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713.『唯信鈔』、『唯信鈔文意』を読む(21):名号の讃嘆(13)

20210129アニメ来迎図s 

 親鸞聖人は、続いて「来迎」の「来」についてその意味をお示しになります。以下ご文と現代語訳を載せます。

 「来迎(らいこう)」といふは、「来(らい)」は浄土へきたらしむといふ、これすなはち若不生者(にゃくふしょうじゃ)のちかひをあらはす御(み)のりなり。穢土(えど)をすてて真実報土(ほうど)にきたらしむとなり、すなはち他力をあらはす御ことなり。 
また「来」はかへるといふ、かへるといふは、願海(がんかい)に入(い)りぬるによりてかならず大涅槃(だいねはん)にいたるを法性(ほっしょう)のみやこへかへると申すなり。法性のみやこといふは、法身(ほっしん)と申す如来のさとりを自然(じねん)にひらくときを、みやこへかへるといふなり。これを真如実相(しんにょじっそう)を証(しょう)すとも申す、無為法身(むいほっしん)ともいふ、滅度(めつど)に至るともいふ、法性の常楽(じょうらく)を証すとも申すなり。このさとりをうれば、すなはち大慈大悲きはまりて生死海(しょうじかい)にかへり入(い)りてよろづの有情(うじょう)をたすくるを普賢(ふけん)の徳に帰せしむと申す。この利益(りやく)におもむくを「来」といふ、これを法性のみやこへかへると申すなり。 

 (「来迎」というのは、「来」は浄土へ来させるということである。これはすなわち若不生者と誓われた本願をあらわすみ教えである。この迷いの世界を捨てて真実の浄土に来させるというのである。すなわち他力をあらわすお言葉である。また「来」は「かえる」ということである。「かえる」というのは、本願の海に入ったことにより必ず大いなるさとりに至ることを、「法性の都へかえる」というのである。法性の都というのは、法身という如来のさとりを本願のはたらきによっておのずと開くとき、そのことを「都へかえる」というのである。これを真如実相を証するともいい、無為法身ともいい、滅度に至るともいい、法性の常楽を証するともいうのである。このさとりを得ると、すなわち大いなる慈悲の心が極まり、再び迷いの世界にかえり入ってあらゆるものを救うのである。このことを普賢の徳を得るという。この利益を得ることを「来」といい、このことを「法性の都へかえる」というのである。)

 聖人は、「来」に二つの字義があるとされます。

 その一つ、「来」は「きたらしむ」の義、迷いの世を捨ててお浄土に来させる、ということだと記されます。「こさせる」のですから、これは私たちがそうしたいと願い、私たちが努力してお浄土にいくのではありません。阿弥陀さまが、迷いに苦しむ私たち救おう、お浄土に来なさい、という「他力」をあらわす言葉です。

 ついで聖人は、「来」は「かへる」の義だとされます。ご本願にお遭いし、さとりを得、「法性の都」阿弥陀さまのみもとに「かえる」ことだとされます。さらに、さとりを得て阿弥陀さまのもとにかえったのちに、再びこの迷いの世にもどり、あらゆるものを救うのだと示されます。このお浄土にかえる(往相)とふたたび迷いの世にかえる(還相)の両方をもって「法性のみやこへかへる」とお示しいただいています。

 ここで、留意しておかなければならないことは、この「来迎」は私たちの命が終わる臨終を迎えていただくものではないということです。阿弥陀さまのご本願にお遭いすることができ、真実の信心をいただくことができれば、その時に往生は定まるのだ、と説かれます。
 平安時代の貴族は、往生を求め枕元に立てた「来迎」の絵図に紐を結び、それを手に握って臨終のときを迎えたと伝えられています。そこには、往生できるかどうかは、臨終のときにならないと分からないという不安な思いがありました。かつてご講師が、自力で往生を求める「諸行往生」を入学試験の結果を待っている受験生に例えられたことを思い出します。
 親鸞聖人は、「真実信心の行人は、摂取不捨のゆゑに正定聚の位に住す。このゆゑに臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心定まるときに往生また定まるなり。」(『親鸞聖人御消息』)と、阿弥陀さまのご本願によって信心をいただいたその今、臨終を待たずして往生は間違いないものになるのだとお示しいただきました。

