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278.お正信偈を読む(56):依釈段(33)/源信讃(4)

20161125高瀬湖 

 前回に続く源信讃の最後の3句です。

[御文] 我亦在彼摂取中 煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我
    (がやくざいひせっしゅうちゅう ぼんのうしょうげんすいふけん だいひむけんじょうしょうが)

[訓読] われまたかの摂取(せっしゅ)のなかにあれども、煩悩、眼(まなこ)を障(さ)へて見たてまつらずといへども、大悲、倦(ものう)きことなくてつねにわれらを照らしたまふといへり。

[訳文] 「・・わたしもまた阿弥陀仏の光明の中に摂め取られているけれども、煩悩がわたしの眼をさえぎって、見たてまつることができない。しかしながら、そのようなわたしを見捨てることなく常に照らしていてくださる」と述べられた。

 今回の3句は、源信和尚が著された『往生要集』の中の次の御文によるものと伺いました。
 「我亦在彼摂取之中 煩悩障眼雖不能見 大悲無倦常照我身」

 親鸞聖人はこの御文を解して「すべてのものを摂め取ってお捨てにならないという阿弥陀仏の慈悲のお心をあらわしておられるのであり、『観無量寿経』に説かれている「念仏衆生摂取不捨(念仏の衆生を摂取して捨てたまわず)」の意味を源信和尚は解き明かしておいでになると知るがよいということである。」と説かれています。

 前回の1句で、源信和尚は、五逆十悪の「極重の悪人」(である私たち)はただ阿弥陀如来の名号(念仏)を称えることによる以外に救われる道はないと示されました。
 そのような私たちは阿弥陀如来の救いの光明の中に摂め取られているのですが、私たちは煩悩に邪魔されることによってそのことに気づかずにいます。しかしそのような私たちも阿弥陀如来の光は届き、私たちは護られているのだと源信和尚は示されているのです。

 親鸞聖人の750回大遠忌に当たって制定された「宗祖讃仰作法 音楽法要」に取り上げられた次の和讃(高僧和讃)はこのお心を表されたものです。
 「煩悩にまなこさえられて 摂取の光明みざれども 大悲ものうきことなくて つ子にわが身をてらすなり」
 和讃とそれに続く念仏の部分は特に印象深く残っています。

 また、この「無倦」という言葉は個人的にも印象に残っている言葉です。
 大阪の津村別院に中央仏教学院通信教育同窓会大阪支部という組織があって活発に活動されています。その機関誌のタイトルが「無倦」で「煩悩にまなこさえられて・・・」のこの和讃のおことばが表紙になっています。

 この同窓会大阪支部では、通信教育の受講者を対象にして「つどい」学習会が開催されています。もう10年以上前になりますが、私も専修過程を受講する3年間この学習会でお世話になりました。毎月2回ほぼまる一日、役員の方々の手作りのテキストを教材にして学科の指導をしていただき、また声明の実地の指導もしていただきました。
 皆勤というわけにはいきませんでしたが、会社員の生活の傍らの学習会で、年齢も様々な受講者の方々と一緒に学ぶことができた3年間でした。

 そのようなこともあって、機関誌の「無倦」を送っていただくたびに感謝の気持ちとあわせて当時のことをなつかしく思い出しています。

(写真は、周南市の高瀬湖の紅葉です。前回の紅葉谷と同じ日に訪ねました)

 この高瀬湖には初めて行ったのですが、周囲の山々の紅葉が水面に映り息をのむような光景でした。他に人影もなく、この景色を独り占めした思いでした。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)
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