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670.草刈りをお願いしました

 
20200831草刈りs 

 8月29日に、総代さんに境内周辺の草刈りをお願いしました。
 当初は、9月5日に予定していました秋の法座に向けてその準備としてお願いしていたものですが、その法座は休座することとなりました。しかし、今後寺を会場とした会合も予定されていることから、草刈りについてはお願いをして実施していただいたものです。

 朝9時に14名の総代さんにお集りいただき、井上代表総代さんにご挨拶いただいた後に、駐車場、石段の周辺、石段から下の参道の草刈りと刈り取った草の整理を行いました。蒸し暑い中、約1時間の作業をお願いしました。

 作業が終わった後に一服したのですが、その場の話題の中心はやはり新型コロナウイルスに関するものになりました。総代さんには、担当いただいている地区のご門徒さんに法座の休座のご連絡をお願いしたのですが、この状況ではやむを得ない、という反応が多かったようにお聞きしました。
 また、感染者が宇部市、山陽小野田市に広がっていることで、身近なものになっているという実感を感じることができました。

 一服の後、次回の報恩講およびその準備には皆で元気に集まりましょう、ということで解散となりました。
 ご都合をつけて参加いただいたみなさんにお礼申し上げます。
 
(当日の集合写真ですが、今回は作業前に撮るのを忘れてしまい、作業終了後の一服の様子です)

 当日おいでいただいたのは、前列左から岩﨑明さん、吉屋博志さん、志賀進さん、中列左から稲田英明さん、岩﨑昌彦さん、井上啓志さん、埴生和彦さん、金子富士夫さん、山根惣一さん、杉山博子さん、益富美津恵さん、田中光明さん、埴生充さんの皆さんです。お名前を記してお礼申し上げます。
 (なお、志賀慎次さんは作業後すぐに帰宅されましたので、写真には入っておられません。)

 こちらは石段周辺の草刈りの様子です。(クリックすると画像を見ることができます

  20200931草刈り2

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669.秋の法座を休座いたします

20200828クチナシ    20200828キバナクチナシs  

 9月5日にお勤めする予定にしておりました秋の法座を休座(中止)することにしました。

 ここ数日、宇部市や山陽小野田市で新型コロナウイルスへの感染が拡大しており、両市では公共施設の利用中止が行われるようになっております。このような状況を考慮し、総代さんともご相談の上、9月5日の秋の法座を中止することを決定しました。

 ご門徒さんとお会いできることを楽しみにしていたのですが、残念に思っております。
 また、地区をご担当いただいています総代さんには中止のご連絡をお願いするなど、お手数をおかけしますが、よろしくお願いいたします。

 その結果、今年はこれまで予定しておりました4回の法座の内、夏法座をお勤めした以外は休座ということになりました。誠に残念なことです。

 なお、11月7日に予定しております報恩講については、それまでの状況を注視しながら次のステップで判断したいと考えております。
 10月初めに新聞『壽福寺だより』を発行しますが、その段階で第1回目の判断を行います。
 ついで、法座の2~1週間前に最終判断を行います。

 総代さん始めご門徒の皆様にはご心配をおかけしますが、ご理解いただきますようお願い申し上げます。
 
(写真はクチナシの花です)

 花期は少し過ぎましたが、良い香りをした花です。右のような黄色い花をつける種(キバナクチナシ)もあります。
 クチナシの花を見ますと、先日亡くなられた渡哲也さんの歌「くちなしの花」が浮かんできます。調べてみますと、この歌は1973年に発売されたのだそうですから、今から50年近くも前のことだったのですね。

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668.『唯信鈔』、『唯信鈔文意』を読む(7):題号釈

ゴボウ1     ドリーネ耕地 

  今回から、『唯信鈔文意』に入り、親鸞聖人のみ教えを学びたいと思います。
 今日は、最初の「題号釈」と呼ばれている部分です。御文は次の通りです。

 「「唯信抄」といふは、「唯」はただこのことひとつといふ、ふたつならぶことをきらふことばなり。また「唯」はひとりといふこころなり。「信」はうたがひなきこころなり、すなはちこれ真実の信心なり、虚仮(こけ)はなれたるこころなり。虚はむなしといふ、仮はかりなるといふことなり、虚は実ならぬをいふ、仮は真ならぬをいふなり。本願他力をたのみて自力をはなれたる、これを「唯信」といふ。「鈔」はすぐれたることをぬきいだしあつむることばなり。このゆゑに「唯信鈔」といふなり。」

