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147.仏教の歴史(1)


20150824ナーランダ遺跡
  仏教遺跡1

 少し間があきましたが、これまでお釈迦さまのご生涯と開かれたみ教えを学んできました。
 今回は、お釈迦さまがおなくなりになられて以降、私たちの浄土真宗にまでつながる仏教の歴史の概略を学びたいと思います。そのうえで、中断していました「お正信偈」の依釈段に戻りたいと思います。
 最初にお釈迦さまが亡くなられた後のインドの状況です。

 お釈迦さまは80年のご生涯を通じて、自らお開きになられた法を説かれてクシナガラの地にておなくなりになられました。このお釈迦さまが亡くなられた年については、紀元前480年頃とする説と紀元前380年前後とする説とがあって、約100年の開きがあるようです。

 お釈迦さまがなくなられた後ほどなくして、み教えについて様々な見解が提示される事態が発生したと伝えられています。お釈迦さまを中心とした集団であった仏教教団は、お釈迦さま亡き後誰かが中央で統制するといった性格の集団ではなく、いわば必然的にそのような事態になったのだと想像されます。
 そこで、約500人のお弟子さんが集まって、お釈迦さまの教法と戒律について統一してまとめるための会議が持たれました。これを第一結集(けつじゅう)とお呼びしています。ここで、お弟子さんの中で記憶されていたお釈迦さまのみ教え(教法と戒律)が持ち寄られ内容が確定されました。

 その後、教団の中では保守的な考え方を持つ長老グループと進歩的な考え方をするグループとの対立が表面化します。
 これを受けて、保守的な長老約700人が集まり、戒律を中心とした経典の編集会議である第二結集を開きます。お釈迦さま滅後約100年のことと伝えられます。
 これに対して、この結集の内容に不満を持つ進歩的な比丘たちは、長老派に対抗するグループを結成し独立を宣言する事態になりました。
 これにより、お釈迦さま以来一つであった仏教教団は大きく二つに分裂することになりました。これを根本分裂と呼んでいます。その後紀元前1世紀に至るまでに更に分裂に分裂を重ねることになり、多くの部派が形成されました。これを枝末分裂と呼んでいます。

 このような動きが生じた背景には、もちろんお釈迦さまがなくなられたことにより教団が寄るべき柱を失ったということもありますが、教団が置かれた環境の変化による面も大きかったように思われます。
 仏教教団は当初はお釈迦さまを中心にした限られた比丘の集団だったのですが、その後み教えが広まり、教団の成員も増えました。また、紀元前3世紀にインド大陸のほとんどを統一したアショーカ王が仏教を守護し、各地に仏教を広めたことにより地理的にも仏教は拡大をしました。その結果、多数の成員が広い地域に分かれて存在するという実態になり、それまでの統一した教団の姿を保つことが難しくなりました。貨幣経済の進展などの環境変化も影響したともいわれていますが、教団の拡大発展が教団の不安定の因となったといえそうでう。

 また教団はその後、社会生活とは切り離された場で教理を研究するだけの学問中心の集団になっていったとも言われています。そこでは、お釈迦さまが目指された人々の救済という大切な目的が見失われたといえます。このような傾向に対して、お釈迦さまの基本精神に戻ろう、一切の大衆を救済することを目指そう、とする動きが形成されることになりました。この新しい運動は「大乗仏教運動」と呼ばれることになります。大乗とは「大きな乗り物」という意味で、自分自身が悟りを得るだけでなく、すべての人々を救うということを表しています。大乗仏教は、紀元前2世紀頃から大きく広がることになりました。
 紀元前後から数百年の間に多くの大乗仏教の経典が成立し、龍樹菩薩(2世紀)や天親菩薩(4世紀)という、親鸞聖人が七高僧として大切にされた方々もみ教えを伝えられ、大乗仏教は思想的に深化し発展しました。
 これに対して、出家者が自身の悟りを目的として修行に励む教えを「小乗仏教」と呼ぶようになりました。(この「小乗」は「小さな乗り物」という意味で、大乗仏教の立場から批判的に見下した呼称だといわれています)

 大乗仏教が深化していったということは、学問的に精緻なものになったという面があったとしても、他面一般の人々には分かりにくいものになったということでもあり、その結果として社会から遊離するものになり衰退の道をたどり始めるということにもつながりました。
 7世紀中頃から、仏教はヒンドゥー教などの民衆固有の信仰とも結びつくことにより活動する時代もあったようですが、このことによって仏教としての本質を失うことになりました。
 その後、12世紀の後半にインドはイスラム教徒により征服されました。インドにあった仏教寺院はすべて破壊され、僧侶はチベットやネパールに逃げ出すという事態になり、ここにインドにおける仏教教団は滅亡しました。

 現在、仏教発祥の地インドでは仏教徒の割合は1%にも満たないという状態のままにあります。
 
(写真は、インドのナーランダ大学の遺跡と遺跡を描いたインドの切手です)

 ナーランダ大学は5世紀の初めに設立された大規模な仏教研究の施設ですが、イスラム教徒の征服により12世紀末に破壊されました。最盛期には学生数1万人を数え、中国からも多くの僧が学びに訪れたということです。
 多数の学生と教授陣を収容する施設も完備されていた広大な遺跡で、これからも発掘整備がされるようです。
 ヒンドゥー教、イスラム教国インドでは永く仏教遺跡は荒廃のままおかれていたのですが、近年調査発掘、整備が進められているということです。観光資源として見直されたという面もあるようです。
 遺跡には焼け焦げた色があちこちに残り、破壊のすさまじさを想像させるものでした。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)
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