(図は、アニメ「かぐや姫の物語」の最後に見られた「来迎図」です。)

 このアニメはスタジオジブリが制作したもので、2013年に公開されました。かぐや姫が月にかえる様子を描いたもので、バックに流れていた音楽とともに印象に残る場面でした。当然のことながら、以前このブログで見ました「来迎図」とは違った雰囲気になっていますが、「来迎を迎えた喜び」といった共通するものも感じます。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)

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712.『唯信鈔』、『唯信鈔文意』を読む(20):名号の讃嘆(12)

 20210125高見山樹氷s

  親鸞聖人が『唯信鈔文意』で取り上げられた最初の偈頌の第4句を学んでいます。

 最初の偈頌、4句です。

  如来尊号甚分明 十方世界普流行
  但有称名皆得往 観音勢至自来迎

 聖人は「自来迎」について説かれ、前回の部分で、阿弥陀さまがたくさんの仏さまや観音・勢至菩薩の姿で「自ら」私たちのところにおいでいただいて護っていただく、と「自」の意味を伝えていただきました。
 今回は、「自」の二つ目の釈です。少し長いですけが、現代語訳とともに記します。

 また「自」はおのづからといふ、おのづからといふは自然(じねん)といふ、自然といふはしからしむといふ、しからしむといふは、行者のはじめてともかくもはからはざるに、過去・今生(こんじょう)・未来の一切の罪を転ず。転ずといふは、善とかへなすをいふなり。もとめざるに一切の功徳善根(くどくぜんごん)を仏のちかひを信ずる人に得しむるがゆゑにしからしむといふ。 
 はじめてはからはざれば自然といふなり。誓願真実の信心をえたるひとは、摂取不捨(せっしゅふしゃ)の御(おん)ちかひにをさめとりてまもらせたまふによりて、行人のはからひにあらず、金剛の信心をうるゆゑに憶念(おくねん)自然なるなり。この信心のおこることも釈迦の慈父(じぶ)・弥陀の悲母(ひも)の方便によりておこるなり。これ自然の利益(りやく)なりとしるべしとなり。
 

 (また「自」は「おのずから」ということである。「おのずから」というのは「自然(じねん)」ということである。「自然」というのは「そのようにあらしめる」ということである。「そのようにあらしめる」というのは、念仏の行者があらためてあれこれと思いはからわなくても、過去・現在・未来のすべての罪を転じるのである。「転じる」というのは、罪を善に変えてしまうことをいうのである。求めなくても、すべての善根功徳を、仏の誓願を信じる人に得させてくださるから、「そのようにあらしめる」という。
 あらためて思いはからうのではないから、「自然」というのである。本願に誓われた真実の信心を得た人は、摂取不捨と誓われたその本願のうちに摂め取って阿弥陀仏がお護りになるのであるから、行者が思いはからうのではなく、決して壊れることのない他力の信心を得ることにより、おのずと本願を心にたもつことができるのである。この信心がおこることも、慈しみあふれる父である釈尊とあわれみ深い母である阿弥陀仏の手だてによるのである。これは本願のはたらきによっておのずから得る利益であると心得なさいということである。)

 聖人は、今回の部分で「自」は「おのずから」という意味であると示しておられます。「おのずから」というのは「そのようにあらしめる」という意味であって、私たちがあれこれと思いはかり求めるからではなく、阿弥陀さまの他力のおはたらきによるものだと示されます。

 そして、その阿弥陀さまの他力のおはたらきを示すものとして、聖人は一切の罪を転じて善をなす(転悪成善)ということをあげておられます。この「転悪成善」は、他力信心の行者が現世で得ることができる十種の利益(りやく)の一つとされているものです。
 普賢晃壽師は「罪障功徳の体となる こほりとみづのごとくにて こほりおほきにみづおほし さはりおほきに德おほし」という『高僧和讃』の1句をあげておられます。ちょうど氷が溶けて水になるように、罪の障りはそのまま転じられて功徳となる、罪障の氷が多ければ多いほどそれが転じた水も多くなるのだ、と聖人は示されました。その罪障を功徳に転じるのは、私たちがそうしたいと望み、励むから可能になるのではなく、それは阿弥陀さまの他力のお力によるものだとされました。