 現代語訳です。
 「「唯信鈔」というのは、「唯」はただこのこと一つということであり、二つが並ぶことを嫌う言葉である。また、「唯」はひとりという意味である。「信」は疑いのない心である。すなわちこれは真実の信心であり、虚仮を離れている心である。「虚」は「むなしい」ということであり、「仮」は「かりの」ということである。「虚」は実でないことをいい、「仮」は真でないことをいうのである。本願他力におまかせして自力を離れていること、これを「唯信」という。「鈔」はすぐれていることを抜き出して集めるという言葉である。このようなわけで、「唯信鈔」というのである。」

 親鸞聖人は、本日の部分で、『唯信鈔』という聖覚法印の著された書の題号の「唯」「信」「鈔」のそれぞれについてその意味を説いておられます。

 聖人は「唯」という字に、二つの意味をみておられます。
 その一つは、「唯」は「このこと一つ」、「二つが並ぶことを嫌う」意味だとされます。あれもこれもと他の修行や善行、他の仏や菩薩に心をかけるのではなく、二心なく阿弥陀さまのお救いだけを信じることだとされます。
 また二つには、「唯」は「ひとり」という意味だと示され、他に伴うもののないこと、阿弥陀さまのお救いにはなんら他の助けも必要がないことが示されます。

 ついで、聖人は「信」とは、「疑いのない心」であると示されます。疑わずに信じ、疑いの自力心は全く混じっていない信だとされます。
 それは、「真実の信心」であり、「虚仮を離れている心である」とされます。「真実信心」は、阿弥陀さまから私たちにいただいた信心のことで、それは「虚」でなく「仮」でない真実の信心です。
 そして、聖人はこのように「本願力におまかせして自力を離れていることを」「唯信」とされました。

 さらに、「鈔」は「すぐれていることを抜き出して集める」という意味だとされ、『唯信鈔』の題号の意味について私たちにお示しいただきました。

 しかし、梅原眞隆師は『唯信鈔文意講義』の中で、聖人が著された『一念多念文意』では、その題号についてこのような解釈をされていないことに注目されています。師は、親鸞聖人のこの「唯信鈔」に対する題号釈は、単なる書名の解釈ではなく「この題号に標示された唯信の旨趣を開顕せられたもので、実は一巻の根本要義を提示されたものである。」とされ、今回私たちが学んでいる部分には、本書の要諦が述べられているとされています。

(写真は、ゴボウの花です。なかなか魅力的な花を咲かせます。)

 右のような秋吉台のドリーネ耕作地で、7月にこのゴボウの花に出遭いました。通常はここまで大きくなる前に取り入れるのだそうですが、この1本だけ、多分年を超えて、木のように私の身長に近い高さまで育っていました。

 今後、記事に関連のある写真や図を載せたいのですが、うまく行かないことが多いことと思います。気に入った写真や季節にあった写真も載せることにしましょう。

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667.『唯信鈔』、『唯信鈔文意』を読む(6):構成

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  今回から、『唯信鈔』と『唯信鈔文意』の内容について学びたいと思います。
 最初に、それぞれの構成と、両書の関わりについて見てみます。

 聖覚法印が著された『唯信鈔』の内容は、大きく分けると2つの部分に分けられるとされています。
 その前半の部分では、聖覚法印は専修念仏の教えの内容を、法然聖人のみ教えに沿って示されます。次いで、後半の部分で、専修念仏に対する世の誤解を正されるという構成になっています。

 聖覚法印の『唯信鈔』を受けて親鸞聖人が著された『唯信鈔文意』は、大きく次の三つの段に分けられるとされています。その第二段の「要文釈」の部分が、『唯信鈔』の中のご文について私たちに分かりやすく説かれた部分となっています。

 第一段 題号釈
  最初に親鸞聖人は、『唯信鈔』という書の題号について説かれています。
 第二段 要文釈
  聖人は『唯信鈔』に記された11の文について、その内容を説かれます。
 第三段 総結

