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754.臨時総代会を開催しました

20210621臨時総代会 (2)s  20210621プラム (2)s

  6月19日、壽福寺の臨時総代会を開催しました。

 議題は住職継職奉告法要に関するものです。この住職継職奉告法要は、住職を継職したことをご門徒さんとご一緒に阿弥陀さまにご奉告するもので、1月31日に開催された定例の総代会で実施について検討を始める旨ご報告していたものです。
 その後、施設の改修や法要の勤修などの実施内容を整理し、工事をお願いする業者さんに見積もりをとったり、カタログで費用の情報を得たり、という検討を行い、三役会で提案内容を策定してきました。

 住職継職奉告法要は、つぎの要領によりお勤めすることとなりました。

 1.日時
  2022年9月4日(日)
 2.内容
  「親鸞聖人御誕生850年・立教開宗800年」慶讃法要と併せてお勤めします

 今回の臨時総代会では、法要勤修および法要に当たって実施する事業計画、収支計画について説明し、ご門徒さんへお願いするご懇志の募集要領についてもご了解を得ました。ご懇志は、進納希望額を8月末までにご連絡いただき、来年3月末までにお納めいただくこととしました。

 今後、総代さんがおられる地域では総代さん経由でご門徒さんへ趣旨説明資料をお配りし、総代さんがおられない地域については訪問して資料をお渡しするあるいは資料を郵送するなどの方法で内容をご報告しご懇志についてお願いしていきます。
 また、新聞を通じて、事業の進捗状況などの情報もお伝える予定にしています。

(写真左は総代会の様子、右は当日差し入れにいただいたプラムです)

 このプラムは大河内の総代さん三上敏秀さんが育てられたものです。出席いただいた皆さんと分けました。有難うございました。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)
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753.『唯信鈔』、『唯信鈔文意』を読む(36):無碍の一道(9)

20210618アグロステンマs  20210618アグロステンマ2s

 引き続き『唯信鈔文意』で親鸞聖人が取り上げられた2番目の偈頌について学びます。今回はその第8句です。

 彼仏因中立弘誓 聞名念我総迎来
 不簡貧窮将富貴 不簡下智与高才
 不簡多聞持浄戒 不簡破戒罪根深
 但使回心多念仏 能令瓦礫変成金

 能令瓦礫変成金 (よく瓦礫をして変じて金と成さんがごとくせしむ。)

 「能令瓦礫変成金」といふは、「能(のう)」はよくといふ、「令(りょう)」はせしむといふ、「瓦(が)」はかはらといふ、「礫(りゃく)」はつぶてといふ。「変成金(へんじょうこん)」は、「変成」はかへなすといふ、「金」はこがねといふ。かはら・つぶてをこがねにかへなさしめんがごとしとたとへたまへるなり。れふし・あき人、さまざまのものは、みな、いし・かはら・つぶてのごとくなるわれらなり。如来の御ちかひをふたごころなく信楽(しんぎょう)すれば、摂取(せっしゅ)のひかりのなかにをさめとられまゐらせて、かならず大涅槃(だいねはん)のさとりをひらかしめたまふは、すなはちれふし、あき人などは、いし・かはら・つぶてなんどを、よくこがねとなさしめんがごとしとたとへたまへるなり。摂取のひかりと申すは、阿弥陀仏の御こころにをさめとりたまふゆゑなり。文(もん)のこころはおもふほどは申しあらはし候(そうら)はねども、あらあら申すなり。ふかきことはこれにておしはからせたまふべし。

 (「能令瓦礫変成金」というのは、「能」は「よく」ということであり、「令」は「させる」ということであり、「瓦」は「かわら」ということであり、「礫」は「つぶて」ということである。「変成金」とは、「変成」は「かえてしまう」ということであり、「金」は「こがね」ということである。つまり、瓦や小石を金に変えてしまうようだとたとえておられるのである。漁猟を行うものや商いを行うひとなど、さまざまなものとは、いずれもみな、石や瓦や小石のようなわたしたち自身のことである。如来の誓願を疑いなくひとすじに信じれば、摂取の光明の中に摂め取られて、必ず大いなる仏のさとりを開けせてくださる。すなわち、漁猟を行うものや商いを行う人などは、石や瓦や小石などを見事に金にしてしまうように救われていくのである、とたとえておられるのである。摂取の光明とは、阿弥陀仏のお心に摂め取ってくださるからそのようにいうのである。この文の意味は、十分にいい表すことができていないけれども、大体のところを述べた。深いところは、これらのことからお考えいただきたい。)

