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234.山口別院設立30周年


20160624別院30年1
   20160624別院30年2

 去る6月10日、山口別院で永代経法要と併せて本願寺山口別院設立30周年の記念法要がお勤めになりました。
 壽福寺からは住職と岩﨑明さん、志賀信子さんがお参りしました。

 本願寺の山口別院は、1985年に当時の本願寺萩別院、本願寺岩国経堂および本願寺山口会館を統合する形で、本願寺山口別院として現在地に新設され、1986年10月に落慶法要が勤められたものです。

 当日は、午前中は「十二礼作法」、午後は「宗祖讃仰作法」(音楽法要)によるお勤めが勤修されました。
 
 お勤めに続く記念法話では、大阪教区から小林顕英師をお迎えしてお話しを伺いました。

 ご法話の中で印象に残ったことを記します。

 九州(熊本地方)で、お通夜に「目覚(めざまし)」と表書きをしたお供えを持参する地域があるのだそうです。初めて伺ったお話しで興味をもってお聞きしました。この「目覚」には次のような意味があるのだそうです。
 ○かつては通夜の夜、一晩中眠らずに起きておれるようにと米やお菓子に「目覚」と書いて持参したことが起源で、現在では現金を持参するようになったもの。
 ○亡くなられた大切な方にもう一度目を覚まして欲しいという願いが込められたもの。
 ○残されたご遺族に、大切な方のご往生を機縁にして「仏法に目覚めて」もらいたいと念じたもの。
 という意味があるということです。

 ご講師も仰っておられましたが、残された遺族が大切な方の死を通して「人は必ず死を迎えるもの」ということを改めて意識されるということは、往生された方が最後に残された大切なメッセージということになります。
 ご講師によれば、私たちが後に残せるものは次の二つなのだそうです。
  骨:人は必ず死んでいくものということを表します
  思い出:仏縁を受け継いでほしいという思い

 人の死亡率は100%です、というと皆は「えーッ」という反応を示すのだそうです。
 考えてみれば当然のことなのですが、普通には自分が死ぬとは思っていない。「我やさき、人やさき」ではなくて「人やさき、人やさき」なのだとご講師は言われます。

 私たちはいつも死の一歩手前にいるのだけれど、それはまだまだ先のことだと思っています。しかし、今回の地震でも改めて感じたのですが、今日があったから明日も間違いなくあるのではない、一瞬一瞬がかけがえのない大切な時なのだと感謝しながら生きていくことが重要だと実感した次第です。

 「仏法に遭う」ということは、次の三つのことに気づかせていただくことだというご講師の言葉を改めて味わいたいと思います。
 ○私たちの命には限りがあること
 ○死はいつやって来るのか予測できないこと
 ○そして、その時に私たちの命には帰るところがあるということ

(写真は、お勤めの様子とご講師の小林師です)

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)
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