 この「総結」に、聖人は次のように記されています。これを読みますと、親鸞聖人が『唯信鈔文意』をお書きになった理由というのがよく分かります。

 「ゐなかのひとびとの、文字のこころもしらず、あさましき愚痴きはまりなきゆゑに、やすくこころえさせんとて、おなじことをたびたびとりかへしとりかへし書きつけたり。こころあらんひとは、をかしくおもふべし、あざけりをなすべし。しかれども、おほかたのそしりをかへりみず、ひとすぢに愚かなるものを、こころえやすからんとてしるせるなり。」

 (都から遠く離れたところに住む人々は、仏教の言葉の意味もわからず、教えについてもまったく無知なのである。だから、そのような人々にもやさしく理解してもらおうと思い、同じことを何度も繰り返し繰り返し書き付けたのである。ものの道理をわきまえている人は、おかしく思うだろうし、あざけり笑うこともあるだろう。しかし、そのように世間の人からそしられることも気にかけず、ただひたすらに教えについて無知な人々に理解しやすいようにと思って、書き記したのである。)

 このご文を読んでおりますと、聖人が「文字のこころもしらず、あさましき愚痴きはまりなき」とみておられるのは、当時の遠隔の地の門弟方だけではなく、現在の私たち自身のことだと思わざるを得ません。
 これから私たちは、聖覚法印が記され、親鸞聖人が私たちにも理解できるようにと説かれたみ教えを素直な気持ちでいただきたいと思います。

(図は、これからお世話になります書です。)

 左は、『聖典セミナー 唯信鈔文意』(普賢晃壽氏著 本願寺出版社)
 右は、『親鸞に学ぶ仏教の極意 唯信鈔文意』(加藤辨三郎氏著 昭和58年 PHP研究所)です。
 今回初めて知ったのですが、加藤辨三郎氏は、経営者として活躍される一方で仏教を深く学ばれた方です。この書は父の蔵書の中にあったもので、両書の原文とともに現代語訳も併載されており、用語についても詳細な註が付されています。『唯信鈔』の現代語訳は他に見つけることができず、頼りにさせていただきます。

 両書の原文は『註釈版 聖典』からいただきます。
 その他に、次の書も参考にさせていただきます。
 『現代語版 唯信鈔文意』(本願寺出版社)
 『唯信鈔文意講義』(梅原眞隆氏著 昭和12年刊)
 この本は、美祢市立図書館にありましたので、借りたり返したりしながら、参考にさせていただく予定です。

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666.『唯信鈔』、『唯信鈔文意』を読む(5):書誌

20200817唯信鈔s   20200817唯信鈔文意s 

 『唯信鈔』、『唯信鈔文意』について、今回はその原典について学びます。

 『唯信鈔』は、聖覚法印が承久3年(1221年)に著された書ですが、その自筆原本は伝わっていないのだそうです。しかし、親鸞聖人が書写された写本が残されていて、私たちはその内容を知ることができます。

 親鸞聖人が書写された『唯信鈔』の真跡本としては、梅原眞隆師(本派の勧学寮頭を勤められた方です)が著された『唯信鈔文意講義』という書に、次の4本が紹介されています。
 〇高田派専修寺所蔵本:寛喜2年(1230年)、聖人が関東におられる時代に書写されたとされるものです。聖覚法印の自筆書から書写されたと記されているところから、この書の法印自筆本が関東におられる聖人のお手元にあったことが分かります。
 〇高田派専修寺所蔵平仮名本:文暦2年(1235年)、京都に戻られた聖人が書写されたものです。奥書に「文暦二年乙未三月五日御入滅也」と聖覚法印がこの年に示寂されたことが記されています。聖人は亡くなられた聖覚法印を偲んでこの写本を作られたとされています。
 〇本願寺所蔵本
 〇大谷派本願寺所蔵本

 これらの写本のほかに、聖人ご真筆とされる書写本が複数伝えられていて、このことからも聖人が門弟の方々に『唯信鈔』の写本を送られて熟読するようにとお勧めになったことが分かります。

 一方、聖人ご自身が著された『唯信鈔文意』は御真跡本が残されていて、次の2本が真宗高田派の専修寺に伝えられています。
 〇康元2年(1257年)正月11日付け本
 〇康元2年正月27日付け本

 この『唯信鈔文意』は、建長2年(1250年)に聖人が著されたとされています。それは、盛岡市の本誓寺というお寺に伝えられる古い写本に、建長2年に親鸞聖人が78歳でこれを書かれた、とする奥書を持ったものがあることから来ています。

