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739.ご門主のご親教をお伝えします

20210430ご親教s

  4月13日から15日まで、本山御影堂で営まれました「春の法座」でご門主が「『浄土真宗のみ教え』についてのご親教」を述べられましたのでその内容をお伝えします。

 本年も、皆さまと共に立教開宗記念法要のご勝縁(しょうえん)に遭わせていただきました。立教開宗とは親鸞聖人が『教行信証』を著して他力の念仏を体系的にお示しになり、浄土真宗のみ教えを確立されたことをいいます。この法要をご縁として、私たちに浄土真宗のみ教えが伝わっていることをあらためて味わわせていただきましょう。
 さて、仏教を説かれたお釈迦さまは、諸行無常(しょぎょうむじょう)や諸法無我(しょほうむが)という言葉でこの世界のありのままの真実を明らかにされました。この真実を身をもって受け入れることのできない私たちは、日々「苦しみ」を感じて生きていますが、その代表的なものが「生老病死(しょうろうびょうし)」の「四苦」であるとお釈迦さまは表されました。むさぼり・いかり・おろかさなどの煩悩を抱えた私たちは、いのち終わるその瞬間まで、苦しみから逃れることはできません。
 このように真実をありのままに受け入れられない私たちのことを、親鸞聖人は「煩悩具足(ぼんのうぐそく)の凡夫(ぼんぶ)」と言われました。そして、阿弥陀如来は煩悩の闇に沈む私たちをそのままに救い取りたいと願われ、そのお慈悲のお心を「南無阿弥陀仏」のお念仏に込めてはたらき続けてくださっています。ご和讃に「罪業もとよりかたちなし 妄想顛倒(もうぞうてんどう)のなせるなり」「煩悩・菩提体無二(たいむに)」とありますように、人間の分別がはたらき出す前のありのままの真実に基づく如来のお慈悲ですから、いのちのあるものすべてに平等にそそがれ、誰一人として見捨てられることなく、そのままの姿で摂(おさ)め取ってくださいます。
 親鸞聖人は「念仏成仏これ真宗」(『浄土和讃』)、「信は願より生ずれば 念仏成仏自然(じねん)なり 自然すなはち報土なり 証大涅槃(しょうだいねはん)うたがはず」(『高僧和讃』)とお示しになっています。浄土真宗とは、「われにまかせよ そのまま救う」とう「南無阿弥陀仏」に込められた阿弥陀如来のご本願のお心を疑いなく受け入れる信心ただ一つで、「自然の浄土」(『高僧和讃』)でかたちを超えたこの上ないさとりを開いて仏に成るというみ教えです。
 阿弥陀如来に願われたいのちと知らされ、その暖かなお慈悲に触れる時、大きな安心とともに生きていく力が与えられ、人と喜びや悲しみを分かち合い、お互いに敬い支え合う世界が開かれてきます。如来のお慈悲に救われていく安心と喜びのうえから、仏恩報謝(ぶっとんほうしゃ)の道を歩まれたのが親鸞聖人でした。私たちも聖人の生き方に学び、次の世代の方々にご法義がわかりやすく伝わるよう、ここにその肝要を「浄土真宗のみ教え」として味わいたいと思います。

 浄土真宗のみ教え

 南無阿弥陀仏
 「われにまかせよ そのまま救う」の弥陀のよび声 
 私の煩悩と仏のさとりは 本来一つゆえ
 「そのまま救う」が 弥陀のよび声
 ありがとう といただいて
 この「愚身(み)」をまかす このままで
 救い取られる 自然の浄土
 仏恩報謝の お念仏
 
 み教えを依りどころに生きる者 となり
 少しずつ 執(とら)われの心を 離れます
 生かされていることに 感謝して
 むさぼり いかりに 流されず
 穏やかな顔と 優しい言葉
 喜びも 悲しみも 分かち合い
 日々に 精一杯 つとめます

 来る2023(令和5)年には親鸞聖人御誕生850年・立教開宗800年慶讃法要をお迎えいたします。聖人が御誕生され、浄土真宗のみ教えを私たちに説き示してくださったことに感謝して、この「浄土真宗のみ教え」を共に唱和し、共につとめ、み教えが広く伝わるようお念仏申す人生を歩ませていただきましょう。なお、2018(平成30)年の秋の法要(全国門徒総追悼法要)の親教において述べました「私たちのちかい」は、中学生や高校生、大学生をはじめとして、これまで仏教や浄土真宗にあまり親しみのなかった方々にも、さまざまな機会で引き続き唱和していただき、み教えにつながっていくご縁にしていただきたいと願っております。
 2021(令和3)年4月15日

