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661.第2回組長会が開かれました

  20200730組長会  

  昨日、7月30日、山口別院で第2回になります山口教区組長会が開催されました。
 当日も、新型コロナウイルス感染防止として、本堂を会場に間隔を空けた座席の配置とされていました。

 主な議題についてご紹介します。やはり新型コロナウイルス感染に直接、間接に関わる情報が多かったという印象です。

1.宗派、本山関係
 (1)全戦没者追悼法要(9月18日)
  ・例年千鳥ヶ淵で勤められているものですが、今年は新型コロナウイルス対策として東京での一般参拝を中止とすることとなり、別院の本堂で参拝者数を絞って行われます。WEBでの中継も検討されるようです。
  ・例年、法要勤修時に合わせて行われている平和の鐘打鐘は例年通り行ってもらいたいという要請がありました。
 (2)法事・法要 勤修のための留意点
  ・新型コロナウイルス感染防止のため、宗派よりご門徒さん向けと僧侶向けのガイドラインが示され、紹介がありました。

2.教区関係
 (1)2020年度第2回山口教区臨時教区会の報告
  ・7月27日に開催された教区会(教区の議決機関です)の報告がありました。2019年度決算と2020年度予算補正案が議決されました。
 (2)組教化助成金
  ・新型コロナウイルスに伴う組の収支に対する助成措置について説明がありました。

3.別院関係
 (1)帰敬式(11月25日)
  ・今年度は新型コロナウイルス感染防止のために、人員を120名として先着順に受け付けられることになりました。
 (2)報恩講(11月26~28日)
  ・報恩講も定員120名程度として、運用も従来とは大きく変更したいということで、組長の意見を求められました。(例年は満堂で約500名の参拝が可能だったそうです)
  ・法要は午後の逮夜法要のみとし、おとき(昼食)は供しない、当番の組を決めて行う「奉仕」も中止し職員で対応する、などの新しい運用を行うこととなりました。
  
4.映画試写会
 ・組長会に先立って、13時より希望者を対象に映画「ドキュメンタリー沖縄戦 知られざる悲しみの記憶」の試写会があり、鑑賞することができました。
 ・この映画は、戦後75年に当たり浄土真宗本願寺派の総合研究所が中心となって制作されたもので、インタビュー(証言)と実写映像を中心にして構成されています。淡々と(と感じられました)語られる壮烈な事実、と米軍から提供されたものも含めた影像で、なぜあのような戦争に進んでしまったのか、と改めて考えさせられました。この映画については、もう一度考えてみたいと思っています。
 ・今後、上記の山口別院で勤修される全戦没者追悼法要などでも上映されるほか、7月25日から全国の映画館で一般公開されています。

(写真は、当日の組長会の様子です)

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください) 
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660.『唯信鈔』、『唯信鈔文意』を読む (2)

 
20200727法然上人6七日s 

 前回は、聖覚法印について学びましたが、もう一度、聖覚法印が師である法然聖人をどのように見ておられたのか、親鸞聖人がそのお二人をいかに崇敬されたのかということを学びたいと思われます。

 親鸞聖人は聖覚法印が記された『唯信鈔』を何度も書写されて、お弟子さんにこれを読むようにと与えられました。聖人ご自身が書写された本で、真宗高田派の専修寺に伝えられている本があり、その本の最後に「聖覚法印表白文」という文章が付されています。
 この表白文は、法然聖人の生前、師への報恩を目的として営まれた法要で聖覚法印が導師をつとめられたのですが、その際、法印が拝読されたもので、親鸞聖人はその表白文を法印の書の最後に書写されたことになります。

 その表白文の中で、聖覚法印は次のように述べられます。
 「我が大師聖人、釈尊の使者として念仏の一門を弘め、善導の再誕として称名の一行を勧めたまへり。」
 「誠に知んぬ、無明長夜(じょうや)の大いなる灯炬(とうこ)なり、何ぞ智眼の闇(くら)きことを悲しまむ。生死大海の大いなる船筏(せんばつ)なり、豈(あに)業障の重きことを煩(わずら)はむや。」
 「つらつら教授の恩徳を思へば、実に弥陀の悲願に等しきものか、骨を粉にしてこれを報ずべし、身を摧(くだ)きてこれを謝すべし。」

 (私の師、法然聖人はお釈迦さまの使いとして念仏の教えを弘められ、善導大師の生まれ変わりとして称名の一行をお勧めいただきました。そのみ教えは、暗夜の灯であり、生死の大海に浮かぶ大きな船です。このような教えをいただいたご恩は阿弥陀さまの悲願に等しく、私たちは骨を粉にし身を砕いてこのご恩に報じなければならない。)