 ちょっと横道に逸れる感じですが、真宗高田派のホームページに「宝物ご紹介」というページがあります。その中で、専修寺蔵の『唯信鈔』と『唯信鈔文意』(正月27日本)を比較した説明があって、双方の筆跡や紙質が全く一致しているのだということが記されています。寛喜2年(1230年)と康元2年(1257年)に記されたとされる2つの書が同じ時に記されたとされる共通点を有しているということになります。
 これについて、そのホームページでは、専修寺本の写本『唯信鈔』は寛喜2年の日付がありますが、実際は康元2年に書写されたものだろうとされ、寛喜2年と記されたのは、聖覚法印のこの書に出会われた「そのときの感激が思い起されたからではあるまいか。」とされています。
 同じページで、『唯信鈔文意』の著述時期についても、本誓寺本に建長2年という奥書がありますので、「少なくともそこまで遡らせることはできる。(中略)聖人と『唯信鈔』との出会いなどから考えて、さらに遡らせるべきではないか、とするのが大方の意見のようである。」とその著述時期はさらに遡る可能性について触れられています。

 このように、その書そのものについても興味をひくことが多くありますが、次回以降は御本の内容に入っていきたいと思います。

(図の右は『唯信鈔』(本願寺所蔵の親鸞聖人御真跡写本)、左は『唯信鈔文意』(専修寺蔵の康元2年正月27日本)です)

 いずれも、本願寺出版社刊『聖典セミナー 唯信鈔文意』よりお借りしています。
 
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665.映画「ドキュメンタリー沖縄戦」

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  先にご紹介しましたように、7月30日に開催されました組長会に先立って、映画「ドキュメンタリー沖縄戦 知られざる悲しみの記憶」の試写会があり、観ることができました。

 この映画は、戦後75年に当たり浄土真宗本願寺派の総合研究所が中心となって制作されたもので、「証言」と実写映像を中心にして構成されています。淡々と(と感じられました)語られる壮烈な事実と米軍から提供されたものも含めた映像が、沖縄戦の姿を描いていました。また、その3日後の8月2日に、NHKのテレビ番組「NHKスペシャル」で「沖縄戦・最後の1カ月集中した住民被害」という番組が放送され、沖縄戦での住民被害を取り上げていました。

 その両方で報じられていたことも含めて、沖縄戦の姿を振り返ってみます。

 いわゆる沖縄戦は、1945年3月26日に始まり6月23日に組織的な戦いが終わった、日本軍と米軍を主力とする連合国軍の間の戦いでした。
 いわゆる太平洋戦争は1941年12月に開戦されましたが、日本軍は開戦当初の勢いを失い設定した国防圏も破られて、「本土決戦」を覚悟するという事態に至っていました。その中で、沖縄は、連合国軍を迎えて戦うことによって、連合国軍による本土攻撃を遅らせる(時間稼ぎ)という役割を担うことになります。実際に「捨石作戦」という名前でも呼ばれていたということです。
 一方、連合国軍にとっては、沖縄は日本本土を爆撃するための航空基地と本土へ進攻するための補給基地として重要な位置づけがなされていました。

 日本軍は、首里城の地下に陣地を築いて連合国軍と戦いました。その戦闘に先立って、最初は住民を沖縄本島の北部に避難させます。しかし連合国軍の上陸に伴い、南北部間の連絡が絶たれることになり、その事態を受けて住民に島の南部に避難するよう指示し、住民は島の南部に移動しました。
 その後、日本軍は、連合国軍の攻撃により首里に拠って防衛を行うことを断念し、洞窟などが多数存在し防衛に有利な本島南部喜屋武地域に拠点を設けて、持久戦に持ち込む方針を設定します。その結果、沖縄本島の南部地域に、日本軍と沖縄の住民が混在するという形になりました。

 日本軍の兵力は約116千人とされていますが、その中には防衛召集(17歳以上45歳未満の男子が対象とされました)された沖縄県民が約35千人に登っていたということです。その他に、旧制中学校の生徒を編成した隊や女子生徒を組織したひめゆり学徒隊など、約2千人がありました。
 このように、軍隊と避難してきた沖縄県民が混在した形で、連合国軍の攻撃を受けることになりました。その中では、洞窟の利用や、食料に関わって軍と住民の間に諍いが生じます。また、住民が連れていた赤ん坊の泣き声が敵に察知されるからということで、避難している洞窟から追われたり、といった事例が証言の中で語られていました。
 連合国軍の攻撃とこのような内部での軋轢などを背景にして、軍人と住民の間、あるいは住民の間や家族の間で命を奪う行為が行われ、さらには、追い詰められた壕では集団的な自決、強制された自決があったとも語られていました。
 
 その結果、沖縄戦全体で死亡した沖縄県民は122千人、そのうち民間人は94千人の多数に上っています。しかも、民間人の死亡者のうち46千人強の人が6月に死亡したという資料がありました。この6月というのは、軍が首里を撤退して南部に移動し、軍と住民が洞窟に拠って持久戦を行った時期に当たります。
 
 これまで、私は沖縄戦という言葉に、沖縄を戦場にして多くの民間人を含めた人々が亡くなった戦いだった、という漠然とした理解しかしていなかったように思います。しかし、今回この映画を観てこれまで理解していなかったことがあることに気づきました。

 まず第一に、この戦争で沖縄が担わされた役割についてです。住民が戦争に巻き込まれて命を落とす、という言葉でひとくくりに見ていましたが、沖縄には別の意味があったように思います。
 それは、沖縄戦が本土決戦に備える時間稼ぎを行うために計画されたということです。本土でも空襲で多くの住民の命が失われましたが、沖縄ではその本土を守るために戦闘が行われ、多くの住民の命が失われたという二重の重い構造を持っていることに気づきました。そこには、沖縄に対してそのような役割を押し付けるような歴史的な意識が反映されているのではないかとも思います。

 ちょっと飛躍し過ぎかもしれませんが、私たちは、現在でも沖縄のことを、私たちのレジャーや観光の場所と考えているのではないかと、思い至りました。多くの県民が私たちと同じく生活をしている場所なのですが、そちらの視点が欠落しているのではないか、ということです。
 新型コロナウイルス感染が広がっていますが、人口に対する新規の感染者の比率では、沖縄が圧倒的に多くなっています。移動の自粛が緩和されたとたんに、沖縄の感染者数が増加しました。ひょっとすると、これまで我慢してきたのでレジャーで出かけるのは良いのでは、さらには、年老いた親がいるので帰省はしないかわりに、といった行動があるのではないか、などと感じています。

 もう一つ思ったことは、軍隊というものの役割についてです。そもそも軍隊は何を守るために存在しているのか、ということです。
 沖縄戦では軍は住民を巻き込んで戦い、その結果多数の住民が命を落としました。少なくとも軍は沖縄の住民を守るという機能は果たすことができませんでした。そもそも、太平洋戦争は我が国(国体)を守るために、と開戦されたものですが、原爆や空襲、この沖縄戦などで多数の住民(民間人)の命を奪う結果になりました。このような形になるまで戦争を継続した軍が守ろうとしたものは、国民(民間人)ではなく国(あるいは国体)だったと言わざるを得ない結果になっています。

 我が国には「自衛隊法」という法律があって、その第三条には自衛隊の任務について次のように定められています。
 (任務)
 第三条 自衛隊は、我が国の平和と独立を守り、国の安全を保つため、我が国を防衛することを主たる任務とし、必要に応じ、公共の秩序の維持に当たるものとする。
 自衛隊の主たる任務の対象は、国の平和と独立、安全だとされ、そのために我が国を防衛することが任務だとされています。

 一般に、国(国家)の三大要素として「領域」「国民」「主権」が挙げられます。沖縄戦は、国の主権と本土の領域、本土の国民を守るために、軍人以外に沖縄の国民までが犠牲になった戦いだったということになります。
 あと知恵のようになりますが、このような結果に至る以前に、どこかで立ち止まって、領域と国民と主権を守る道を冷静に合理的に考えることが必要だったのだと思います。

 以前山口別院で催された「終戦70年『平和のつどい』」でお聞きした、「point of no return(ここを超えたら引きかえすことができなくなるポイント)」という言葉をもう一度思い出していました。内外の緊迫した情勢の中で、希望的観測ではなく合理的に見通しを立てて、冷静に判断することが必要だと思います。それはリーダーだけの仕事ではなく、私たち自身の役割でもあると思います。