 浄土真宗本願寺派門主 大谷 光淳

 
 ご門主が引用されたご和讃について、そのお心を味わいたいと思い全文と現代語訳を記します。

 「罪業もとよりかたちなし 妄想顛倒のなせるなり 心性もとよりきよけれど この世はまことのひとぞなき」(『正像末和讃』)
 (罪とはもとよりかたちのあるものではなく、誤ったものの見方からつくられるのである。心の本性とはもとより清らかなものであるが、この世にまことの心をもっている人などいない。)

 「本願円鈍一乗は 逆悪摂すと信知して 煩悩・菩提体無二と すみやかにとくさとらしむ」(『高僧和讃』)
 (すべてのものを速やかに完全なさとりに至らせる唯一最上の本願は、五逆や十悪のものも摂め取ってくださると信じるところに、煩悩とさとりは別のものではないと速やかにさとらせてくださる。)

 「念仏成仏これ真宗 万行諸善これ仮門 権実真仮をわかずして 自然の浄土をえぞしらぬ」(『浄土和讃』)
 (念仏により仏のさとりを開くという教えこそが真実であり、さまざまな善い行いによりさとりを開くという教えは方便である。真実と方便をわけることなく、真実の浄土を決して知ることはできない。)

 「信は願より生ずれば 念仏成仏自然なり 自然すなはち報土なり 証大涅槃うたがはず」(『高僧和讃』)
 (真実の信心は弥陀仏の本願から生じるので、おのずと念仏によって仏のさとりが開かれる。そのはたらきは真実の浄土にそなわっているので、間違いなくこの上ないさとりを開くのである。)

 「五濁悪世のわれらこそ 金剛の信心ばかりにて ながく生死をすてはてて 自然の浄土にいたるなれ」(『高僧和讃』)
 (さまざまな濁りと悪に満ちた世に生きるわたしたちこそ、決して壊れることのない信心ただ一つで、永遠の迷いの世界を離れ去って、真実の浄土に往生させていただくのである。)

(写真は、ご親教を述べられるご門主です。)

 写真は、『本願寺新報』5月1日号からお借りしています。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)
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738.「花フェス2021(花まつり)」は中止となりましたが、

 20210412花フェス s  20210412花フェス2 s

 4月11日に開催を予定しておりました「花フェス2021(花まつり)」は、コロナウイルス感染を考慮して中止としました。昨年に続けて2年連続の中止ということで誠に残念なことになりました。
 開催に向けて4回の実行委員会(内1回は書面による情報周知と意見交換を行いました)を行い、準備を進めてきていただいていたのですが、3月16日の実行委員会で中止を決定しました。
 新型コロナウイルス感染の状況を見れば、やむを得ない判断だったと思います。

 一般の方には中止のご連絡をしましたが、このイベントで担当を持っているメンバーは、11日に会場に予定していました西念寺さんに集合して予定していた行事内容を実施しました。イベントの様子を動画撮影してユーチューブに載せることを企画していましたので、その撮影を行ったものです。

 法中のお子さんにも加わってもらって「甘茶かけ」を行い、「念珠作り」や「写経と経本作り」を実施しました。
 私は「写経と経本作り」をやってみました。最初に『重誓偈』のお経文を写経し、表紙を作り和綴じで製本をするのですが、それぞれが違った作業で、細かいところもあるのですが楽しい体験でした。
 「念珠作り」と「写経と経本作り」は一昨年の花フェスでも実施したのですが、その時も人気のコーナーだったことが分かるような気がしました。

 当日は、新しく制作したイベントブルゾンのお披露目の日でもありました。「蛍光グリーン」というのだそうですが、鮮やかなグリーンに「浄土真宗本願寺派 山口教区宇部北組」のロゴマークを付したもので、多くの参加者に見ていただければもっと良かった、というところです。

 動画は編集を終えてユーチューブに掲載されています。こちらです⇒「花フェス2021(花まつり)」
 撮影と編集には西教寺の西岡ご住職にご尽力いただきました。有難うございました。

