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252.お正信偈を読む(50):依釈段(27)/善導讃(3)

20160826晨朝   20160826本山白洲

「御文」 光明名号顕因縁 (こうみょうみょうごうけんいんねん)

「訓読」 光明(こうみょう)・名号(みょうごう)因縁(いんねん)を顕(あらわ)す。

「訳文」 (善導大師は)光明と名号が縁となり因となってお救いくださると示された。

 善導大師は、南無阿弥陀仏の「名号」が因となり、阿弥陀如来の智慧である「光明」が縁となって私たちは救われるのだと示されたと親鸞聖人はお伝えいただいています。

 この部分、少し分かりにくいなあ、と感じていたのですが次のような説明がありました。なるほどそうなのだ、と理解できた思いでしたので引用させていただきます。
 「彼(か)の如来の光明は、ちょうど春の陽気をもたらす日光が助縁(たすけ)となって草木の因(たね)から芽を出させるように、能(よ)く名号の因を育てて信心の芽を出さしむるものである」(柏原祐義氏著『正信偈講座』)

 前回までに学びましたように、『観無量寿経』については聖道門の諸師から様々な解釈が行われていましたが、それに対して善導大師はその解釈の誤りを正されたました。どのような点について、善導大師が新しい解釈をされたのかということについて学びたいと思います。

 その一つは、『観無量寿経』で説かれた救いの対象は凡夫であるということです。

 聖道門の諸師は、浄土は衆生の自力の修行によって得ることができる世界だとされていました。『観無量寿経』では浄土に往生する人々を上品(じょうぼん)、中品(ちゅうぼん)、下品(げぼん)の分けてさらにそれぞれの中に上生(じょうしょう)、中生(ちゅうしょう)、下生(げしょう)と九通りの格付けがされています。
 
 聖道門の諸師は、この上品や中品は修行を積んだ菩薩や聖者のこと、下品とは大乗を学び始めた凡夫のこととするなど、『観無量寿経』は主として修行を積んだ菩薩や聖者を対象としている経典と理解されていたとお聞きしました。

 これに対して善導大師は、『観無量寿経』は凡夫が救われていくための教えであって、聖者のためのものではないということを主張されました。大師は、お釈迦さまが世を去られて後の五濁の世で、全ては凡夫なのだとされます。上品は大乗の教えに遭った凡夫、、中品は小乗の教えに遭った凡夫、下品は悪に遭った凡夫であり、九品はすべてが凡夫なのだと言われます。
 『観無量寿経』はそのような凡夫が救われていく姿を示していただいていると大師はお示しいただいたのです。

 またそれが、善導大師が中国浄土教の大成者と称され、また親鸞聖人が「善導ひとり仏の正意を明らかにせり」と讃えられた所以です。

(写真は、8月22日の本山の様子です。)

 当日ご晨朝にお参りすることができました。右は、伝灯奉告法要時に「白洲境内地仮設休憩所」に予定されている施設で、10月からの修行に向けて工事が進められていました。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)

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