 このように、前回と今回の2回で、聖人は「自」という語について説かれました。
 「自」というのは、多くの仏方が私たちを護ろうと「みずから」おいでいただいているお姿であり、また「自」というのは、私たちがたくさんの罪障りを持ちながら救われる姿に転じることができるのは私たちがそうして欲しいと思い計らうからではなく、阿弥陀さまの他力のおはたらきによって「おのずから」そうなるのだと、とお示しいただいたのです。

(写真は、2005年2月に高見山で出会った景色です。真冬に寒そうな写真で申し訳ありません。)

 「エビの尻尾」と呼ばれる現象で、木についた氷が風上に向かって伸びていったものです。
 「高見山」はお相撲さんの名前みたいですが、奈良県と三重県の県境にある標高1,248メートルの山で、「関西のマッターホルン」とも呼ばれているそうです。
 寒い日でしたが、山を下りてからの温泉とビールが記憶に残っています。

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711.ご紹介します(25):「市制百年 宇部市の誕生」


20210122本表紙s  20210122本裏表紙ss 

  前回の記事でご紹介しました講演会の講師の内田鉄平氏が書かれた、『市制百年 宇部市の誕生』という本をご紹介します。昨年の9月に宇部日報社から発行されたものです。

 内田氏は、このブログでもご紹介しました『石炭都市宇部の起源』という書で、石炭の採掘が江戸時代から始まり、明治維新とその後の進展の中で発展してきたことを後付けされました。今回の書では、この石炭産業の発展が100年前の宇部市の市制施行とどのように関わっていたのかということについて記されています。

 前回ご紹介しました内田氏の講演に沿ってこの間の流れを見てみます。
 長州藩の永代家老の福原家の領地である宇部村地区では、幕末期より石炭の採掘が盛んになりました。明治維新により禄を失うことになる福原家の家臣は、「宇部炭坑会社」を設立し石炭採掘を管理することで、この事態に対応しようとします。次いで、明治19(1886)年にその後継組織として「宇部共同義会」を創設します。
 明治20年以降、宇部共同義会のもとで、旧の福原家領内に多くの炭坑が開山されます。明治30年には沖ノ山炭坑が開かれ、宇部の石炭業は大きな成長期を迎え、それに合わせて炭坑の周辺事業として多くの事業が誕生、成長していきます。
 このような産業の急速な発展により、元々はほとんど人家のなかった新川地区に多くの人々が住むようになりました。人口6,000人程度だった宇部村は明治40年には10,000人を超え、大正9年の第1回国勢調査では40,000人に届こうかというように急増します。
 このような社会環境の急変に伴って、様々な問題も発生するのですが、それらへの対処も含めて市制への移行が必要だと考えられ、大正10(1921)年、宇部村から「町」を飛び越して一気に宇部市制施行となります。

 このような急速は発展、拡大が可能になった要因は何だったのだろうか、という目で『市制百年 宇部市の誕生』を読みますと、対外、対内の両面で旧宇部村が一体となって対処できたからではないかと感じられます。
 それが可能になった背景には、この地区がかつての福原家の領地に当り、旧の領主、家臣、村の人が明治維新を超えても一体感を持ち続けることができたことがあるのではないかと思います。

 その一つ、対外的な関係では、同書で「宇部モンロー主義」という言葉で紹介されていますが、外部に頼らず独自に課題に対処する姿勢にあります。宇部地区の炭坑は、筑豊地方の炭坑に比べて規模が小さく、大きな外部の資本からは注目されなかったのだそうです。それで、やむを得ずに自身で資金を調達(寄付や出資を募るなど)して事業を展開していきました。その場合も、資金を募る対象は宇部村内の人びとに限ったようです。