(写真は、「甘茶かけ」と「念珠作り」の様子です)

 左の写真には、「撮影中」の西岡ご住職の姿があります。また、新作のブルゾンも見えます。

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737.降誕会は休座とします

20210423藤棚s 20210423藤棚2 (2)s 
 5月3日に予定しておりました降誕会を休座することにしました。
 4月9日に新聞『壽福寺だより』を発行した当時は、コロナへの対策をしてなんとかお勤めできるのではないかと考えていました。しかし、その後状況は急速に悪化してきましたので、総代さんとも相談して、休座せざるを得ないという判断に至りました。
 併せて、25日に総代さんにお願いしておりました、駐車場や周辺の草刈りも中止することにしました。
 21日に、総代さんに休座と草刈りの中止をご連絡するとともに、担当していただいているご門徒さんへのご連絡をお願いしました。

 また、ご講師として出講をお願いしておりました大津東組 願生寺の蘭(あららぎ)哲昭師にも休座のご連絡をしました。
 蘭師には昨年5月の降誕会にご講師をお願いしておりましたが、コロナの感染拡大で休座となり、今年こそはと再度お願いしたのですが、2年続けて休座という申し訳ないことになりました。

 先日、宇部北組内の寺院に対して、4月以降の法座等の計画について問い合わせをおこないました。その結果、現時点で半数近くのお寺で降誕会を休座されたあるいは休座の予定だということが分かりました。コロナウイルス感染の拡大が再び大きな影響を与え始めていることを実感させられます。

(写真は、昨日の境内の藤棚です)

 例年、降誕会の頃に満開になります。昨年は花のつき方が悪かったのですが、今年はたくさんの花をつけそうで、お参りいただいた皆さんと楽しめると思っていたのですが、残念です。
 藤棚の下のオオデマリももうすぐ真っ白になりそうです。

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736.上宇内地区の降誕会をお勤めしました

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 昨日18日、上宇内地区の集会所で降誕会(誕生講)とお盆のお勤めを行いました。

 以前にもお話ししていましたように、上宇内地区の集会所には阿弥陀さまのお像が安置されています。
 地区には本願寺派の3か寺(壽福寺、正恩寺さん、法栄寺さん)のご門徒さんがおられ、毎年春には降誕会と盆会、秋には報恩講のお勤めを3か寺の住職が順番にお勤めしています。

 今回は、壽福寺の担当でした。
 いつもはお正信偈をお読みするのですが、当日は阿弥陀さまとお浄土についてお取次ぎをしたいと考えておりましたので、仏説阿弥陀経をご一緒にお勤めしました。

 これも以前お伝えしましたが、上宇内地区のご門徒さんは毎朝順番にこの集会所の阿弥陀さまにお仏飯とお花をお供えしておられます。かつては40軒を超えるご門徒さんがおられたのですが、現在では15軒にまで減少しています。また、高齢者のご門徒さんも増えて、この朝のお給仕(語源はよく分からないのですが「おぶき様」と呼ばれています)の負担も以前より重くなっているのが実情です。
 このような実態を背景に、これまでのやり方を見直そうという声も上がっているとお聞きしています。

 これからも、居住者が増えることは見込まれず減っていくことなどを考えますと、さらに負担は大きくなっていくことが予想されます。
 しかし、戦前からの長い間阿弥陀さまを大切にして地域の中心に置いてこられたこの地区の伝統も、一度途切れてしまっては取り戻すことはできないと思われます。負担の軽減をはかりながら、阿弥陀さまを大切にする生活を続けていただきたいと思い、誰一人取り残すことなく救いたいと願われた阿弥陀さまのお誓いについてお伝えしました。

(写真は、当日の様子です)

 当日は、14名の方がお参りいただきました。左の写真の左後ろに阿弥陀さまのお像が安置されています。

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735.『唯信鈔』、『唯信鈔文意』を読む(30):名号の讃嘆(19)