 聖人は、前回の第7句で、「自力の心を捨てて、あらゆるものに勝る阿弥陀さまのご本願にお任せすれば」と記されていました。今回の第8句ではそれを受けて、「阿弥陀さまの誓願を疑うことなく信じれば、私たちは、石や瓦礫が黄金に変じるようにさとりを開かせていただくことができる。」とされます。
 前回も学びましたように、聖人は、「漁猟を行うものや商いを行う人など、さまざまなものとは、いずれもみな、石や瓦や小石のようなわたしたち自身のこと」であり煩悩を抱えて苦しんでいるのが私たちの姿だと記されました。そのような私たちが、自力の心を捨てて、阿弥陀さまの誓願を疑うことなく信じることで、様々な煩悩はそのままで阿弥陀さまの摂取の光に摂め取られて救われていく姿をお示しいただきました。

 最後に聖人は、「第1句から第8句までについて釈してきたが、まだ十分に意を尽くしていない。深く知りたいならば、これらを通して推し量ってください」とされています。
 梅原真隆師はこの部分について、「『文は人なり』、聖人の謙下(けんげ:へりくだること)の風格を欽仰(きんぎょう:うやまいあおぐこと)すべきである。」と記されています。師はこの一文に、親鸞聖人の謙虚な姿勢を感じられ、私たちに自分でも考えてみなさいとお勧めになる声を聞かれたのだと思います。

(写真は、アグロステンマといいます。ご門徒さんから苗をたくさんいただいて育てました。)

 和名はムギセンノウ(麦仙翁)。ヨーロッパ原産のナデシコ科の植物で、日本では1892(明治25)年に北海道の十勝地方で最初に発見されたのだそうです。ムギの栽培と同時に紛れて日本にも入ってきたのではないかと言われています。原産地では、畑に害を及ぼす雑草とされているそうですが、日本では今回のように園芸植物として栽培もされています。
 ピンクの花がかわいくて、有害だとは思えませんが・・・

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752.『唯信鈔』、『唯信鈔文意』を読む(35):無碍の一道(8)

20210614ナルコユリ 2s 20210614ナルコユリ s

 引き続き、親鸞聖人が取り上げられた『唯信鈔』の第2偈頌の第7句について学びます。

  彼仏因中立弘誓 聞名念我総迎来
 不簡貧窮将富貴 不簡下智与高才
 不簡多聞持浄戒 不簡破戒罪根深
 但使回心多念仏 能令瓦礫変成金

 但使回心多念仏 (ただ回心し多く念仏せしむれば、)

 この句について聖人が『唯信鈔文意』に記された御文と現代語訳です。

 「但使回心多念仏」といふは、「但使回心」はひとへに回心(えしん)せしめよといふことばなり。「回心」といふは自力の心をひるがへし、すつるをいふなり。実報土(じっぽうど)に生るるひとはかならず金剛の信心のおこるを、「多念仏」と申すなり。「多」は大のこころなり、勝のこころなり、増上(ぞうじょう)のこころなり。大はおほきなり、勝はすぐれたり、よろづの善にまされるとなり、増上はよろづのことにすぐれたるなり。これすなはち他力本願無上のゆゑなり。自力のこころをすつといふは、やうやうさまざまの大小の聖人・善悪の凡夫の、みづからが身をよしとおもふこころをすて、身をたのまず、あしきこころをかへりみず、ひとすぢに具縛(ぐばく)の凡愚(ぼんぐ)・屠沽(とこ)の下類(げるい)、無碍光仏(みげこうぶつ)の不可思議の本願、広大智慧の名号を信楽(しんぎょう)すれば、煩悩を具足(ぐそく)しながら無上大涅槃にいたるなり。具縛はよろづの煩悩にしばられたるわれらなり、煩は身をわづらはす、悩はこころをなやますといふ。屠(と)はよろづのいきたるものをころし、ほふるものなり、これはれふしといふものなり。沽(こ)はよろづのものをうりかふものなり、これはあき人なり。これらを下類といふなり。