 もう一つは、対内的にも地域一体になって対処できたということです。
 炭坑事業の急速な発展を推進した組織として、先に挙げた明治19年設立の「宇部共同義会」があります。この組織は社会事業を行う部門と炭坑の管理を行い収益をあげる部門とを持った組織となっていて、経済的にこの地域を支える機能を持っていました。
また、明治21年に「宇部達聰会」という組織が創設されます。この組織は、共同義会を支援するとともに、村会議員の推薦を行うなど、村内の世論醸成を支える機能を持ったもののようです。この組織の運用にかかる費用は共同義会が負担していたようです。
 これらの組織の他、村政にも旧福原家の家臣が多くかかわっていました。このように、旧福原家の関係者が共同義会、達聰会、行政の要職を占め、その三者が三位一体となって宇部の急速な発展を推進していったものと思われます。そしてその中心は、経済的な支えとして機能していた共同義会ということになるようです。

 その他、この宇部地区の発展について、世論を喚起し時には批判していたものとしてマスコミがあったことも知りました。現在は宇部日報社となっていますが、かつての宇部時報社の設立の経緯や記事も紹介されていて、当時の熱気を感じることができました。

 このように、行政、経済、世論が一体となって産業発展に邁進していった姿が浮かび上がってきます。それが、宇部では外部からの関与を必要とせずに行われたところに特徴があるように思われます。「モンロー主義」とされる所以でしょうが、一方で排他的な方向に向かう可能性もあったのではないかと想像しますが、それもうまくコントロールしながら現在の宇部市の姿になったものと思われます。

(図は、同書の表紙、裏表紙です)

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710.歴史を訪ねる(25):講演会「プレイバック宇部100年」

20210118チラシs  

  1月16日、「プレイバック宇部100年」という講演会が開催され、聴講することができました。
 この講演会は、宇部市制100年を記念する行事の一環として、宇部地方史研究会および宇部市教育委員会が主催、宇部市文化創造財団と宇部日報社の後援により開催されたものです。全体で5回連続の講演会となっていて、今回はその第1回目となるものでした。

 当日、会場の宇部市文化会館に約80名の方が集まっておられました。
 講演者は宇部地方史研究会の会長で宇部フロンティア大学の特命教授でもある内田鉄平氏でした。以前にもご紹介しましたように、内田氏は古文書読み解き会でご指導いただいている方でもあります。
 演題は「宇部市誕生の前夜」で、宇部市が誕生した背景についてお聞きすることができました。

 宇部市は大正10(1921)年11月1日に成立したのですが、それ以前は宇部村という「村」でした。このように「村」から「町」を飛び越していきなり「市」に昇格するというのは珍しい(戦前には4件のみ。宇部市は佐世保市に次いで2例目)事例だったようです。そのような展開が可能になったのは、宇部地区の炭坑が急速に発展したことによります。
 以前、このブログで内田氏の著『石炭都市宇部市の起源』をご紹介しましたが、この炭坑の発展が社会的にどのような影響を与え、それが宇部市の誕生につながったのかという観点からお話を聞くことができました。

 上記の著書にも記されていますが、石炭採掘は最初は船木村や有帆村で盛んだったということです。それは、この地域の炭層が地表近くにあり採掘しやすかったことによるのだそうですが、地下の炭層を採掘するのに必要な排水技術が進歩することにより宇部地区の深い炭層や海底の炭層も採掘が可能となり、宇部地区に中心が移っていったのだそうです。

 そのような背景により、明治20年代に宇部村の炭坑が一気に増加します。そして明治30(1897)年に、渡辺祐策氏の尽力により沖ノ山炭坑が開山します。沖ノ山炭坑は採掘量を伸ばしていき、他の炭坑とともに宇部地区に活気をもたらしたのだということです。
 多くの炭坑が立地することになった新川地区はもともとほとんど人家のない地域だったそうですが、炭坑の発展とともに炭坑で働く人々が増え、人口が急増していきます。この地区を含めた宇部村の人口はもともとは6,000人程度から明治40年頃には10,000人を大きく超えるまでに増え、さらに増加していきました。

 炭坑業の発展に伴い、その周辺の電気事業、軽便鉄道、銀行、鉄工、レンガ製造、製材、精錬、紡織などの事業が始まり、あるいは発展し、この時期に宇部は石炭産業を核として工業都市の基礎を築いたことになります。

