FC2ブログ

283.お正信偈を読む(59):依釈段(36)/源空讃(3)

 

20161212夕日s
  

 「お正信偈を読む」は源空讃の第3回目になります。

[御文] 還来生死輪転家 決以疑情為所止 (げんらいしょうじりんでんげ けっちぎじょういしょし)

[訓読] 生死(しょうじ)輪転(りんでん)の家に還来(かえ)ることは、決(けつ)するに疑情(ぎじょう)をもつて所止(しょし)とす。

[訳文] 「迷いの世界に輪廻し続けるのは、本願を疑いはからうからである。・・・

 本日2句とと次回の2句は、法然聖人が『選択本願念仏集』で「まさに知るべし、生死の家には疑をもって所止となし、涅槃の城(みやこ)には信をもって能入となす。」と説かれたことを承けたものです。
 この4句は、本願を信じるか疑うかによって往生できるかどうかが決まるということを明らかにされた部分で、「信疑決判」と呼ばれる偈文です。

 文中の「生死輪転の家」は、幾度となく生死を繰り返し、車の輪が回るように六道の迷いから抜けることのない世界を示します。ネズミでしたか、クルクル回る輪の中で走り続けている姿を思い浮かべさせる言葉です。 
 法然聖人は今回の2句で、本願を疑い、自力の計らいを求めるものには、永遠に迷い続ける道しか残されていないということを説かれています。

 すでに学びましたように、法然聖人は念仏を選びとって往生の道とされ、それ以外の諸行を捨てるようにお勧めになりました。なぜ聖人は念仏を選びそれ以外の諸々の行を捨てるように勧められたのでしょうか。

 聖人はその理由として「勝劣」と「難易」を挙げられたと伺いました。
 念仏は勝れた功徳、価値を持っており諸行は劣っている、また念仏は修するに易しいが諸行は難しいのだとされました。「南無阿弥陀仏」の名号にあらゆる徳がおさまっている念仏は勝れた行であり、老若男女を問わず、だれでもどこででも称えることができる易しい行なのだとお示しになりました。

 それまでの浄土教は、戒律を守り難しい修行をすることによって往生を願う教えであり、そのような修行が難しい人のために「やむなく」易しい称名念仏があるのだとされていたとお聞きしています。そこでは、難行こそが勝れた行であり、易しい称名念仏は劣った行だとされていました。
 これに対して法然聖人は、その考え方を逆転して易しい行こそが勝れた行であるとされたのです。
 聖人は、阿弥陀如来ご本願は一切の衆生を等しく救うというものであるから、難しい行ではなくただ念仏一行だけが往生のための行だとされたのです。
 聖人ご在世当時の、戦乱と天災に翻弄され望みを見出せない人々を前にして、この教えこそが衆生を等しく救う道だと確信をされたのだと思います。

(写真は先日通りかかった山陽小野田市郡梶付近から見た夕日です)
 この場所では小高くなった道路から瀬戸内海を眺めることができます。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)
スポンサーサイト



コメント

非公開コメント

カウンター
カテゴリ
検索フォーム
リンク
最新記事
最新コメント
月別アーカイブ
最新トラックバック
RSSリンクの表示
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR