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105.お正信偈を読む(19):依経段(15)


20150330シキミ1
    20150330シキミ2

 今回は、「心光摂護の益」の続きとなります。前回の2句で聖人は、阿弥陀仏の光明に摂取されて衆生の無明は晴らされる、と示されましたが、続けて次のように記されています。

「御文」 貪愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天 (とんないしんぞうしうんむ じょうふしんじつしんじんてん)
「訓読」 貪愛(とんない)・瞋憎(しんぞう)の雲霧(うんむ)、つねに真実信心(しんじつしんじん)の天(てん)に覆(おお)へり。
「訳文」 貪(むさぼ)りや怒りの雲や霧は、いつもまことの信心の空をおおっている。

 阿弥陀仏の光明に照らされて無明の闇は晴らされたのですが、聖人は、貪愛や瞋憎が雲霧となって信心の空を覆っている示されます。

 この貪愛というのは、あらゆるものを欲しがり執着する自己中心の私の姿です。また、瞋憎は腹を立てて怒り、憎む私の姿です。前回出てきました三毒のうちの貪欲(とんよく)、瞋恚(しんに)に対応する私の煩悩です。
 聖人は私たちの煩悩について次のように記されています。
 「凡夫といふは、無明煩悩われらが身に満ち満ちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむことおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまで、とどまらず、きえず、たえずと」
 この煩悩は、消えることなく、臨終のその瞬間まで私たちをとらえてはなさいと言われます。

 ここで留意しなければならないことは、この真実信心の空を覆っているのは、誰かが邪魔しているからではなくて、「私が持っている煩悩、私がどうしても捨て去ることのできない煩悩」が原因であるという点です。
 私は、私自身が作り出し、逃れることのできない煩悩に遮られて阿弥陀仏の光明が見えなくなっているのです。

 そのような私たちはどのようにしてすくわれていくのでしょうか、次回に続きます。

(写真は、シキミです。)

 昨日、ご門徒さんのお宅に伺う途中で出会いました。これまで何度もこの場所を通っているのですが、花が咲いているのを見て初めてシキミだと気づきました。これまで見たことのないような大きな木でした。
 シキミ(樒)はハナシバ(花柴)とかコウシバ(香柴)とも呼ばれ、仏前によく使われる植物です。香りを持っている葉は乾燥させて抹香や線香の原料にされますが、花、茎、葉、実から根に至るまで全体に毒を持っていて、誤食すると死に至ることもあるそうです。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)
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