 そしてこの表白文を受けて親鸞聖人が作られたのが、次の『正像末和讃』の2句です。
 「無明長夜の灯炬なり 智眼くらしとかなしむな 生死大海の船筏なり 罪障おもしとなげかざれ」
 「如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし 師主知識の恩徳も ほねをくだきても謝すべし」
 (二番目の句は、今私たちが歌っています「恩徳讃」の歌詞でもあります。)

 このように、聖覚法印は師である法然聖人を非常に尊崇されていました。親鸞聖人は、同じく法然聖人を師と仰ぎ、また聖覚法印を大切な法友、法兄として慕い、敬っておられました。

(図は、法然聖人示寂後の六七日法要で聖覚法印が導師を勤められた様子です。)

 「法然上人行状絵図」からお借りしています。
 老若男女を問わず多くの人々が参っている様子が描かれています。名高い聖覚法印の唱導を聞きたいと集まった人もあったようです。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)

659.組長の業務:組定期便

20200724ノウゼンカズラ  20200724アメリカノウゼンカズラ 

  4月から組長を担当させていただいています。通常でも、年度の始めの定例行事として会議が多いことと思われますが、今年はそれに新型ウイルス流行への対応が加わって、バタバタと慌ただしく過ごしてきたように感じています。

 7月20日に、「組定期便(7月便)」というご連絡を組内の各寺院に送りました。

 これは、「組定期便」として毎月(多分)本山から組長宛に送られる情報について、必要なものを組内の寺院に伝達するという業務です。
 今回は、「『子どもたちの笑顔のために募金』活動奨励について」という文書と、「御同朋の社会をめざす運動」の総合基本計画および重点プロジェクトに関する文書をお送りしました。

 この本山からの文書のほかに今回は次のご連絡をしました。
 (1)6月23日の法中会に関するメモ
  6月23日に第1回の法中会を開催しましたが、その議事内容をまとめたメモと、法中会当日に検討事項となっていました、宇部北組の「御同朋の社会をめざす運動」の組織図をお送りしました。
  23日の開催日から少し時間が経過しましたが、会議の議事内容をまとめて確認、周知することは必要だろうと思いますので、今後も続けるようにしたいと考えております。

 (2)迷惑電話
  この迷惑電話といいますのは、7月12、13日に宇部北組の寺院にかかってきた電話に関するものです。宇部北組の17か寺のうち12か寺に電話がかけられたようです。調べてみますと、同じ人がかなり前からお寺以外にもあちらこちらに電話をしていたようで、「一過性の」迷惑電話だったようです。その旨ご連絡をしました。

 この「組定期便」、今後は、本山からの情報に加えて、宇部北組の外の情報や組内の動きも併せてご連絡するようにしたいと考えています。

(写真は、ノウゼンカズラです。今の時期、鮮やかな色彩で梅雨の鬱陶しさを忘れさせてくれる花です。)

 左は、中国原産のノウゼンカズラ。平安時代には日本にも到来していたということです。右は、アメリカ南東部を原産地とするアメリカノウゼンカズラという種です。
 最近はこの2つの種から作られた、大きくて鮮明な朱色をした雑種をよく見かけます。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)
  

658.『唯信鈔』、『唯信鈔文意』を読む(1)

20200720聖覚法印 

  本日から、「『唯信鈔』、『唯信鈔文意』を読む」というタイトルで、この両書について学んでいきたいと思います。

 『唯信鈔』は法然上人のお弟子さんの聖覚法印(せいかくほういん)という方が著された書で、『唯信鈔文意』は親鸞聖人がその『唯信鈔』の題号と本文中の教釈について分かりやすく説明された書です。
 以前、「御絵伝」について学びました際に、親鸞聖人が関東のお弟子さんにこの『唯信鈔』を読むように、と何度も勧められたことを学びました。
 聖覚法印は法然上人から厚い信頼を寄せられた方です。また御絵伝の「信行両座」の段で伝えられていますように、聖覚法印や親鸞聖人は「信不退(往生を遂げる因は「行」ではなく「信心」とする立場でした)」の立場に立たれました。親鸞聖人は兄弟子に当たる聖覚法印のことを大変に尊敬しておられました。

 私たちも、親鸞聖人のお勧めに従って、この二つの書について学びたいと思います。二つの書が対象になりますので、ブログでどのような構成にすればよいのか手探り状態ですが、取り組んでいきたいと思います。