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664.新聞版「壽福寺だより」を発行しました

       20200810紙面1s      20200810紙面2s
   
 新聞版「壽福寺だより」の8月号を発行し、ご家庭にお届けしています。
 今月号の内容は次の通りです。

〇1面
 「夏法座をおつとめしました」

 「秋法座のご案内です」

 「秋法座にお参りを」

 「『本願寺新報』をお届けします」
  今回、『本願寺新報』のお盆特集号を一緒にお配りしています。

〇2面
 「組長日誌(2)」
  法中会と組長会についてご紹介しています。

 「ブログ『壽福寺だより』の新シリーズです」
  ブログで新しく始めましたシリーズ「『唯信鈔』、『唯信鈔文意』を読む」についてご紹介しました。

 「帰敬式を受式されませんか」

 「映画をご紹介します」
  7月30日の組長会に先立って試写されました「ドキュメンタリー沖縄戦」についてご紹介しました。

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663.『唯信鈔』、『唯信鈔文意』を読む(4)

20200807隆覚律師 

 これまで、聖覚法印が著された『唯信鈔』学ぶにあたって、この書を著された聖覚法印について、次いで親鸞聖人が法兄である聖覚法印を深く敬慕しておられたこと、そして『唯信鈔』が書かれた時代について学んできました。

 すでに見てきましたように、聖人は関東から京都に戻られてから後、関東のお弟子さんにこの『唯信鈔』を書写して送られ、これを読むようにと何度もお勧めになっています。今回は、親鸞聖人が関東のお弟子さんに送られたお手紙(「御消息」とお呼びしています)の中でどのような思いでもってこの書について記しておられたのかということについて学びたいと思います。

 親鸞聖人が「御消息」の中で『唯信鈔』の名前をあげておられるものについて調べてみました。その結果、43通の御消息のうちの6通でこの書の名前をあげておられることが分かりました。

 日付が記されていない御消息で『註釈版聖典』では第4通とされているものがあります。建長4年(1252年)に書かれたと推定されているものです。その中で聖人は、「往生は凡夫があれこれと思いはからってできることではありません」とされ、次のように記されています。
 「以前にお送りしました『唯信鈔』や『自力他力事』などの書物をご覧になってください。これらをお書きになった聖覚法印や隆寛律師こそ、今の世の私たちにとって善知識なのです。すでに往生を遂げておられる方々ですので、どのようなことがあってもこれらの書物に書かれていることにまさるものは何一つあるはずがありません。法然聖人の教えを深く心得ておられる方々でした。」(現代語訳は『親鸞聖人御消息(現代語版)』によります。以下も同じです。)
 この御消息で、聖人は、聖覚法印が法然聖人のみ教えを正しく受け継いでおられる方だとそのお言葉を学ぶようにお弟子さんに強く勧めておられます。

 ついで、年号は記されず12月26日付けとされている御消息第41通です。
 「まず、一回の念仏に浄土往生の因がすべてそなわっているということは、実にもっともなことです。けれども、一回の念仏を称えた後に、それ以上称えてはならないということではありません。そのことについては、『唯信鈔』に詳しく示されています。よくご覧になってください。」
 「一回の念仏だけで必ず往生できるからといって、数多く念仏するものは往生できないなどということは、決してあってはなりません。『唯信鈔』をご覧になってください。」

 次は、年号は記されていませんが2月3日付の第18通とされている御消息です。
 「あちこちで勝手に、自分の意見こそが正しいと思っていい争うのは、決してあってはならないことです。京都でも、一念で往生が定まるとか多念で往生が定まるとかいう争いが多くあるようですが、そのようなことは決してあってはなりません。結局のところ、『唯信鈔』や『後世物語聞書』や『自力他力事』などの書物を十分ご覧になって、その内容と異なることがあってはならないということです。」
 この2通の御消息では、聖人は、いわゆる「一念多念論争」について『唯信鈔』を引いて、このような論争に引き込まれないようにと注意を促しておられます。

