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127.お釈迦さま(7):説かれた法(2)


20150608棚田2  

 お釈迦さまは、それまで一緒に修行してきた5人の仲間(父王がお釈迦さまに遣わした供の者でもあります)におさとりの内容を説かれました。
 お釈迦さまがさとりに達せられたことを、私たちは「成道」、「正覚成就」とお呼びし、「仏陀になられた」と表現いたしますが、このおさとりに至られた実践を私たちは「中道(ちゅうどう)」とお呼びしています。

 すでに学んできましたように、お釈迦さまは王宮における何不自由のない生活、物質的に満たされた享楽的な生活、によっては本当の心の平安を得ることができない、として王子の地位や家族、財産など全てを捨てて出家の道を選ばれました。
 出家された後には、物欲から離れ煩悩を滅するために肉体を痛めつける過酷な苦行に取り組まれましたが、この行もまた真のさとりに至る道ではないと捨てられました。
 お釈迦さまは、快楽も苦行もさとりを得る正しい道ではないと、その両極端を捨てられました。この実践を「中道」とお呼びしています。

 お釈迦さまは、この両極端を排す道、「非苦非楽」という道をとられましたが、このことは、お釈迦さま以前には「見出し得なかった仏教独自の実践的態度」だったとされています。
 お釈迦さまは、「楽」と「苦」のいずれに徹するのか、いずれを行ずるのかではなく、その両極端を排するところにこそ真のさとりに至る道があるのだということをお示しになられました。

 この「両極端を排する」ということをもう少し考えてみたいと思います。

 「両極端を排する」というのは、単にその「中間を歩む」ということではないように思います。
 「楽」か「苦」かのどちらかをとるということはそのどちらかに囚われ執着することであり、お釈迦さまはそのことによって正しいものの見方ができなくなる、ということをお示しいただきました。
 それでは、「苦」と「楽」の中間の道を歩む、ということはどのようになるのでしょうか。単に「苦」か「楽」かという同じ地平上に立っているのであれば、その中間といってもそのことに執着しているということにはなんら変りがない、ということになるように思われます。
 お釈迦さまが示された「中道」は、苦と楽のいずれにも囚われない、新しいより高い地平に立つという立場なのではないかと思います。苦か楽かという対立を超えたところに求められた実践がお釈迦さまの示された「中道」だと思われます。

(写真は、前々回と同じ東後畑の夕暮れですが、もう少し時間が経過したところです)

 すっかり日が落ちてイカ釣り漁の集魚灯が点りました。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)
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