20210416ヤマブキs  20210416ヤエヤマブキs

 引き続き、聖覚法印が『唯信鈔』の中で、法蔵菩薩があらゆる衆生を救いたいと願われた所以を述べられた部分について学びます。
 御文と現代語訳です。

  かくのごとく、微妙厳浄(みみょうごんじょう)の国土をまうけんと願じて、かさねて思惟したまはく、国土をまうくることは衆生をみちびかんがためなり。 
 国土妙なりといふとも、衆生生れがたくは、大悲大願の意趣にたがひなんとす。これによりて往生極楽の別因を定めんとするに、一切の行みなたやすからず。孝養父母(きょうようぶも)をとらんとすれば、不孝のものは生るべからず。読誦大乗(どくじゅだいじょう)をもちゐんとすれば、文句をしらざるものはのぞみがたし。布施・持戒(ふせ・じかい)を因と定めんとすれば、慳貪・破戒(けんどん・はかい)のともがらはもれなんとす。忍辱・精進(にんにく・しょうじん)を業とせんとすれば、瞋恚・懈怠(しんに・けだい)のたぐひはすてられぬべし。余(よ)の一切の行、みなまたかくのごとし。 
 これによりて一切の善悪の凡夫ひとしく生れ、ともにねがはしめんがために、ただ阿弥陀の三字の名号をとなへんを往生極楽の別因とせんと、五劫のあひだふかくこのことを思惟しをはりて、

(このように、浄らかでみごとに荘厳された国土を建立しようと願われて、さらに重ねて深く思いをつづけられました。荘厳な国土を建立されたのは、その国土に人びとを導くためであります。
 いかに浄くすぐれた国土でも、人びとの生まれることが困難であれば、大いなるあわれみをもってたてられた願いのお心と違ってしまいます。お浄土に生まれることのできる因を定めようとされましたが、すべての行のいずれをとっても容易ではありません。父母に孝養することを往生の因とすれば、親不孝の者は生まれることができません。経典を読誦することを因として用いようとすれば、字を知らないものは望むことができません。人に物を施したり戒律を守ることを因と定めれば、物惜しみをする者や戒律を破った者は除かれてしまいます。耐え忍ぶこと、努め励むことをもととすれば、いかり憎む心やなまけ心のある者は捨てられてしまいます。そのほか、すべての行もみな同じです。
 このようなわけで、すべての善悪に悩み苦しむ人びとが、ともに願ってひとしく往生できるようにと、ただ阿弥陀の三字を称えることを往生の因としたいと、五劫というたいへん長い時をかけて、深く思いつづけられ、)

 聖覚法印は今回の部分で、素晴らしい国土(お浄土)を建立していただいても、そこに至る因として様々な行を成し遂げることを求められるのであれば、それができない私たちには往生の道はないことになる、と具体的な例を挙げて示されます。そして、そのような私たちのために、ただ阿弥陀さまの御名をとなえることを因としたいと、五劫という長い間考えを巡らされた、とお伝えいただいています。

 このように、聖覚法印は様々な行を行い難い私たちを救いたいと、法蔵菩薩は南無阿弥陀仏の名号を称えるという道をご準備いただいたのだと説かれます。それはまた、親鸞聖人が、『唯信鈔文意』に「如来の弘誓をおこしたまへるやうは、この『唯信鈔』にくはしくあらはれたり」と記されたところでもあります。

 そして、『唯信鈔』の御文はこの後、以前に学びました部分につながっていきます。

(写真は、ヤマブキの花です)

 ちょうど今頃、文字通り山吹色が緑に映えて美しい花です。
 左がヤマブキ(一重の花:明石公園で出会いました)、右はヤエヤマブキ(八重山吹:昨日藤ケ瀬で)です。八重のものが好まれてこちらの方が多く、一重の方を見かけることは少ないようです。

 お年寄りのご門徒さんが、「ヤマブキの花を見ると祖母のことを思い出します」と聞かせていただいたことがありました。その方は、子どもの頃におばあさんに連れられて山を越えて寺の法座にお参りしておられたのだそうです。その途中、ヤマブキの花を見かけたおばあさんが「七重八重花は咲けども山吹の実の一つだになきぞ悲しき」という和歌と太田道灌の逸話について話をされたのだそうです。
 もう何十年も前のことなのでしょうが、懐かしそうに話をしておられました。

 調べてみますと、ヤマブキも一重のものは実を結ぶのだそうです。しかし、広く好まれた八重咲の方は雄蕊が退化して花弁になったもので実をつけず、その結果ヤマブキは実をつけないと考えられるようになったのだとか。