 次も、年号がなく正月9日付けと記されていて、第17通とされているもので、真浄というお弟子さんに宛てて書かれています。聖人は関東のお弟子さんの間で生じた動揺、混乱に対処するために派遣されたご子息の慈信房善鸞が、自身の正当性を主張するために自分は聖人から特別の教えを受けたとして、誤った考えを唱えついには念仏の教えも否定しているという状況を嘆き、次のように記されています。
 「みな慈信房のいうことにしたがって、尊い書物などをお捨てになってしまったとお聞きしますのは、どうしようもなく悲しいことです。十分に『唯信鈔』や『後世物語聞書』などをご覧になってください。」

 ついで、11月9日の日付がされている御消息で、関東にいる子息の慈信房善鸞に宛てられたものです。第33通とされるもので、善鸞からの報告を読んで書かれた御消息です。この頃には、関東のお弟子さんから聖人の元に善鸞の動向に関する情報が伝えられていたようですが、まだ非が善鸞の方にあるということに確信を得ておられない状況で、善鸞に状況を問い合わせておられます。
 「力を尽くして『唯信鈔』や『後世物語聞書』や『自力他力事』の内容や、二河の譬えなどを書いて、各地の人々にお送りしましたが、すべてみな無意味なものになってしまったと聞いています。どのように教えを説いているのですか。」

 親鸞聖人は、関東でお弟子さんの間に混乱が生じ、阿弥陀さまのご本願を疑い、み教えを捨てるものが出ているその原因は善鸞にあると確信されるにいたります。聖人は御消息第9通を善鸞本人に書かれ、親子の縁を絶つことを伝えられました。5月29日の日付だけが記されていますが、建長8年(1256年)のことです。
 そして同じ日付で性信房というお弟子さんに宛てて御消息を書かれました。第8通とされるものです。この御消息の中で、聖人は善鸞の行動によって関東のお弟子さんが動揺し、教えを棄てる状況になったことを述べて、善鸞と親子の縁を絶つと記されます。そして、次のように述べられます
 「恐らく、『唯信鈔』・『自力他力事』・『後世物語聞書』・『一念多念分別事』・『唯信鈔文意』・『一念多念文意』などの書物をご覧になりながら、慈信(善鸞)の教えによって、多くの念仏者は阿弥陀仏の本願を捨てているようですが、何ともいいようがないので、これらの書物について、今後お話しになってはいけません。」
 この「これらの書物について」と訳されている部分以下は、原文は「かやうの御ふみども、これよりのちには仰せらるべからず候ふ。」となっています。この部分「善鸞の策動によってみ教えを捨てた者には、これらの書物に説かれている内容について話す必要はない」という解釈をしていますが、親子の縁を切ったことで「今後、善鸞の行動についてこちらに伝える必要がない」とされたものだという解釈もあるようです。

 このように、親鸞聖人は、聖覚法印が法然聖人のみ教えを正しく継承しておられる方だとされ、お弟子さんの間に論争や混乱、動揺が生じた際は、法印の『唯信鈔』を読んで法然聖人の念仏の正しいみ教えに戻るようにと、お勧めになりました。しかし、ご子息の慈信房善鸞が聖人のご意思に反した策動を行い、関東のお弟子さんの間に混乱と離反が生じ、聖人は善鸞を義絶されました。後の3通の御消息は、この事態を前に、聖人が苦しみ、悲しんでおられることが感じられる御消息です。

(図は、隆寛律師が法然聖人の五七日の導師を勤めておられる様子です。「法然上人行状絵図」よりお借りしています)

 隆寛律師(りゅうかんりっし)は、比叡山で学ばれた僧侶ですが、後に法然聖人に帰依され、今回の最初の御消息で親鸞聖人が、聖覚法印とともに隆寛律師を法然聖人のみ教えを伝えられているとされたように、法然聖人からも厚い信頼を寄せられ、また親鸞聖人も崇敬の念を持たれた方です。
 親鸞聖人の御消息にも書名がでてきます『自力他力事(じりきたりきのこと)』や『一念多念分別事(いちねんたねんぶんべつのこと)』はこの隆寛律師の著書で、『後世物語聞書(ごせものがたりのききがき)』も同律師の著だろうとされています。

 なお、「律師」は、もとは僧侶を取り締まる官職(「僧綱」)の名前でしたが、後には僧侶の身分を示す称号となったようです。「法印」ももとは朝廷が僧侶に与えた位階(「層位」)でしたが、その層位もその後多くの者に与えられるようになったということです。

