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242.お正信偈を読む(45):依釈段(22)/道綽讃(4)


20160722ユウスゲ
   20160722ユウスゲ1

「御文」 三不三信誨慇懃 (さんぷさんしんけおんごん)

「訓読」 三不(さんぷ)三信(さんしん)の誨(おしえ)慇懃(おんごん)にして、

「訳文」 三信と三不信の教えを懇切に示し、
 
 前回までで、道綽禅師は、末法の時代の私たちはこの世で自力の修行を重ねてさとりを得るという聖道門の道はとてもなし得るものではなく、阿弥陀如来のご本願により浄土への往生を得るという浄土門の他力の道のみが残されているとお示しいただきました。

 今回、親鸞聖人は道綽禅師が「三不三信」の教えをねんごろに諭していただいたと讃嘆されています。
 この「三不三信」は「三不信」と「三信」のことだとお示しいただきました。

 その「三不信」については第三祖の曇鸞大師が「往生論註」の中で、称名念仏してもなお無明があって、往生を得ることができない者があるのはなぜか、という問いで取り上げられています。
 善導大師はそれは次の三種の不相応があるからだと示されました。
 一つには、信心が淳(あつ)くなく、ときには有り、ときには無くなるという半信半疑の状態であるから(信心不淳)
 二つには、信心が一つでない、信心が決定(けつじょう)していない、阿弥陀如来にまかせきっていないから(信心不一)
 三つには、信心が相続しない、余念(自力の心)が入り込むから(信心不相続)
 しかも、この三つの不信は、互いに因となり果となるという関係にあると示されました。

 道綽禅師はこれを承けられて、「もしよく相続心があれば、それは一心であり、よく一心であればそれは淳心である」とされ、その三心をそなえれば往生しないわけがない、と説かれました。
  このように道綽禅師は、曇鸞大師が示された三不信の姿に対して、進めて三信の趣旨をお伝えいただきました。親鸞聖人は、そのことをもって道綽禅師が「三不三信」を私たちに示していただいたのだと伝えられました。

 全く私事になりますが、子供のころ本日の句を耳で聞いてなぜか「三球三振」のことだと思い込んでいたことを思い出します。日常的に耳に入ってくるお経のことばには、色々な思い出があるものです。
 先日の連続研修会で「正信偈の思い出」ということで話し合いをしていただいたのですが、その中でも耳で聞いたお経文の思い違いの話が出ていて、同じようなことがあるのだなあ、思った次第です。

(今日の写真はユウスゲです)

 徳佐(今は山口市になっているのですね)の船平山でユウスゲが満開、という新聞記事を読んで見に行きました。昼過ぎには全く花は見当たらなかったのですが、夕刻には一面に咲いていました。翌日午前中にはしぼんでしまうそうです。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください) 
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