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279.お正信偈を読む(57):依釈段(34)/源空讃(1)


20161128源空聖人
 

 「お正信偈を読む」は七高僧の第七祖、浄土宗の開祖源空聖人です。

[御文] 本師源空明仏教 憐愍善悪凡夫人 (ほんしげんくうみょうぶっきょう れんみんぜんまくぼんぶにん)

[訓読] 本師源空(げんくう)は、仏教をあきらかにして、善悪の凡夫人を憐愍(れんみん)せしむ。

[訳文] 源空上人は、深く仏の教えを極められて、善人も悪人もすべての凡夫を哀れんで、・・・

 源空聖人(法然聖人)は、1133年美作の国に生れられました。第六祖源信和尚が入滅されてから116年後です。
 聖人の父はこの地の治安を担当する豪族でしたが、聖人が9歳の時に暗殺されるという悲劇に遭われます。父は臨終に際して、決して敵を恨んで復讐をするようなことは考えないように、という遺言を聖人に残されました。

 聖人は父の遺言に従って、出家され菩提寺に入られました。菩提寺の師は若き聖人の明晰なことを感知し、聖人を伴って比叡山に登られ、聖人は比叡山で天台の学問を学ばれました。しかし、聖人はその学問の中では安住の光を見出すことができず、奈良や洛外の諸師を訪ねられ、生死を超える道を求められました。聖人が求められていたものは、聖者のみならず凡夫も等しく浄土に生れることができる道だったのですが、聖人が訪ねられた諸師からその答えをえることはできなかったと伺いました。

 そのような中、聖人は善導大師の『観経疏』の「散善義」の「一心にもつぱら弥陀の名号を念じて、行住坐臥に時節の久近を問はず念々に捨てざるは、これを正定の業と名づく、かの仏の願に順ずるがゆゑなり。」の文に出遭われ、善導大師の称名念仏の教えに帰依されることとなりました。
 
 その後、聖人は比叡山を降りて東山の吉水に庵を設けられて、あらゆる階層の人に浄土念仏の教えを広められました。
 時代は、貴族による統治が弱体化し武士が台頭した時代です。天災、飢饉、疫病の流行などで人々が不安におののいていた時代でもあります。このような混乱を極める時代に対して、南都(奈良)や北嶺(比叡山)の在来の仏教は人々を救う力を失っていたと伝えられます。
 そのような中、男女や階層に関わりなく全ての人々が念仏によって救われると説かれた法然聖人の教えは乾いた土に水が吸い込まれるように急速に広がり、聖人の庵は多くの信者が集う念仏の場となっていきました。

 親鸞聖人がこの法然聖人のもとを訪ねられたのは1201年、親鸞聖人29歳、法然聖人69歳の時と伝えられています。親鸞聖人はその日から百日の間毎日法然聖人の庵に通い教えを聞かれて、ついに20年を過ごされた比叡山を降りられ源空聖人の門に入られました。

 法然聖人は、これに先立つ1198年、求めに応じて『選択本願念仏集』を著されました。その中で、法然聖人は、称名念仏こそが阿弥陀仏によって選ばれた衆生往生のための行であり、聖道門の自力の修行は阿弥陀仏が選び捨てたものだということを示されました。法然聖人はこの教えが在来の各宗から反発を受けるものだということを認識しておられ、この書を他人に見せないようにと指示されていたと伝えられています。
 しかし、法然聖人のこの教えは在来の各宗から猛反発を受けることになり、その後の聖人師弟の長きにわたるご苦労の因ともなるものでした。 

(写真は、寺の源空聖人のご絵像です)

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)
 
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