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662.『唯信鈔』、『唯信鈔文意』を読む(3)

 
20200803法印示寂s  

 前回は、『唯信鈔』の撰述者である聖覚法印について学びました。今回は、この『唯信鈔』が著された時代について調べてみました。

 聖覚法印が『唯信鈔』を著されたのは、承久3年(1221年)、55歳の時です。

 承久3年という年は、いわゆる承久の変が起こった年に当たります。この承久の変は、後鳥羽上皇が鎌倉幕府の執権北条義時に対して兵をあげた事件をいいます。事件は、幕府方と朝廷方の大規模な戦いとなりましたが、朝廷側が敗れ、後鳥羽上皇は隠岐に配流となりました。その後、朝廷に対する幕府の圧倒的な優位が確立され、承久の変は時代を画する事件となりました。

 すでに「御絵伝」の中で学びましたように、後鳥羽上皇は承元元年(1207年)念仏を禁止し、法然聖人を中心とした吉水の念仏集団を弾圧し、僧侶を処罰し、法然聖人や親鸞聖人を流刑としました。
 それから14年後に、今度は上皇が配流の身となったことになります。『唯信鈔』はこの承久3年の8月に完成されたとされていますので、この承久の変の事後処理が行われているときに当たります。

 聖覚法印はこの歴史の流れをどのように受け止めておられたのでしょうか?
 法印は『唯信鈔』を著して、他力の信心によるお念仏こそ往生浄土の因であることを示し、専修念仏に対する誤解を解こうとされました。しかし、在来の仏教界からの反発、攻撃はあい変わらず厳しいものがありました。『唯信鈔』が記されてから6年後になりますが、比叡山の僧兵が法然聖人の廟所を破壊するという事件、「嘉禄の法難」が起きます。
 このような厳しい時代背景の中で、この『唯信鈔』が著されたのですが、聖覚法印は『唯信鈔』の末尾に次の言葉を記しておられます。

 「信謗(しんぼう)ともに因として、みなまさに浄土に生まるべし。」
 (他力念仏の教えを信ずるものも、非難するものも、これを因縁として、みな人はすべて浄土に救われていくでしょう)
 「信じるものもそしるものも、共に如来大悲の掌の中にあるというのが、法然聖人・聖覚法印・親鸞聖人の御領解であったといえよう。」

 (以上は、普賢晃壽師の『聖典セミナー 唯信鈔文意』から引用させてただきました)

 かつて念仏集団を弾圧した後鳥羽上皇が、いまは隠岐に流されるという姿を前にして、信じる者も謗るものもみな阿弥陀さまの救いの光の中にある、という聖覚法印の思いを感じることができます。

 親鸞聖人は、上記の承久の法難により越後に流されました。その後1211年に流罪は赦免されたのですが、1212年の法然聖人のご示寂もあって京都に戻られずに関東に向かわれましたので、1221年に『唯信鈔』が著された時には、関東におられたことになります。

 真宗高田派の本山専修寺には、親鸞聖人ご自身が書写された『唯信鈔』が伝えられています。その奥書によりますと、聖人はこの書の草本真筆を書写されたと記されているということですので、関東におられた親鸞聖人のお手元には聖覚法印ご自身が記された『唯信鈔』があったということが分かります。このことは、関東におられた親鸞聖人は都におられる聖覚法印と強いつながりを持っておられたということを示すものだと言えます。

 その後、親鸞聖人は1224年に『教行信証』の草稿を完成し、1232年頃には京都に戻られました。
 聖覚法印は、1235年に69歳で亡くなりましたが、その年に親鸞聖人が書写された『唯信鈔』(専修寺平仮名本と呼ばれています)が伝えられています。その写本の奥書には、「文暦二年乙未三月五日御入滅也」とその年の3月5日に聖覚法印が亡くなられたことが記してあり、前回学びました「聖覚法印表白文」もこの写本に付されています。この写本は、親鸞聖人が聖覚法印をしのんで書写され、法印に関わる文章も付されたもので、聖人の法印に対する強い崇敬の念を感じることができます。

(図は、「法然聖人行状絵図」の中の聖覚法印のご示寂を描いたものです)

 詞書には「遂に文暦二年三月五日、生年六十九にて、端座合掌し念仏数百篇を唱へ往生の素懐を遂げられける、」とあります。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)

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