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270.公開講座「医療現場に携わる仏教」

20161028田畑氏 (2)

 昨日10月26日、山口教区総代会主催で開催された公開講座に参加しました。

 ご講師は田畑正久氏で、「医療現場に携わる仏教」というテーマでお話をいただきました。
 田畑氏は外科医として医療現場でご活躍しておられる方ですが、九州大学在学中に仏教の師となる細川巌師に出遭われ、以後浄土真宗のみ教えとともに医療の道を進まれた方です。
 現在は病院長として病院の運営に当たられながら、龍谷大学を始めとする教育機関で「医療と仏教の協力関係」を構築するため後進の育成に尽力されています。

 ご講師は最初に「宗教と医療は同じことを扱っている」と仰いました。
 私たちが感じる「苦」というものは、自身の思いと現実の自分の姿に差があることだと、言われます。その典型的なものが、老いであり、病であり、死です。私たちはいつまでも若くありたい、健康でありたい、命を長らえたいと願いますが、現実の私たちの姿はその思いとはかけ離れていきます。この「苦」に対して、医療と宗教は向かい合ってきました。

 ご講師は、この逃れることのできない「苦」に対して医師の果たし得ることとその限界について見つめてこられました。
 医師の役割は、病をなおして患者さんが望む健康な状態に戻すことです。現代の医療技術はかつては想像もできなかったような発展を遂げて、これまで治療できなかった病の多くが治療可能になりました。しかし、治療できない病気に対して医療はどのようなことができるのか、という新しい問いが突き付けられました。
 治る見込みのない病を得た患者さんに医師はどのように対応してきたのか、ということでご講師から次のような事例をお聞きしました。
 ある末期がんの患者さんなのですが、医師はなんとか治療しようとして手術や抗がん剤などの様々な医療を施されました。そして、もう一度手術をしようという話になった時に、その患者さんが言われたのは、これまで先生が熱心に治療をしてこられたので、私は我慢してきましたが、もうこれ以上命を長らえようとは思いませんから治療はやめてください、という趣旨の言葉だったのだそうです。

 医師が患者さんのために、と思って取り組んできた医療行為を患者さんは我慢してきたというのです。その患者さんは命には限りあるものだということを受け止めておられたのですが、医師は病気をなおすことが患者さんのためだと信じていたのです。
 このようななおる見込みのない病を前にした医師は「無力です」とご講師は仰います。なぜなら、医師は自分の役割は病気をなおすことだとだけ考えているからだということです。

 この「苦」、「自分の思いと違っている現実」に対処する道として、現実を自分の思いに近づける努力を行うのではなく、それを「受容」する道を考えることが大切だと、ご講師は示されます。なおる見込みのない病に対して、なんとか健康な状態に戻したいと治療(患者さんにとってつらい治療もあります、時には延命だけの目的でなされる治療もあります)することではなく、その病(の現実)を受け容れて、今の命を力いっぱい生きることに思いを向けることの大切さをご講師は指摘されました。

 このように患者さんに、病の現実を受容するというもう一つの道に気づいてもらうことを医師が担うことはなかなか難しいことだと思えます。医師は、病に立ち向かってそれをなおすことに最善をつくすものだと、期待されていますし自身もそれを使命と考えておられるからです。
 そのようなことから、「医療と仏教の協力関係」が重要な役割を果たし得るのだとご講師は強調されるのです。

 アメリカでは病院に(だけではなく学校、消防や軍隊にも)チャプレンと呼ばれる牧師さんがごく普通に勤めておられて、その場にある苦しみ、悩みをケアするという役割を果たしておられるのだそうです。
 浄土真宗本願寺派のグループにも「あそかビハーラ病院」という緩和ケアの病院があります。僧侶が常駐し患者さんの悩みや心のケアに当たっています。一般には僧侶が病院にいるという「違和感」はまだまだ強いのだそうですが、そのような医療機関も少しずつですが、増えてきているというご紹介もありました。
 病の現実を受容するケア、治療一辺倒で患者さんを「苦しめる」ことのないケアについて、宗教が大きな役割を果たし得るということを感じることができました。 
 
 自宅に帰ってから考えていたのですが、私は病を得た人を「患者さん」と呼んで、私とは別の人、病気の人、明日の命が分からない人、のように見ていました。しかし、考えてみると命に限りがあるということでは私も何の違いはありません、私もスパンがちょっと長い(かどうかも実は不明です)かもしれませんが、間違いなく死に向かっている「末期の患者」だということに気づかされました。
 余命がいくばくもないということを宣告された人は、苦悩しながらも限りある命を精いっぱい生きようとされますが、まだまだ先のことだと思っている(思いたがっている)私にはそこからは遠いところにいるのだということにも気づかされました。

 「精いっぱい生きた人は死を恐れず今を受け入れますが、そうでない人は未来が明るいものであって欲しいと考えて、死はそれを阻むものとして恐れるのです」というご講師の言葉を思い起しました。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください) 
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