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139.仏教のことば(2):三法印(2)


20150727コオニユリs
   20150727オニユリs

 今回の三法印は、前回の「諸行無常印」についで「諸法無我印」です。

 「諸法無我」の言葉を『浄土真宗辞典』で調べますと、「すべてのもの(有為法・無為法)は永遠不変の実体(我)ではない、すべてのものに永遠不変の実体は存在しないということ。」とあります。

 ここでいう「有為(うい)」とは「さまざまな因縁(原因と条件)によってつくられた生滅変化するもの」であり、一方「無為(むい)」は「生滅変化を超えた常住不変の真実のこと」とあって、現在私たちが使っている有為、無為とは随分違った内容を持っております。
 先の「諸行無常」の諸行は有為のものを指すのですが、諸法の方は有為と無為を含めた「全てのもの」ということになります。つまり、諸法には因縁によって生滅し私たちの感覚で認識できるものの他に、因縁にかかわりなく厳然として存在しているもの(真理、法性)も含むということになります。

 これら諸法の全てが「無我」だということですから、全てのものに「我が無い」ということになります。
 この場合の「我」は一般的に私たちがいう「我」とは違って「永遠不滅の実体としての自我・個我・自己のこと」(『浄土真宗辞典』)とされています。「無我」とはこのような「永遠不滅の実体はない」ということを表します。

 お釈迦さまの当時のインドのバラモン哲学者は、身体や精神は変化するがそれにもかかわらず、私たちの中には何か永遠に変わることのない不生不滅の固定的な実体があるという風に考えていたということです。しかも、そのような「我」がこの世だけではなく死後までも変わらずに輪廻する、つまり「不滅の霊魂がある」と考えており、これが当時の思想のいわば常識だったということです。

 第一の法印で諸行が無常であるとされたお釈迦さまは、この「我」だけが生滅変化しないとするのはおかしいとされ、インドの伝統的で正統の「魂が不滅である」という思想を覆されたのです。
 このことは当時の思想界において極めて画期的なことだったと思われますが、2500年後の現在に至るまで仏教の(最も)大切な柱であり続けた思想だと思います。

 このように諸法が無我であるという認識は、私たちにとってどのような意味を持つのでしょうか。『仏教要説』の北畠典夫先生は次のように仰っておられます。

 まず、無我を認識するということは、ものには固定した体(本体)や性(性質)がなく限りなく変化しており、私たち自身も社会も一切のものは他と無関係に存在することは許されない、ということを認識することになり、無我を認識することの実践的な意味は、「無所得」と「無碍(むげ)」の2面から考えられるといわれます。

 「無所得」とは、所得の否定であり執着しないということです。私たちは私たちの周りのものに対してそれを所有し、所有し続け、さらにそれを増大させたいと願い、それに執着します。これは、私たち自身と所得の対象となるものとがいずれも固定常在のものであると誤認して、それに執着する姿だということになります。これに対し、無我の理を得ることができれば、自ずとその執着や囚われから自由になることができるといわれます。

 「無碍」とは障碍(さまたげ)が無いということで、自由自在ということです。自由自在といってもこれは決して自分勝手でいいということではなくて、法(真理)にかなった姿で自己についても自己の所有についても執着し囚われるところがない、つまり「無所得」が完成した姿であり、これが目指すべき姿だということになります。

 私たちは「無我」を認識することを通して自他の対立を否定し利己主義を排除する生活を実践すること、それが「無我」の実践的な意味だとされます。

(写真は、先日秋吉台で出会ったオニユリの仲間です。鮮やかな橙色が印象的でした。)

 左はコオニユリ(小鬼百合)、右はオニユリ(鬼百合)と呼ばれ、よく似ていますが別の種とされています。写真ではちょっと見えにくいのですが、オニユリは葉の付け根に黒色のムカゴとよばれるものを持っていますが、コオニユリにはそれがありません。
 当日目にしたのはほとんどがコオニユリで、オニユリはこの1株だけでした。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)
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