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734.新しい「携行ご本尊」です

20210412ご本尊   20210412ご本尊2

  肌身離さず携行できるご新しいご本尊(ご絵像)が4月1日より交付されています。

 この新しいご本尊は、「阿弥陀さまがご一緒」をコンセプトに本山本願寺が制定されたもので、4月1日の付の『本願寺新報』には次のように紹介されています。
 「核家族化や生活環境の変化に伴い、お仏壇のない家庭が増えたことに対し、また、子どもたちが実家を離れる際、入院などで自宅を離れる際に携行してもらい、常のご本尊とともにある生活を送ってほしいと制定したもの。」

 名刺サイズで、素材は、漆器のような漆黒の美しさを持つ漆プラスチック調バイオプラスチックで、冥加金は一万円です。

 先日交付を願い、この程お迎えすることができました。
 同送されてきた文書には、次のように記されていますので、ご紹介いたします。
 「阿弥陀如来は、誰一人取り残さず救おうを願われ、「われにまかせよ、必ず救う」と常にはたらきかけてくださっています。その阿弥陀如来のはたらきは「摂護不捨(しょうごふしゃ)」ともいわれ、親鸞聖人は、摂め護ってお捨てになることがないとおしめしになっています。
 この度の「携行本尊」の交付は、日常生活でいかなる状況に出遭っても、阿弥陀如来のはたらきに包まれていることを実感できるようにとの願いを込めています。
 生かされている尊い人生を、お念仏とともに力強く歩んでいきましょう。」

 併せて、専用のケースや専用のスタンド、ホック付きの携行用袋なども別売されています。
 ご希望やお問い合わせは、寺まで。

(写真は、新しいご本尊の表(左)と裏面(右)です)

 表面は立体感のある彩色のご絵像となっています。

733.新聞「壽福寺だより」を発行しました

20210409新聞1面s  20210409新聞2面s

  新聞版「壽福寺だより」4月号を発行しました。本日からご家庭にお届けします。

 4月号の内容は次の通りです。

〇1面
 「春の永代経法要をお勤めしました」

 「今年の「花フェス」も中止となりました」

 「降誕会のご案内です」

〇2面
 「携行ご本尊をご紹介します」
  4月1日より交付が始まった「携行ご本尊」を紹介しています

 「仏教婦人会幹部会を開催しました」
  会計報告の概要と併せてご報告しています

 「壽福寺を会場に総代会研修会を開催」

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732.『唯信鈔』、『唯信鈔文意』を読む(29):名号の讃嘆(18)

20210405清美寺

  前回からもう一度『唯信鈔』に戻って、親鸞聖人が「如来が弘誓をおこされた様子は、この『唯信鈔』に詳しく示されている」とされた部分について学んでいます。
 前回の部分では、法蔵菩薩が師である世自在王仏に懇請され、世自在王仏はこれを容れて二百十億の浄土の人天や国土の良し悪しをすべてお見せになったということが記されていました。

 引き続き、本日の御文と現代語訳です。

 法蔵比丘これをききこれをみて、悪をえらびて善をとり、粗をすてて妙をねがふ。たとへば、三悪道ある国土をば、これをえらびてとらず、三悪道なき世界をば、これをねがひてすなはちとる。自余の願もこれになずらへてこころ を得べし。このゆゑに、二百一十億の諸仏の浄土のなかより、すぐれたることをえらびとりて極楽世界を建立したまへり。たとへば、柳の枝に桜のはなを咲かせ、二見の浦に清見が関をならべたらんがごとし。これをえらぶこと一期の案にあらず、五劫のあひだ思惟したまへり。

 (説法を聞き諸仏の国土を観た法蔵比丘は、悪をえりわけ善をとり、粗悪なものを捨てて微妙(みみょう)なものを願いました。たとえば地獄・餓鬼・畜生の三悪道のある国土をえりわけてとらず、このようなもののない世界を願ってとりました。そのほかの願いも、これと同じように心がけられました。
 このようにして二百十億の諸仏の浄土のなかからすぐれたところ選びとって極楽世界を建立されました。それは、たとえば柳の枝に桜の花を咲かせ、二見ヶ浦に清見ヶ関をならべたような素晴らしいものでした。こうして極楽世界を選びとった様は、ただ一生という短い間だけではなく、五劫という大変長い時をかけて、深く思いをつづけられたのです。)

