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185.「平和に関する論点整理」(3)

20160104壇ノ浦

 前々回に続いて今回は「論点整理」のⅡ.章を見ていきたいと思います。

Ⅱ.仏教の説く平和
 「仏教は、どのような「平和」を説いているのでしょうか?軍事的均衡による平和も、仏教から認められますか?」
  ・争いがなくなり、生老病死の苦悩や不安を互いにささえあうことができる「平和」を仏教は説く。
  ・人間の心からの平和づくりを目指すのが仏教の特徴。
  ・平和のためには煩悩や愚かさが自覚されていかねばならない。
  ・仏教では武器なき平和を理想としている。

 本文の中に、「仏教は一貫して「殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ。また他の人々が殺害するのを容認してはならぬ。」と不殺生を説きますし、仏典中の『律』においては出家者に対し軍隊に近づいてはいけない、武器を持つ者に法を説かない、といった記述があり、武力を否定する立場を明確に見ることができます」という言葉がありました。

 仏教が「自他共に心豊かに生きることのできる社会」を目指しているということは前回の「論点整理」で確認したところなのですが、どのような平和を求めるのか、とりわけ(平和を維持するために)武器を持つことをどう考えるのか、というのがこの章の主要な論点のように思われます。

 「自己の心の根底に潜む煩悩や愚かさが自覚され、各人がそれを克服していこうとすることが、一人ひとりの幸せを実現するとともに、社会の安穏を生むというのが仏教の考える平和と言えます。」と論点整理では仏教の目指す「平和」について記してあります。
 そのような内面に向かう志向と現実の社会のありさまとのギャップについて考えざるを得ません。利害が絡みあう国際関係の中では、「武力」が「平和」を可能にするというのが、現実の姿だと言わざるを得ない状況にあります。
 この現実の中で、私たちはどのように考え、どのように行動することが必要なのでしょうか、という論点が提起されているのだと思います。

 実は、お釈迦さまが武器を持つことに対して、このように明確に否定されているということを今回初めて知りました。

 「殺生してはならぬ、武器を持ってはならぬ、近づいてもならぬ」というみ教えと、武器があって初めて可能になっているように思える「平和」の現実、との相克の中で私たちはどのように生きていくことになるのでしょうか。
 私は、このような解決の困難な命題について、安易に一方をもって他方を押さえつけてしまい、それで「問題解決」としてしまってはならないと思います。
 「現実の社会が平和のためには武器を必要としているのだから仕方ないではないか」としてしまう姿勢や、「仏教では武器を持ってはならないとされています」と現実とは別の高みから見物しているような姿勢をとるべきではないと思うのです。

 私たちが目指す理想と現実の間に隔たりがあることをいつも認識していて、その中で一歩でも目指すところに近づくように努めることが必要なのではないかと思います。

(写真は下関「壇ノ浦」の源義経と平知盛の像です)
 今年の年賀状用の写真を撮ろうと下関に出かけたときの写真で、平氏が滅んだ壇ノ浦にある像です。「諸行無常の響きあり」の言葉通り、武力で天下をとり、また武力で滅んでいく平氏の姿(義経もまた同じ運命を免れることはできませんでした)は、私たちの「平和」のありかたを示しているとも思えます。
 (結局、年賀状にはこの時の写真は使いませんでした)

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)
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