涅槃(ねはん)の楽しみを含意しているのです。」とされて、曇鸞大師が示された三種の楽を示されています。
 その三種の楽とは、この世の楽しみである「外楽(げらく)」、精神的な楽しみである「内楽」とその二つを超え仏法を味得する「法楽楽(ほうがくらく)」です。最初の二つの楽は時としてそれを得るために争うこともあり、またそれを失うことによる悲しみや喪失感を生じることもある楽ですが、法楽楽は仏法に遭えた楽しみであり、仏から私にいただいた楽しみでもあり、それには得失も悲しみを生じることはない、そのような楽なのです。
 お釈迦さまは、極楽浄土では衆生はそのような涅槃の楽しみも受けていると説かれているのです。

(写真は、鎌倉の大仏さんです)

 この大仏さんは坐像の阿弥陀さまで、高徳院という浄土宗のお寺のご本尊です。鎌倉時代に造像されたとされ、坐像で両手を膝の上で組んでいるところから、真言もしくは天台の信仰による造像だとされています。

 阿弥陀さまの像で、思い出したことがあります。
 だいぶ前になりますが、NHKの大河ドラマの「軍師官兵衛」の中で、石山本願寺の様子を映した場面がありました。その時に映っていたご本尊が坐像になっていたのに気づいた方がNHKに間違いを指摘され、NHKはその誤りを認めたということが話題になりました。
 私もその場面をテレビで見ていたはずなのですが、気づかずにいました。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)
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