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98.お正信偈を読む(16):依経段(12)


20150306釈尊誕生地2
  20150306釈尊誕生地3

 今日は「釈迦讃」の3回目になります。

「御文」 能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃(のうほついちねんきあいしん ふだんぼんのうとくねはん)
「訓読」 よく一念(いちねん)喜愛(きあい)の心を発すれば、煩悩を断(だん)ぜずして涅槃(ねはん)を得(う)るなり。
「訳文」 信をおこして、阿弥陀仏の救いを喜ぶ人は、自ら煩悩を断ち切らないまま、浄土でさとりを得ることができる。

 前2回の「釈迦讃」で親鸞聖人は、お釈迦さまがこの世にお出になられたのはひとえに阿弥陀仏のご本願を説くためであった、ということをお示しになりました。
 今回以降で親鸞聖人は、阿弥陀仏のご本願を受け入れた人がどのような利益(りやく)をうけるのか、ということを示されます。

 私たちは「利益(りやく)」という言葉でどのようなことを思い浮かべるでしょうか。
 最初に思い浮かべるのは、家内安全、交通安全、商売繁盛、健康などの「ご利益」ではないでしょうか。

 ただ、理解しておかなければならないのは、これらの「ご利益」はいずれも非常に不安定なものだということです。私たちがそれを手にしたとしてもいつなくなってしまうかわからない極めて不安定なもので、それゆえに手に入れたらそれを失いたくないとそれでまた悩みを生じるという性格ももっているものだということです。

 これに対して親鸞聖人は、私たちが信心をいただく(一念喜愛の心を発す)ことによって受けることができる利益を「お正信偈」の中で五つ示しておられます。これらの利益は前に挙げた不安定な利益ではなく、永遠の安定まさしく涅槃を得ることができる利益なのです。

 本日の2句目(不断煩悩得涅槃)がその最初のものになりますが、「不断得証の益(やく)」とお呼びするものです。
 ここでは、「自ら煩悩を断ち切らないまま、浄土でさとりを得ることができる、という利益」が示されています。

 仏教の究極の目的は、煩悩を断ち切って涅槃の状態に入ることなのですが、私たちにはこの煩悩を断つということが非常に難しい、というより不可能なことのように思われます。先にもあげましたように、何かを得てもそれをなくしたくない、もっと欲しい・・・など煩悩の種は限りなく再生産されます。私たちはいつまでも迷いの世界から逃れることはできないと言わざるを得ません。

 では、なぜ「煩悩を断たないままで涅槃を得ることができる」と聖人は仰ったのでしょうか。
 それは、阿弥陀仏はこのような私たちを哀れに思われてご本願を起こされたからだと聖人はお示しいただきました。この阿弥陀仏のご本願に遇い、そのお呼びかけを受け止めることができれば、私たちは涅槃を得ることができるのだと聖人は仰っているのです。

 このように、私たちは阿弥陀仏のご本願によって煩悩を持ったままさとりを得ることができる、とお示しいただきました。
 ただ、忘れてはならないことは、私たちがどのように努力しても、もがいても自分の力では煩悩を断つことができない存在であるという、自分自身にたいする慙愧の思いがなければならないということではないでしょうか。「放っておいても私は救われる」のではなく、「こんな私でも救っていただける、もったいなくありがたいことだ」という思いがなければならないと思うのです。
 それが阿弥陀仏のご本願に対する心からの報謝の思いになるのだと思います。

 (写真は、ネパールのティラウラコットにある仏教遺跡です)

 お釈迦さまが出家されるまで住んでおられたカピラ城の場所については、インド説とネパール説があるのだそうです。写真のティラウラコットがネパール説の場所だとされています。お釈迦さまがなくなられて1000年ほどは仏教徒の巡礼の地であったとされていますが、その後この地域ではヒンドゥー教やイスラム教が力を持つことになって、仏教遺跡は荒廃しその場所もはっきりしないという状況になりました。
 遺跡に立つと、お釈迦さまが従者とカンタカという名前の馬とともに城を抜け出されたというその姿が遠い時間を超えて見えてくるような思いがします。

 最近になって、インドでも仏教遺跡の修復、保存に力が入れられるようになったということですので、今後さらに整備が進められることと思われます。

 (このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)
 

 
 
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