 そのような中、大正7(1918)年8月に米騒動が発生します。
 第一次世界大戦後に日本は好景気の時期を迎えるのですが、米などの物価が高騰し、富山で発生した騒動が全国に広がり、宇部地区にも影響を及ぼすことになります。宇部での騒動はそれまでの炭坑従業者が抱えていた不満がベースにあるもので、実態は労働争議で、軍隊まで出動し死者が生じる事態となりました。
 このように、当時の宇部は急速に膨らんだ居住者、インフラの整備が追い付かない環境、労働条件に対する不満などが渦巻く不安定な社会でした。

 この騒動を通じて、宇部村を主導していた人々は、治安の維持、インフラの整備、社会教育の拡充、娯楽の提供などの対策を進めていくのですが、その中で、市制の施行が必要だとする市制推進論が浮上してきました。新川地区への「一極集中」に反発する農村部からの反対もあったのだそうですが、宇部村として市制に移行することを決し、大正10(1921)年11月1日に市制が施行されることになりました。

 その過程の面白いエピソードが紹介されていました。
 当時は、市制を施行するためには年間を通じて40,000人の人口が必要だったのだそうです。ところが、大正9年10月に実施された第1回の国勢調査の結果では、予想に反して人口は38,000人強でした。それで宇部村では再度調査を実施し、その結果は40,000人を超えるということが確認され、それにより市制への移行を果たしたのだそうです。

 今回の講演で、これまで宇部村の宇部市への移行は、人口が増加したことから「可能になった」程度の理解しかしていなかったことに気づきました。市制施行に先立つ、社会環境の変化、米騒動などの激動があり、さらにその根底に宇部地区の炭坑の発展があったという構造について理解できたように思います。

(図は、連続講演会のパンフレットです)

 第2回目以降のテーマは、次の通りです。いずれも興味深いテーマで、楽しみにしています。

 「ひろばと街と彫刻と」、「新聞が伝えた宇部市制ー宇部時報の記事から」、
 「宇部炭田の歴史と日本初の石炭記念館」、「宇部市の歴史からふりかえる市制100年」

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709.『唯信鈔』、『唯信鈔文意』を読む(19):名号の讃嘆(11)

20210115雪の竹林 

  前回に続いて、親鸞聖人が『唯信鈔文意』で取り上げられた最初の偈頌の第4句について学びます。もう一度4つの句を記しておきます。

  如来尊号甚分明 十方世界普流行
  但有称名皆得往 観音勢至自来迎 

 本日の部分の御文と現代語訳です。

 「自来迎」といふは、「自」はみづからといふなり、弥陀無数(むしゅ)の化仏(けぶつ)・無数の化観音・化大勢至等の無量無数の聖衆(しょうじゅ)、みづからつねにときをきらはず、ところをへだてず、真実信心をえたるひとにそひたまひてまもりたまふゆゑに、みづからと申すなり。

 (「自来迎というのは、「自」は「みずから」ということである。阿弥陀仏の化身である化仏や観音・勢至の化菩薩など、数限りない聖者がたが、自ら常にどのような時も嫌ったりすることなく、どのような所も避けたりせず、真実の信心を得た人に付き添われお護りになるから、「みずから」というのである。)

 前回の部分で、聖人は観音、勢至の両菩薩は、阿弥陀さまが私たちのもとにおいでいただいたお姿だとお伝えになりました。
 今回から聖人は、「自来迎」という言葉についてその意を説かれます。

 まず、「自」という言葉について二つの字訓(解釈)を示されるのですが、その一つが今回の部分で、「自」は「みずから」ということだとされます。
 真実の信心を得た者には、阿弥陀さまが種々の姿となって現れていただき、付き添い護っていただく、しかも、それは時や所を選ばずにそうしていただくのであって、それが「みずから」の意味だと聖人はそのおはたらきを讃嘆されます。

 梅原眞隆師、普賢晃壽師は、『感無量寿経』にある次の言葉を示していただきました。
 「無量寿仏の化身無数にして、観世音・大勢至とともに、つねにこの行人(ぎょうにん)の所に来至(らいし)す。」
 (無量寿仏は数限りない化身を現して、観世音・大勢至の二菩薩とともに、このような観を修めるもののもとにおいでになり、常にその身を守られるのである)
 『観無量寿経』のこの部分は、お釈迦さまが韋提希夫人(いだいけぶにん)に説かれる十三の「定善観」(心を集中して仏と浄土の姿を観想する)の内の「第十二普観」と呼ばれているものです。

