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92.御正忌報恩講でのご親教


20150213本願寺新報

 1月23日の記事で本山の御正忌報恩講のご報告を行いましたが、以下、1月15日午後の逮夜(たいや)法要の後に専如ご門主が行われたご親教の全文を掲載させていただきます。

 「本年も、ようこそ御正忌報恩講にご参拝くださいました。
  全国から親鸞聖人をお慕いする皆さまがご参拝くださり、ご一緒におつとめし、お念仏申させていただく尊いご縁であります。このご縁にあたり、聖人のお徳を偲び、あらためて聖人がお説きになった浄土真宗のみ教えを味わわせていただきましょう。
 親鸞聖人は、比叡山で20年間修行に励まれました。しかし、どんなに修行をしても煩悩はなくならず、さとりを開くことはできませんでした。存覚上人が書かれた『嘆徳文(たんどくもん)』には、比叡山での親鸞聖人の心境を、「定水(じょうすい)を凝らすといへども識浪(しきろう)しきりに動き、心月(しんげつ)を観ずといへども盲雲(もううん)なほ覆ふ」(註釈版聖典107ページ)と著されています。
 心を統一しようとしても、さまざまな思いが浮かんできて、心安まらないという状態でありましょう。そのような中で親鸞聖人は、法然聖人が説かれていた教えに出遇われます。それは、私自身の行為である修行の限界を知り、阿弥陀さまのはたらきの無限性にわが身をおまかせするという教えであります。阿弥陀さまの真実のはたらきに出遇ったとき、同時に、真実に背いた生き方しかできない私であることに気付かされます。親鸞聖人の『正像末和讃』に、「浄土真宗に帰すれども 真実の心はありがたし 虚仮不実のわが身にて 清浄の心もさらになし」(同617ページ)と記されました。
 親鸞聖人が説かれた浄土真宗の教えの特徴の一つは、「虚仮不実のわが身」と言われた、自己中心的で、正しさや清らかさを持たない私が、そのままの姿で受け容れられていくところにあります。しかし、虚仮不実のわが身がそのままでよりということではありません。それは、どこまでも悲しむべき私自身の姿です。
 同じ『正像末和讃』に、「小慈小悲もなき身にて 有情(うじょう)利益(りやく)はおもふまじ 如来の願船いまさずは 苦海をいかでかわたるべき」(同617ページ)とあります。何一つ真実のない私に対して、阿弥陀さまは、「そのままの姿で救い遂げる」とはたらいてくださっています。その阿弥陀さまのはたらきに全てをおまかせする以外に私が救われる道はありません。
 阿弥陀さまのお慈悲を感じるとき、私たちは自分自身の姿を見つめながら、等しく阿弥陀さまの願船に乗せられた者として、他の多くの方々と共に、この限られた命を歩んでいくことができます。
 阿弥陀さまのみ教えをわが事として聞き、ご縁ある方へもみ教えをお伝えするとともに、さまざまな悲しみや苦しみを抱えている方の気持ちに寄り添えるよう努めながら、「南無阿弥陀仏」とお念仏申す日々を送らせていただきましょう。」

(写真は、御消息を伝える「本願寺新報」の2月1日号の紙面です)

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)
 
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