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216.お正信偈を読む(41):依釈段(18)/曇鸞讃(5)


20160422エヒメアヤメ1
  20160422エヒメアヤメ2

 前回の「お正信偈を読む」が2月29日でしたから、あれからもう2か月になろうとしています。
 親鸞聖人が曇鸞大師のみ教えを讃嘆された「曇鸞讃」の5回目となります。

「御文」 惑染凡夫信心発 証知生死即涅槃 (わくぜんぼんぶしんじんぽつ しょうちしょうじそくねはん)

「訓読」 惑染(わくぜん)の凡夫(ぼんぶ)、信心発(ほつ)すれば、生死(しょうじ)すなはち涅槃(ねはん)なりと証知(しょうち)せしむ。

「訳文」 煩悩具足の凡夫でもこの信心を得たなら、仏のさとりを開くことができる。・・・」

 前回までで、浄土に向かう往相回向も浄土から戻りこの世の人々を救う還相回向も、ともに阿弥陀如来のご本願の働きによるもので、信心一つで私たちはお浄土に生まれることができると示していただきました。
 罪悪、煩悩に汚された凡夫である私たちも、信心をおこせば仏のさとりを得ることができるということを示されています。

 「惑染凡夫信心発」の部分は、『往生論註』の中で、曇鸞大師が「高い陸地には蓮華が生じないが、低い泥の中に蓮華が生じる」という経文を引かれて、「これは凡夫が煩悩の泥の中にあっても、浄土から出られた菩薩に導かれて、仏の正覚をひらく華、すなわち信心を生じる」とたとえられた、ことを親鸞聖人が讃嘆された部分です。
 惑染の「惑」は衆生の心を惑わす煩悩を、「染」はその煩悩に汚されていることを示しています。

 次の、「生死すなはち涅槃」の部分です。「生死」は生死輪廻を繰り返す迷いの世界、「涅槃」は全ての煩悩が消え去ったさとりの世界で、両者はいわば全く相容れない状態を表しているように思われます。なぜこの迷いとさとりの世界が「即」で結ばれているのでしょうか。
 ここでは、前句のように信心を得させていただいた私たちは、この生死を繰り返す迷いの世界も、そのままが迷いを超えたさとりの世界になるという、「仏のさとり」をいただけるということが重要なポイントのように思われます。

 私たちが煩悩にとらわれている間は、私たちは生死のはざまでもがき、苦しむ迷いの世界から逃れることができず、さとりとはほど遠いところにいます。しかし、そのような私たちでも、信心をいただいたならば、ちょうど蓮の花が泥の中で美しく開くように、身は迷いの世界にありながら仏のさとりを得ることができるとお示しいただいたのだと思います。
 
(写真は、エヒメアヤメという植物です。昨年のちょうど今頃に撮影しました。)

 左は小串にある自生地(日本で自生している場所はごく限られているということで、小串はその南限になるそうです。現地では天然記念物として広く金網で囲われて保護されています。)のもの、右は川棚の「リフレッシュパーク豊浦」で栽培されていたものです。
 背丈も小さく華奢な印象のアヤメです。タレユエソウ(誰故草)というロマンチックな(?)名前もつけられています。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)
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