(「但使回心多念仏」というのは、「但使回心多念仏」とは、ひとえに回心しなさいという言葉である。「回心」というのは、自力の心をあらため、捨てることをいうのである。真実の浄土に生まれる人には、決して壊れることのない他力の信心が必ずおこるのであり、このことを、「多念仏」というのである。「多」は、「大」の意味であり、「勝」の意味であり、「増上」の意味である。「大」は「おおきい」ということである。「勝」は「すぐれている」ということであり、あらゆる善にまさっているということである。「増上」とは、あらゆるものよりすぐれているということである。このことはすなわち、他力本願がこの上なくすぐれているからである。自力の心を捨てるということはすなわち、大乗・小乗の聖人、善人・悪人すべての凡夫、そのような色々な人々、さまざまなものたちが、自分自身を是とする思いあがった心を捨て、わが身をたよりとせず、こざかしく自分の悪い心を顧みたりしないことである。それは、具縛の凡愚・屠沽の下類も、ただひとすじに、思いはかることのできない無礙光仏の本願と、その広く大いなる智慧の名号を信じれば、煩悩を身にそなえたまま、必ずこの上なくすぐれた仏のさとりに至るということである。「具縛」とは、あらゆる煩悩に縛られているわたしたち自身のことである。「煩」は身をわずらわせるということであり、「悩」は心をなやませるということである。「屠」は、さまざまないきものを殺し、切りさばくものであり、これはいわゆる漁猟を行うもののことである。「沽」はさまざまなものを売り買いするのもであり、これは商いを行う人である。これらの人々を「下類」というのである。)

 聖人は、最初に「回心」という言葉について説かれます。
 この言葉は普通には「かいしん」と読まれることが多いように思います。手元の国語辞典で調べてみますと、「かいしん」と読む場合は、「キリスト教で、生活や世界に対する従来の不信の態度を改めて、信仰に心を向けること」とされていました。
 一方、「えしん」と読む場合、同じ辞典では「[仏]宗教的自覚によって、心を改めて邪から正に入ること」とされていました。この[仏]の表記は仏教語だということを示すものです。
 私は、「かいしん」は「一般的に誤りに気づき態度を改める」という意味だと思っていましたが、もともとは「キリスト教で」ということだったようです、これは初めて知りました。
 横道に逸れましたが、親鸞聖人は「えしん」は「他力のお救いに気づき、自力の心を改めて捨てること」だとされていることが分かります。

 そしてそれにより「決して壊れることのない他力の信心が起こる」のだとされ、それを「多念仏」とあらわされます。
 聖人は、この「多」の義を、「大」「勝」「増上」の三つの意味に解されています。それは、「大きく、すぐれていてその様はほかの何物にも勝っている」と説明されます。ここでは聖人は、「多」の持っている「たくさん」という意味は取り上げられていません。お念仏を称える回数を言っているのではなく、そのお念仏があらゆるものに勝っていること、だと示されます。

 そして自力の心を捨てる、というのはいわゆる「すぐれたりっぱな人」が、思いあがった心で、わが身を頼りとして、こざかしい思いで励む行ではなく、煩悩を抱えそれから逃れることのできない私たちが、ご本願によって煩悩をそのままにすくわれ、さとりに至ることなのだと示されます。
 聖人は、煩悩にとらわれ苦しんでいる私たちの姿を「具縛の凡愚・屠沽の下類」と記されます。本日の句に続く第8句に「れふし・あき人、さまざまのものは、みな、いし・かはら・つぶてのごとくなるわれらなり」(漁猟を行うものや商いを行う人など、さまざまなものとは、いずれもみな、石や瓦や小石のようなわたしたち自身のことである)という言葉を記しておられます。

 このように、伝統仏教では救いの対象とされていなかった「具縛の凡愚・屠沽の下類」である私たちが、阿弥陀さまから向けられた信心によって、煩悩をそのままにしてすくわれ、仏となる姿を聖人はお示しになりました。

 聖人は、「煩悩」の「煩」は「身をわずらわせること」、「悩」の方は「心をなやませること」と記されています。これもその違いを始めて知りました。

(写真は、ナルコユリです)

 寺の駐車場から境内につながる道に咲いていました。右の写真が全体の姿で花の写真も撮ったのですが、これがピンボケだったことに後で気づきました。それで、左の花の写真は2004年に奈良県の吉野町で撮ったものを使いました。