 聖覚法印が「粗をすてて妙をねがふ。」と記されたこの部分をどのように表現したらよいのか迷うところです。二橋進氏はこの部分を「粗雑なものを捨てて純粋なものを願いました。」としておられます。
 聖覚法印は、「粗」には「あらくわるきなり」、「妙」には「たえによきこと」と左訓を付しておられます。それで「妙」の部分を「微妙(みみょう)」としてみました。「微妙(みみょう)」が仏教語として「仏教の真理・教えやそれを悟る智慧の深遠ですぐれたさまを形容する語」とされていたことを思い出したからですが、難しいところです。

 このように、世自在王仏によって現ぜられた二百十億の仏国の良し悪しをみて、法蔵菩薩はその中の良きものを選びとり、極楽世界を建立されたと聖覚法印は記されました。

 『無量寿経』ではこの様子が次のように記されています。
 「そのとき法蔵菩薩は、世自在王仏の教えを聞き、それらの清らかな国土のようすを詳しく拝見して、ここに、この上なくすぐれた願を起したのである。その心はきわめて静かであり、その志は少しのとらわれもなく、すべての世界の中でこれに及ぶものがなかった。そして五劫の間、思いをめぐらして、浄土をうるわしくととのえるための清らかな行を選び取ったのである。」
 そして、法蔵菩薩は、世自在王仏の勧めに従って、四十八の願を述べられます。

 親鸞聖人は、『正信偈』で前回の部分に続けて次のように記されます。
  建立無上殊勝願 超発稀有大弘誓 五劫思惟之摂受 重誓名声聞十方
 (この上なくすぐれた願をおたてになり、世にもまれな大いなる誓いをおこされた。五劫もの長い間思惟してこの誓願を選び取り、名号をすべての世界に聞こえさせようと重ねて誓われたのである。)
 
 聖覚法印は、法蔵菩薩が選び取られた極楽世界を私たちが想像しやすいように、「柳の枝に咲いた桜」「二見ヶ浦に清見ヶ関を並べた」という表現で伝えられます。私たちになんとしてでもその素晴らしさを知ってもらいたいと願われていることが感じられる部分です。そして、親鸞聖人が「如来の弘誓をおこしたまへるやうは、この『唯信鈔』にくはしくあらはれたり」とされたのも、このような法印の思いを受けられたものだと思います。

(図は、清見ヶ関ゆかりの寺院である清見寺(せいけんじ)を描いたものです。)

 清見ヶ関というのは、現在の静岡市清水区興津にかつてあった関所のことだそうです。7世紀奈良時代に設けられたと考えられる関所ですが、鎌倉時代になると関所としての役割は低下したようです。しかし、駿河湾に面し、富士山や駿河湾の向こうには伊豆半島の天城連山を遠望するという景勝の地で、その後も清見潟という名前で広く知られていたようです。
 清見寺は奈良時代に創建された寺院で、この清見潟を望む高台にあるお寺です。

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『唯信鈔』、『唯信鈔文意』を読む(28):名号の讃嘆(17)

20210402リビングストンデージー  20210402リビングストンデージー2

 前回、聖覚法印が、『唯信鈔』の中で法蔵菩薩がご本願をお立てになった経緯を記された部分をこのブログでは端折ってしまったと記しました。もう一度法印が記された御文を読んでおりましたが、やはりご一緒にこの部分を読みなおしたいと考え、もう一度『唯信鈔』の最初の段に戻ってきました。

 『唯信鈔』の該当する部分の御文と現代語訳です。現代語訳は、加藤弁三郎氏の『唯信鈔文意』所載の二橋進氏の訳を参考にさせていただいています。

  そもそも名号をとなふるは、なにのゆゑにかの仏の本願にかなふとはいふぞといふに、そのことのおこりは、阿弥陀如来いまだ仏に成りたまはざりしむかし、法蔵比丘と申しき。そのときに仏ましましき、世自在王仏と申しき。法蔵比丘すでに菩提心をおこして、清浄の国土をしめて衆生を利益せんとおぼして、仏のみもとへまゐりて申したまはく、「われすでに菩提心をおこして清浄の仏国をまうけんとおもふ。 願はくは、仏、わがためにひろく仏国を荘厳する無量の妙行ををしへたまへ」と。そのときに世自在王仏、二百一十億の諸仏の浄土の人・天の善悪、国土の粗妙をことごとくこれを説き、ことごとくこれを現じたまひき。 