 両師はさらに、善導大師が『往生礼讃』の中でこの文を次のように釈しておられることを紹介されています。
 「また『観経』にのたまふがごとし。「もし阿弥陀仏を称(しょう)・礼(らい)・念(ねん)して、かの国に往生せんと願ずれば、かの仏すなはち無数の化仏、無数の化観音・勢至菩薩を遣(つか)はして、行者を護念せしめたまふ」と。」
 (また『観経』に仰っておられるように、「阿弥陀さまの名号を称し、礼し、念じて阿弥陀さまの国に生まれたいと願えば、阿弥陀さまは数限りない化身、観音・勢至菩薩を遣わして、信心の人をお護りになる」)
 さらに続けて、善導大師は次のように記されています。
 「行住坐臥(ぎょうじゅうざが)、一切の時処(じしょ)を問はず、もしは昼、もしは夜、つねに行者を離れたまはず。」
 (昼であろうと夜であろうと、時や処をいとわずに、信心の人を離れられることはないのだ)

 親鸞聖人が「自」を「みずから」と釈されたのは、信心の人を護りたいと阿弥陀さまの方から働きかけていただいている、というみ教えの流れを踏まえられたものだということを学ぶことができました。

(写真は、1月9日の竹林です。)

 寒波による雪で、以前の写真とは様子が変わりました。いつもですと雪の重みで竹がかぶさってくるのですが、あらかじめ伐っていただいていたこともあって、通行を妨げるまでにはならずに済んでいます。

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708.『唯信鈔』、『唯信鈔文意』を読む(18):名号の讃嘆(10)

阿弥陀三尊(専修寺)s   弥陀三尊像(善光寺)s  

 しばらく離れておりましたが、『唯信鈔』『唯信鈔文意』に戻ります。今回は、親鸞聖人が記された最初の偈頌の第4句の2回目です。
 もう一度最初の偈頌と第4句を確認します。

  如来尊号甚分明 十方世界普流行
  但有称名皆得往 観音勢至自来迎

 聖人はこの第4句について、前回「阿弥陀さまの智慧のはたらきとして私たちに届いていただいている名号を疑いなく信じ、心に保つとき、観音菩薩と勢至菩薩は必ず私たちに離れずにいてくださる」と第4句全体の意味を示されました。
 ついで聖人は記されます。

 この無碍光仏は観音とあらはれ勢至としめす。ある経には、観音を宝応声(ほうおうしょう)菩薩となづけて日天子(にってんし)としめす、これは無明(むみょう)の黒闇をはらはしむ、勢至を宝吉祥(ほうきつしょう)菩薩となづけて月天子(がってんし)とあらはる、生死(しょうじ)の長夜(じょうや)を照らして智慧をひらかしめんとなり。

 (この無礙光仏は、観音菩薩としてあらわれ、勢至菩薩として姿を示してくださる。ある経典には、観音菩薩を宝応声菩薩と名づけ、日天子と示している。この菩薩は無明の闇を払ってくださるという。また、勢至菩薩を宝吉祥菩薩と名づけ、月天子とあらわしている。この菩薩は迷いの長い夜を照らして智慧をひらいてくださるというのである。)

 聖人は、ここで観音、勢至の両菩薩は、阿弥陀さまが姿を変えて現れていただいたのだと私たちに示されます。普賢晃壽師によれば、聖人が「ある経典には」とされているのは、道綽禅師が著された『安楽集』に引用して伝えられたことなどを示しているとされます。そこでは、「天地が作られた時、まだ日月星がなく人々が苦しんでいたのにたいして、阿弥陀さまが両菩薩を遣わされ日、月を作られた」と伝えられています。
 親鸞聖人はこのことを踏まえて、観音菩薩は「無明の闇を払ってくださる」と説かれていますが、普賢師は、これは世の闇だけではなく、私たちの心の無明をはらしていただいていると、また、勢至菩薩は「迷いの長い夜を照らして智慧をひらいてくださる」と説かれますが、これは世の夜を照らすだけではなく、私たちの長夜のような迷いを照らし信心の智慧をひらいてくださると、されます。