 名前を漢字で書くと「鳴子百合」。並んで咲いている花の姿が、雀を追い払うのに昔使われていた鳴子に似ているところからこの名前になったのだそうです。

751.新聞版『壽福寺だより』を発行しました

20210611紙面 20210611紙面2

  新聞版『壽福寺だより』の6月号を発行しました。
 記事は次の通りです。

〇1面
 「降誕会法要を休座しました」

 「組長日誌(5)初組会を開催」
  新型コロナウイルス感染への対応も行って開催した初組会についてご紹介しています

 「夏法座のご案内です」
 「夏法座にはぜひお参りを」
  お勤めのご案内とともに、新型コロナウイルスも考慮して無理をされないようにとのお願いもしました

〇2面
 「住職継職奉告法要について検討しています」

 「掲示板の『ことば』」
  寺の掲示板については、この新聞でも取り上げたことがなかったものですから、ご紹介をしました

 「本堂でWiFi」
  このブログでもご紹介しました、5月3日の前坊守の一周忌の事例をご紹介しました

 「中止した『花フェス』をユーチューブで」
  これもブログで取り上げましたが、ユーチューブで見ることができる「花フェス」のご紹介です

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750.宇部北組の総代会総会に出席

20210607法泉寺s    20210607法泉寺2s

  6月3日、宇部市棯小野(うつぎおの)の法泉寺さんで開催された宇部北組の総代会総会に出席しました。

 この総代会といいますのは、宇部北組の17か寺の(代表)総代さんをメンバーとするもので、毎年総会および研修会を開催していただいています。また、組をあげて取り組む行事に当たっては、各寺院の総代さんをまとめて役割を担当していただくなどのご協力をいただいています。
 昨年度は、6月4日に総会とそれに引き続いて研修会を開催する計画を立てていただいていたのですが、新型コロナウイルス感染拡大を受けて、総会は開催せずに書面による議決に変更し、研修会は後日、新型コロナウイルス感染の状況を見て開催することに変更となりました。
 その研修会は、ご報告しましたように3月25日に壽福寺で開催することができました。これは、昨年度に宇部北組として実施できた唯一の研修会になりました。

 そのようなことで、2年ぶりになる今年度の総会は、『讃仏偈』のお勤め、藤本一規総代会会長挨拶、組長挨拶に続いて次の議案を審議しました。
 ・令和2年度事業報告
 ・令和2年度会計報告
 ・令和2年度監査報告
 ・令和3年度事業計画(案)
 ・令和3年度予算(案)

 組長の挨拶では、昨年度の難しい環境の中で事業運営に協力いただいたお礼と、今年度も引き続き工夫をしてやっていくことへのご協力をお願いしました。さらに、2023年の「親鸞聖人御誕生850年・立教開宗800年慶讃法要」を受けて、組でもお勤めを予定しています慶讃法要へのご協力をお願いしました。

(写真は、法泉寺さんにあります「法泉寺厨子」と呼ばれている厨子です。以前にこの厨子について知り、一度見拝見したいと思っていたものです)

 この厨子(仏像を安置する仏具です)は、室町時代中期、15世紀後半に制作されたもので、幅が86.1cm、奥行きが76.4cmあり、山口県の有形文化財に指定されています。
 法泉寺は、もともとは、大内氏30代の義興氏が父政弘氏のために山口に建立した禅宗(臨済宗)の寺院でした。大内氏が滅亡した際に山口の法泉寺は焼失し、寺号が棯小野に伝えられたものです。その後、浄土真実に改宗し、現在の法泉寺さんに至っているものです。

 建物は、入母屋造(前後左右の四面に傾斜がある下部の屋根に、前後だけに傾斜がある屋根が乗せられている形式)で、背面の部分は切妻(下部の傾斜がない)になっています。側面には花頭窓(かとうまど)と呼ばれる禅宗様式の窓が設けられています。  
 また、正面部分は向拝(ごうはい)のような開放された部分がつけられていますが、この形式のある厨子は全国でも非常に珍しいものなのだそうです。

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749.『唯信鈔』、『唯信鈔文意』を読む(34):無碍の一道(7)

