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197.平和に関する論点整理(7)


20160215玉の浦      20160215胡蝶侘助 (2)

 「論点整理」は、前回に続くⅥ.章です。

Ⅵ.不殺生か利他か
「他国から侵略等によって、武力を用いなくてはならない状況が生まれた場合には、仏教はどのように判断するのでしょうか?」
 ・多くの人命が失われようとする極限の状況で、不殺生と利他のジレンマが起こる例が経典中に見られる。
 ・経典の解釈には多様性があるため、それだけをもって仏教の立場を明確にできないが、殺人を正当化する正義の戦争、聖戦といった考え方は導き出せない。
 ・「侵略されたら、どうするのか?」という問いかけへの対応は必要である。


 この章では、多くの人の命を救うために殺生を行うことを仏教の立場からみてどのように判断すればよいのか、という非常に重い問いかけが取り上げられています。
 自国が侵略される恐れがあるとき、あるいは「同盟」している他国が侵略されそれが自国の存立にかかわるとき、に武力を行使することは許されるのか、という問いかけにもつながるものです。

 論点整理の本文に二つのお経が取り上げられていました。
 一つは『大宝積経(だいほうしゃくきょう)』もう一つは『涅槃経』で、いずれも菩薩が殺人を犯す例が取り上げられています。
 前者では、「船の上で多くの人びとが盗賊によって殺されようとしている状況において、菩薩は地獄へ落ちることを覚悟しつつ盗賊を殺害するというものです。」ここでは、「不殺生と多くの人びとの命を救うという利他とがぶつかりあっています。」

 このお経には、この菩薩は、殺人という罪を盗賊に犯させないように自らが殺人の罪を引き受けた、と記されていると「論点整理」の本文にありました。この菩薩の殺人の解釈については、以前にもお聞きしたことがあって、その解釈に仏教の殺生を忌避する強さを強く感じたという経験がありました。
 いずれにしても、「論点整理」で述べられているように、仏教においては利他の殺生であっても罪であることは免れない、どのような理由があっても殺人が正当化されることはない、正義のための戦争、聖戦という考え方は導き出せないということは明確になっていると思われます。

 現実の政治状況の中で考える場合、この不殺生と利他とのジレンマをどのように考えるべきなのでしょうか?(現実の国際政治の中では「利他」といいながらその中に「自利」が潜んでいるということも多いのですが)
 「論点整理」の中で述べられているように、「極限的な状況」にあるかどうかという判断が重要な視点であることは間違いないことのように思われます。

 ただ、前回のⅤ.章「国際社会における平和構築の手段」で取り上げられていた、軍事力によらない平和構築の試み、によって「極限的な状況」を作り出さない行動も極めて重要だと思われます。

 一昨年6月の法統継承に際して専如ご門主が出されたご消息に次のようなお言葉がありました。
 「宗門の過去をふりかえりますと、あるいは時代の常識に疑問を抱かなかったことによる対応、あるいは宗門を存続させるための苦渋の選択としての対応など、ご法義に順っていないと思える対応もなされてきました。このような過去に学び、時代の常識を無批判に受け入れることがないよう、また苦渋の選択が必要となる社会が再び当来しないよう、注意深く見極めていく必要があります。」
 極限的な状況(苦渋の選択を迫られる状況)に至らないように、どのような方策で対応するのかあらかじめ多くの方策を考えておくことの必要性を強く感じます。
 また、昨年山口別院で開催された「平和のつどい」のご講師高橋哲哉氏が言っておられた「point of no return」(引き返すことができなくなるポイント)という言葉も改めて思い起しました。前の大戦のように、「気づかないうちに、あるいは勢いでこのpoint of no returnを踏み越えていた」ということがないように注視をしておくことが重要だと思います。

(写真は、ツバキです。)
 左のツバキは「玉の浦」、右は「胡蝶侘助」と表示されていた品種です。
 玉の浦は大和高田市の「椿寿庵」という椿園、胡蝶侘助の方は京都市の「霊鑑寺」というお寺で撮影しました。どちらもツバキで知られているところです。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)  
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