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313.ご紹介します(14):「医者が仏教に出遭ったら」

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 昨年の10月末以来ですから、久し振りになりますが書籍をご紹介します。

 タイトルは「医者が仏教に出遭ったら」、田畑正久氏が書かれた本です。田畑氏は昨年、山口教区の総代会主催の公開講座で「医療現場に携わる仏教」という演題でお話をいただいた方です。

 この公開講座で、氏は現在の医療が抱えている問題点が患者と医療従事者の両方にその因があることをお話しされました。患者の意向とは関係なく、時には患者の苦痛も無視して進められる医療は、死は避けたいものとして長寿を尊ぶ私たちと、患者の命を救うことが第一の使命だとして技術を発達させてきた医療の、その両方が相まって問題を大きくしているというご指摘でした。

 氏は、「老病死」を受け入れたくないとする私たちの意識が問題の根底にあると指摘されます。今よりももっと良くなる未来があるはず、と考えれば「老病死」はそれを絶望的にするものだということになり、「死の先には何もない、死んだらしまい」と考えると、死はなんとしても避けなければならない最悪の事態ということになります。
 しかしこのように「老病死」を避けたいと考えている私たちも、不老長寿が本当にいいのかと、問われると首をかしげる。ことになります。田畑氏次のように書かれます。
 「そこそこ健康な高齢者に『不老長寿が実現できるとしたらそれはよろこびですか』と質問してみると、多くの反応は『こんな状態がずーっと続くの?』と戸惑いの表情を示されます。不老長寿が、必ずしも生きることを輝かせるとは限らないということです」
 生きていることを輝かせるのは、私たちが病を得、老いそして死んでいく存在なのだということ、しかし死んだらおしまいという存在ではないのだということをしっかりと受け止めて、そのうえで今を力いっぱい生きることなのだと思います。

 田畑氏は、医療の高度化、細分化が患者さんを全人格的にみることの障害になっていると言われます。
 「生きる・死ぬに関わる病気のときは、人間全体や人生全体のことを考える必要が出てきます。」「根本的な治癒が期待できないような場合は、どうしても患者の人生観、価値観、病気観、死生観との調整が必要になってきます。」
 前回の講演会でも触れておられましたが、回復の見込みのない患者さんにどのような治療を行うのか、という問題に関わってきます。
 この本の中で、胃瘻という治療方法が紹介されていました。胃に管を設置して口を経ずに体外から栄養を注入する方法なのだそうです。食べることができない急場をこの胃瘻でしのいで、後に社会復帰できた患者さんもおられるのだそうですが、大多数の患者さんはその後加齢などで合併症を起こし全身状態が悪くなっていというケースが多いとされていました。胃瘻により多くの高齢者が生命を伸ばすことはできたでしょうが、患者さん自身がそれを望んでおられたかどうかは不明のことが多いのだそうです。
 田畑氏は「患者さんのその後の経過を知るようになると、胃瘻をつくる医師のほとんどが『自分にはつくってほしくない』と言っているという本音を聞く機会がありました。」と書いておられます。
 人工呼吸器もそのように思いますが、患者さん自身がその治療による延命を望んでいるのかどうか、ということが考えられていないケースや、患者さんの周りの方が「患者さんのため」だとして(「私たちは患者のためにここまでしてきました」として)、そういう対応となる場合もあります。

 もちろん、医療技術の進歩は、患者さんを病いの苦痛から救いたいという医療関係者の強い使命感から成し遂げられたものだということは間違いのないことです。その技術が極めて高度化した現在、私たちの生命観、生老病死という「苦」に向かってどのように生きるのかという根源的な問題と関わるところにまで達したということのように思えます。
 
 生老病死に向き合う私たち、あるいは患者を見守る立場に立っことになる私たちは、この問題について改めて考えてみる必要があると思いました。

(本は、本願寺出版社から発行されています。)

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)
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