(そもそも南無阿弥陀仏の名号を称えるのは、阿弥陀仏の本願にかなうといわれるが、それはなぜなのでしょうか。
 そのことのおこりは、阿弥陀仏がいまだ仏になられる以前の昔、法蔵比丘ともうされました。その時、世自在王ともうされる仏がおられました。法蔵比丘はすでにさとりを求める心をおこし、この上なく清らかな国土を得て人々の迷いと苦しみのもとを除きたいと思われたのです。
  そこで世自在王仏のみもとにまいって申し上げました。「私はすでにさとりを求めて、仏道を修めるこころをおこし、穢れのない清らかな仏の国を建立しようと思います。願わくは、私のために、仏の国を広く荘厳することのできるよう、限りない正しい行をおしえてください。」この願いを聞かれた世自在王仏は、二百十億の諸仏の浄土の人びとや天人たち、またその国土の良し悪しのすべてを説き、すべてを現出してくださいました。)

 因位にあった法蔵菩薩がなぜ人々を救う願をたてたいと思われ、どのようにしてそれを成就され、どのように私たちを救っていただいているのか、を「仏願の生起本末」と申しますが、聖覚法印はそのことをこの段で私たちに伝えいてただいています。

 『無量寿経』には、詳しくその経緯が記されています。
 最初に法蔵菩薩は、世自在王仏のお徳を讃える偈(「讃仏偈」)を称えられます。次いで、世自在王仏に、速やかにさとりを開き、人々を迷いから救う道を教えてもらいたいと述べられますが、世自在王仏は、どのような修行をして国土をととのえるのかはそなた自身で知るべきだろう、とその望みを断られます。これに対して、法蔵菩薩は、それは広く、深いものですから、どうか私のためにお説きいただきたい、と重ねて申し上げられます。そのように、法蔵菩薩の志が尊く深いものであることを知られた世自在王仏は、この段に記されていますように、法蔵菩薩に二百十憶の様々な仏の国についてその人天、国土の良し悪しを見せられることになりました。

 親鸞聖人は『正信偈』の最初の部分で次のように記されています。
  法蔵菩薩因位時 在世自在王仏所 覩見諸仏浄土因 国土人天之善悪
 (法蔵菩薩の因位のときに、世自在王仏のみもとで、仏がたの浄土の成り立ちや、その国土の人間や神々の良し悪しをご覧になって)

 この部分、あるいはそれに続く御文を読んでおりますと、聖覚法印が言葉を尽くして法蔵菩薩が立てられた誓願を讃え喜ばれ、またそうするようにと私たちに呼びかけておられることを感じます。そして、その法印の思いを親鸞聖人が受け継がれ、人々に『唯信鈔』を読むようにと何度も呼びかけられたことも、遠く時代を隔ててなお実感することができます。

 今回気づいたことがありました。
 それは、「荘厳」という言葉です。法蔵菩薩は世自在王仏に「ひろく仏国を荘厳する無量の妙行ををしへたまへ」と願われたと記されています。
 この「荘厳」ということばを『浄土真宗辞典』にたずねてみますと、「うるわしく身や国土を飾ること。身・口・意の三業をととのえて清浄にすること」と「仏壇や寺院の本堂などにおいて尊前を装飾すること」の2つの意味が記されています。
 私は「荘厳」というと、まず2番目の意味を思い浮かべてしまうのですが、元々は「身や国土を清浄に整える」という意味だということに気づいた次第です。
 『阿弥陀経』には、「成就如是 功徳荘厳」という言葉が何度も出てきますが、これも目に見える美しさだけではなく、すべてが整った清浄な状態を示しているのだと、再度確認した思いです。

(写真は、リビングストンデージーです。)

 2月中旬にご門徒さん(昨年ご紹介した方です)から苗をたくさんいただきました。ところがその直後に大雪となって、苗は深い雪の中に埋もれてしまいました。その後に苗を植木鉢などに植え替えたのですが、育ってくれるだろうか心配しておりました。しかし、このようにきれいに咲いてくれ、その生命力には感心しました。
 ネットの情報によりますと、花弁のように見えるカラフルな部分は蕚片が変化したものだそうで、中心部の白とのコントラストが鮮やかです。

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