ドクダミ2  ドクダミ (2)s

 久しぶりに『唯信鈔文意』に戻ってきました。今回は、親鸞聖人が取り上げられた2番目の偈頌の第6句です。
 
 彼仏因中立弘誓 聞名念我総迎来
 不簡貧窮将富貴 不簡下智与高才
 不簡多聞持浄戒 不簡破戒罪根深
 但使回心多念仏 能令瓦礫変成金

 不簡破戒罪根深 (破戒と罪根の深きとを簡(えら)ばず)

 聖人の御文と現代語訳を記します。

 「不簡破戒罪根深」といふは、「破戒」は上にあらはすところのよろづの道俗の戒品(かいほん)をうけて、やぶりすてたるもの、これらをきらはずとなり。「罪根深」といふは、十悪・五逆の悪人、謗法(ほうぼう)・闡提(せんだい)の罪人、おほよそ善根(ぜんごん)すくなきもの、悪業(あくごう)おほきもの、善心あさきもの、悪心ふかきもの、かやうのあさましきさまざまの罪ふかきひとを「深」といふ、ふかしといふことばなり。すべてよきひと、あしきひと、たふときひと、いやしきひとを、無碍光仏(むげこうぶつ)の御ちかひにはきらはずえらばれずこれをみちびきたまふをさきとしむねとするなり。真実信心をうれば実報土(じつぽうど)に生るとをしへたまへるを、浄土真宗の正意とすとしるべしとなり。「総迎来」は、すべてみな浄土へむかへ率(い)て、かへらしむといへるなり。 

 (「不簡破戒罪根深」というのは、「破戒」とは、これまでに示したような出家のものや在家のものの守るべきさまざまな戒律を受けていながら、それを破り、捨ててしまったもののことであり、このようなものを嫌わないというのである。「罪根深」というのは、十悪・五逆の罪を犯した悪人、仏法を謗(そし)るものや一闡提(いっせんだい)などの罪人のことであり、総じて善根の少ないもの、悪い行いの多いもの、善い心が浅いもの、悪い心が深いもの、このような嘆かわしいさまざまな罪深い人のことを「深」といっているのであり、すなわち「深」は「ふかい」という言葉である。総じて、善い人も、悪い人も、身分の高い人も、低い人も、無礙光仏(むげこうぶつ)の誓願においては、嫌うことなく選び捨てることなく、これらの人々をみなお導きになることを第一とし、根本とするのである。他力真実の信心を得れば必ず真実の浄土に生まれると教えてくださっていることこそ、浄土真実の教えの本意であると知らなければならないというのである。「総迎来」とは、すべてのものをみな浄土へ迎えて連れて行き、法性の都にかえらせるといっているのである。)

 この第6句について聖人が記された御文は、二つの部分に分けられるとされています。

 前半の「ふかしといふことばなり」までの部分で、聖人は、阿弥陀さまのお救いは、破戒の人も、罪根深いひとも嫌わずにすべての人々に向けられていると説かれます。
 前回の部分で、聖人は教えを聞き信じる多聞の人も、戒律を正しく守る人も、そのことではなく、他力の信心をいただくことによって阿弥陀さまのお浄土に救われることを示されました。今回の部分では、さらに進んで、一旦受けていた戒律を破り捨てる人や大罪を犯した人、仏法を謗る人、正法を信じずさとりを求める心もない人、など罪業の深い人でも、阿弥陀さまはお捨てになることはない、とされます。

 そして、「すべてよきひと、」以下の部分で、聖人は第2句から今回の第6句までについて、改めてその総意をお伝えいただいています。人の善悪、貴賤を問うことなく、阿弥陀さまのお救いの力は誰一人残すことなく私たち一人一人に向けられているということを再度記しておられます。

 これまでの4つの句頭に使われている「不簡」という言葉が気になっていました。「えらばず」と読まれるのですが、「簡」を「えらぶ」と読むことを今回初めて知りました。「簡」の字は、普通だと「簡易」や「書簡」の「簡」のイメージです。
 手元の漢和辞典で「簡」をひくと、「ふだ」、「てがみ」と「えらぶ」の読み方が記されていました。竹(たけかんむり)が意味を表し、間(閒:かん)が発音と「隙間がある」という意味を表すのだそうです。さらに、「揀(かん)」に通じて「えらぶ」という意味にも用いられるようになったということが説明されていました。

(写真は、ドクダミの花です)

 ドクダミもちょうど今頃咲いています。独特の香り(臭気)がありますが、昔これを焼いて吹き出物などの「治療」に使っていた記憶があります。

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