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114.お正信偈を読む(23):依経段(19)

    20150501シャガ2    20150501シャガ1

 「お正信偈を読む」の「依経段」も最後の4句となりました。

「御文」 弥陀仏本願念仏 邪見憍慢悪衆生(みだぶつほんがんねんぶつ じゃけんきょうまんなくしゅじょう)
     信楽受持甚以難 難中之難無過斯(しんぎょうじゅじじんになん なんちゅうしなんむかし)

「訓読」 弥陀仏の本願念仏は、邪見(じゃけん)・驕慢(きょうまん)の悪衆生(あくしゅじょう)、
     信楽(しんぎょう)受持(じゅじ)すること、はなはだもって難(かた)し。難(なん)のなかの難これに過ぎたるはなし。

「訳文」 阿弥陀仏の本願念仏の法は、よこしまな考えを持ち、おごり高ぶる自力のものが、
     信じることは実に難しい。難の中の難であり、これ以上難しいことはない。

 これまで阿弥陀仏の信心をいただいたものは素晴らしい5つの利益(りやく)に恵まれるという聖人のおことばをいただいてきました。ところが、聖人はこの最後の4句で、「この信心を得ることは大変に難しい、難中の難である」と言われるのです。

 私たちは私たちが持っている煩悩をすてることができなくても、阿弥陀仏のお力におすがりすれば素晴らしい利益を得ることができると仰ったのに、それは難中の難だと言われるのです。
 これはどういうことなのでしょうか?

 ここでは、「邪見憍慢悪衆生」の句に注目することが必要だと思います。
 「邪見」とは一般的には「よこしまな見解、誤った考え」という意味ですが、親鸞聖人は「自力をたのみ、本願を疑うこと」という意味に使われているようです。
 また、「驕慢」は、「おごりたかぶる心」という意味ですが、聖人は「自力にとらわれる心」といった意味で使われています。

 ということは、邪見驕慢の人は自力に頼りそれを頼みにしていますから、阿弥陀仏の本願をそのまま受け入れることがかえって難しくなる、ということをお示しいただいているのだと思います。
 「レッツ正信偈」のご本に「仏の側からすでに与えられているものを、自らが先行すると、仏の働きを拒絶することになるからです。あたかもドアがPull(引く)とあるのを、Push(押す)するのと間違うようなものです。」という稲垣選恵先生のお言葉が引用されていましたが、まさしく力を入れれば入れるほど動かないという状況になるのです。

 この邪見驕慢の人は自分とは関係のない別の人のように思ってしまいそうですが、実はこれは私たちの姿ではないかと思います。
 私たちは阿弥陀仏の本願をいただきながら、それを疑っているというようなことはないでしょうか。いやいや自分で何とかできるのではないか、と思うことはないでしょうか?
 邪見驕慢の人、という言葉で聖人は私たちの姿を示していただいているのだと思います。 

 私たちは自分の力では煩悩を捨てることもできず、自分の力で往生を求めることなどまったく不可能だと思い至り、阿弥陀仏に全てをお任せすればよいのだということをこの4句から改めて確認したいと思います。

(写真は、シャガの花です。宇部方面から帰る途中で出会いました。)

 ちょうど今時分、一番美しい花期を迎えている植物です。
 シャガはもともとは中国原産の植物で、日本には移入された植物だということです。従って、山奥などで咲いているものも以前に人が持ち込んだものだと考えられているようです。
 昔、城を築くときにこのシャガを土手ののり面に植えたという話を聞いたことがあります。シャガの葉で足が滑って敵が城に攻め上りにくくしたのだそうです。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)


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