 このように、親鸞聖人は、観音勢至の両菩薩は阿弥陀さまが姿を変えて現れていただき、私たちに阿弥陀さまの慈悲と智慧とを表し伝えていただいているとお伝えいただきました。

(図右は善光寺式と呼ばれる阿弥陀三尊像です。)

 善光寺式といいますのは一光三尊とも呼ばれ、阿弥陀さまを中心に左(向かって右)に観音菩薩、右に勢至菩薩の両菩薩が一つの光背を背にして立たれている像をいいます。
 右は、善光寺の前立本尊と呼ばれているもので、ご本尊の像は絶対秘仏とされていてこの前立像が定期的に公開されるのだそうです。
 左は真宗高田派の同じく前立本尊の三尊像です。高田派ではご本尊も一定の年数をおいて公開されているということです。

 今回ご紹介した像は三尊とも立像ですが、以前ご紹介しました三尊像は違った形のものがありました。
  法隆寺の三尊像:阿弥陀さまは座像で、両菩薩は立像
  三千院の三尊像:阿弥陀さまは座像で、両菩薩は正座(「大和座り」とも呼ぶようです) 

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707.山口別院の行事計画です

IMGs.jpg 

 山口別院の年間行事計画をお伝えします。寺の年間計画については既にご連絡しておりましたが、別院の情報をお伝えするのが抜けておりました。(  )内はご講師のお名前です。

 元旦会   1月5日 10:00~
 降誕会   5月5日 13:30~(美祢東組 明嚴寺 中島昭念師)
 永代経法要 6月8~10日(10:00~、13:30~)(滋賀教区志賀組 正源寺 三宮享信師)
 帰敬式  11月25日(13:20~)
 報恩講  11月26~28日(10:00~、13:30~)(福岡教区早良組 德常寺 紫藤常昭師)
 常例法座(いずれも13:30~)
      2月5日(白滝組 念西寺 中山浩司師)
      3月5日(厚狭西組 常元寺 伯浄教師)
      4月5日(豊浦西組 西方寺 西谷慶真師)
      6月5日(美祢東組 正岸寺 桑羽隆慈師)
      7月5日(熊南組 善徳寺 石山泰人師)
      8月5日(邦西組 専福寺 福田康正師)
      9月5日(豊浦組 光善寺 二木文正師)
     10月5日(邦西組 照蓮寺 岡村謙英師)
     11月5日(豊田組 清德寺 尾寺俊水師)
     12月5日(厚狭西組 願生寺 山名真達師)

 いずれも、新型コロナウイルス感染症対策を行いながらお勤めされます。ご参拝ください。

(お詫びです)
 この記事を未完成のまま掲載してしまいました。予約掲載の日時設定を誤っていたためです、申し訳ありませんでした。

(図は、行事計画をお知らせするご案内です)

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706.宇部北組の第3回法中会を開催しました

20210104六甲山冬景色s 

  昨年末12月29日に宇部北組の第3回法中会を壽福寺で開催しました。
 12月24日に本願寺山口別院で組長会がありましたので、その情報もお伝えしようと年末も押し迫ってからの開催となりました。
 当日協議された事項について情報をお伝えします。

1.親鸞聖人御誕生八百五十年・立教開宗八百年慶讃法要
 (1)団体参拝
  本山での法要は、2023年3月29日から5月21日にかけて5期30日間(47座)でお勤めになります。山口教区に要請のあった候補日程のうち、宇部北組として希望する3つ日程を希望順位も含めて決めました。遠隔地から参拝することになりますので、午後の日程を希望することにしました。参拝予定者は48名前後を想定しています。
 (2)組としての法要
  慶讃法要は、本山、別院、組、各寺院のそれぞれでお勤めすることになります。宇部北組でお勤めする法要について、今後検討を開始することとなりました。

2.イベントブルゾンの作製
 宇部北組の行事などで役員等が着用するブルゾンについて検討を進めていましたが、今回の法中会でその内容が次のように決まりました。来春の「花フェス2021」から着用開始の予定です。
  色:蛍光グリーン
  表記:背中に「浄土真宗本願寺派/山口教区 宇部北組」と表記する
  作製数:50着

