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260.お正信偈を読む(52):依釈段(29)/善導讃(5)

20160923ハナズオウ1   20160923ハナズオウ

 ご一緒に学んできました善導讃も最後の3句になりました。

[御文] 慶喜一念相応後         (きょうきいちねんそうおうご)
     与韋提等獲三忍 即証法性之常楽 (よいだいとうぎゃくさんにん そくしょうほっしょうしじょうらく)

[訓読] 慶喜(きょうき)の一念相応(そうおう)して後(のち)、
     韋提(いだい)と等しく三忍(さんにん)を獲(え)、すなはち法性(ほっしょう)の常楽(じょうらく)を証(しょう)せしむといへり。

[訳文] (善導大師は)如来の本願にかなうことができたそのときに、韋提希と同じく喜忍・悟忍・信忍の三忍を得て、浄土に 往生してただちにさとりを開く」と述べられた。

 前回の2句に続いた部分です。
 阿弥陀如来の光明と名号によって、他力の本願を信じさせていただいた人は、本願を喜ぶ心が起こったその時に韋提希夫人(いだいけぶにん)と同じように三忍を得ることができ、命が終わるその時に直ちに浄土に往生し悟りを得ることができる、と善導大師はお示しいただいた、と親鸞聖人は讃嘆されています。

 この「三忍」というのは訳文にもありますように、喜忍(法を聞き、安心してよろこぶ心)、悟忍(真実のいわれをはっきりと知る心)、信忍(本願を疑いなく信じる心)のこと、心が落ちつけられることとお聞きしました。

 聖道門の諸師に対して善導大師が異を唱えられた三つめは、九つの格付けで最も低いとされる下々品の凡夫でも念仏によって往生できるとされたことです。

 聖道門の諸師は、往生を遂げるためには願をおこしそれを達成するための行が必要であるとし、念仏には願があっても行が欠けているとしていました。諸師からすると、『観無量寿経』に「下々品の凡夫が十声の念仏によって直ちに極楽世界に往生を得る」とあるのは、凡夫を修行精進に向かわせるための方便であるということになります。

 善導大師はこれに対して、南無阿弥陀仏の六字を解して、「南無」というのは帰命であり、発願回向の義であり、「阿弥陀仏」はその行であるとされ、念仏には願と行がともに備わっているから凡夫でも念仏により往生を得ることができるのだと主張されたのです。

 親鸞聖人は、善導大師の教えを受けられ、さらに、阿弥陀如来の名号のはたらきが衆生の信心となり、称名となってあらわれるのだとされました。
 従って、私たちが称名念仏することが往生の因ではなく、称名念仏は、阿弥陀如来によって願も行も成就された名号のいわれを信じさせていただいた時に、その信心が私たちの口に出たものだとされました。

 これまで学んできましたように、善導大師は「観無量寿経」に関する聖道門の諸師方の解釈の誤りを正し、下々品の凡夫でも念仏によって往生できるということを示され、浄土教の大きな流れをおつくりになられたのです。

(写真は、先日の境内のハナズオウです)
 一時期少し肌寒さを感じるような陽気があって再び暑さが戻ってきたことで、花を咲かせたのでしょうか?春とは違って、葉が茂っている中で咲いていますからちょっと様子が違って見えます。
 「狂い咲き」という言葉がありますが、この言葉の語感は余り良くないですね。調べてみると、英語では、「blooming out of season」という表現がありました。季節外れの開花、という所でしょうか。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)
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