3.教化団体の活動計画
 今後の活動計画について、各担当者から説明をしていただきました。
 (1)花フェス
  既にご連絡していますように、来年4月11日に開催されます。参加を勧めていただきたいとの要請がありました。
 (2)連続研修会
  宇部北組の第7回連続研修会を来年4月から開催することで検討がされています。研修テーマについては、法中会のメンバーからも案を出していただいていており、当日出された意見も含めて検討し最終決定することとなりました。
 (3)宇部北組HP
  HPの管理は今年度から若僧会が担当しています。11月から、このHP上に組内の住職が順番に文章を載せるという企画が始まっており、引き続き協力いただきたいとの要請がありました。ぜひご覧になってください。⇒こちらです
 (4)教化団体の研修会
  従来、各教化団体では総会の開催と併せて研修会を開催してきましたが、昨年は、新型コロナウイルス感染症の拡大により研修会を開催できずにおります。今後3密を回避し、研修会の開催を検討していきたいと考えております。研修は、映画『ドキュメンタリー沖縄戦』を鑑賞することとします。
  仏教婦人会、仏教壮年会合同の研修会(2月)、推進協議会、総代会合同の研修会(3月)

4.第3ブロック人権啓発推進僧侶研修会
 山口教区の第3ブロック(宇部北組の他に山口南・山口北・華松・宇部小野田・厚狭西組のお寺が含まれます)を対象として、2月2日に山口別院を会場に開催されます。これまでは、宇部北組として研修会を開催していましたが、今年度はこのブロック研修会に参加する形とし、可能な限り住職が参加することとしました。

5.宇部北組の規約等改正
 原案に対していただいた意見を踏まえて改正案を説明しました。今後、協議会、組会で承認、決議をいただきます。
 
(写真は、寒い中の冬景色となりますが、2008年1月の六甲山です。)

 六甲山は神戸市のすぐ背後にある山ですが、冬にはこのような景色を見ることができます。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)

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705.ご門主の「年頭の辞」です

20210101ご門主一家s 

  慈光照護のもと、新年をお迎えのこととお慶び申し上げます。『本願寺新報』の1月1日号に掲載されましたご門主の「年頭の辞」をお伝えします。

 新しい年のはじめにあたり、ご挨拶申し上げます。
 昨年は新型コロナウイルス感染症(COVID-19)が世界的に大流行し、多くの方が犠牲となられましたが、いまだその収束が見通せません。ここに、新型コロナウイルス感染症によりお亡くなりになられた方々に謹んで哀悼の意を表しますとともに、罹患されている皆さまに心よりお見舞い申し上げます。また、感染リスクが高い中、懸命に治療・対策にあたられている医師、看護師をはじめとする医療従事者の方々、ライフラインの維持に努められている方々に深く敬意と感謝を表します。
 昨年7月の「令和2年7月豪雨」では、熊本県をはじめ各地において甚大な被害が出ました。自然災害によって犠牲になられました方々に謹んで哀悼の意を表しますとともに、被災された皆さまに心からお見舞い申し上げます。被災者の方々が一日も早く、日常の生活を取り戻されることができますことを願っております。
 仏教を説かれたお釈迦さまは、「物事は必ず何らかの原因があり条件があって生じ、存在している」という存在に関する普遍的な原理を「縁起」として示されました。私たちは、自分一人で生きているのではありません。周りのすべての方々とのつながりの中、お互いに支え合って生活しています。日本では、自分や周りの方、そして地域を感染拡大から守るために「新しい生活様式」の実践が呼びかけられています。新型コロナウイルス感染症が終息しない現状にあって、この世界のありのままの姿である「縁起」の道理を深く心に留めたいと思います。
 本年も阿弥陀さまのおはたらきを聞き、「新たな日常」を過ごしてまいりましょう。


(写真は、ご門主ご一家です。『本願寺新報』の1月1日号からお借りしました。)

 向かって左から、前裏方さま、前門さま、ご門主、ご長男敬(たかし)様、ご長女顕子(あきこ)様、お裏方です。

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