 今回は、聖覚法印に関することです。

 『浄土真宗辞典』に尋ねますと、聖覚法印は1167年に生まれられました。親鸞聖人よりも6歳年長ということになります。
 比叡山の東塔(とうどう)の北谷八部尾の竹林房静厳(じょうごん)師に師事されたと伝えられています。父澄憲(ちょうけん)師が開いた安居院(あぐい)流の唱導(説教)師として、安居院法印聖覚とも呼ばれたとされています。
 天台の僧侶であった聖覚法印でしたが、後に法然聖人に帰依されました。親鸞聖人が法然聖人の許をたずねられた時には、聖覚法印はすでに法然聖人のお弟子さんになっておられましたので、親鸞聖人にとっては法兄に当たります。
 聖覚法印は、1235年にお住いの京都安居院でご往生されます。この安居院は比叡山の竹林院の里房だったところで、現在は、浄土真宗本願寺派の西法寺となっているそうです。

 法然聖人が聖覚法印に寄せられた信頼は非常に厚いものでした。法然聖人の行跡を記した絵巻「法然上人行状絵図」には、法然聖人がご往生された後に誰に浄土の法門についての疑問を尋ねればよいか、という問いに対して、聖人が「聖覚法印わが心をしれり」と答えられたという逸話が記されています。
 親鸞聖人はこのような聖覚法印を法然聖人の正しい理解者として尊崇され、この『唯信鈔』を何度も書写されて門弟に与えられこれを読むようにと勧められたのです。
 
(図は、聖覚法印を描いたものです)

 「法然上人行状絵図」に描かれているものです。この絵図は、京都の知恩院に所蔵されるもので、48巻からなり国宝に指定されています。
 この絵巻の第十七巻は聖覚法印の事跡を記した巻で、聖覚法印の功績と入滅までが伝えられています。上記の、法然聖人が聖覚法印を自分の後継者だとされたことに続いて、「彼の法印一巻の書を制作して、広く念仏を勧む。世間に流布して『唯信鈔』と号するこれなり。」と、『唯信鈔』を著されたことが紹介されています。
 この絵図に関する解説では、この図は聖覚法印が『唯信鈔』を記されているところだとされていました。

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657.最近の話題(50):10周年記念です

20200717切手s

  今日の話題はまったく個人的なことなのですが、7月14日で10周年を迎えます。
 実は、この「壽福寺だより」のほかにもう一つブログを作っていまして、これが7月14日でスタートから10年経過しました。

 こちらのブログのタイトルは「植物ぶつぶつダイアリー」で、サブタイトルは「写真と切手によるときどき日替わり植物図鑑です」。ちょっとマニアック(?)ですが、植物を描いた切手(植物切手と呼ばれています)と写真による「植物図鑑」といった乗りでスタートしたものです。

 10年前に、ブログを作っていた友人と飲んでいて盛り上がり、「オイラもブログをやるぞ・・」というようなことから始まったものです。最初のサブタイトルは「写真と切手による日替わり植物図鑑」で、文字通り毎日新しい記事を載せていました。それもさすがに息切れして、2017年1月1日からは、現在の毎週月曜日と金曜日の2日(「壽福寺だより」と同じ日です)記事を掲載する方式に変更し、サブタイトルに「ときどき」を加えたというわけです。

 切手を収集するという趣味を持っておられる方はおられますか?
 私が中学生の頃、今から見ると「第一次切手ブーム」だったのだそうですが、友達みんなが切手を集めていた時期がありました。わずかな小遣いを手にして、郵便局に記念切手を買いに行っていたことを思い出します。

 その後、切手のことは忘れていたのですが、もう20年以上前、酔っぱらって切手商の店に偶然入ったことがありました。その時に植物切手を購入したことがあって、それからぼつぼつと買い求めておりました。
 その後山歩きをするようになって、山で出会った植物の写真を撮ったり、植物園に出かけて撮影したり、と写真の方も手元に集まるようになっていて、この「植物ぶつぶつ・・」という形になりました。

 当初は手元にある切手と自分で撮った写真で記事を作っていたのですが、最近は身近にある植物はあらかた登場してしまって、切手は海外から発行されたものがあるけど、実物は身近にない植物を取り上げることが多くなっています。その結果、写真はネットから借用するものが多いということになっていて、これは残念なところですが、切手を通じて、世界には私たちが知らない植物がたくさんあるということを知る、という新しい経験にもなっています。

 タイトルの「ぶつぶつ」は「ぶつぶつ講釈を垂れる」「ぶつぶつ文句を言う」といった感じです。一度覗いてみてください。
  こちらです⇒植物ぶつぶつダイアリー
  10年前の最初の記事はこちらです⇒クチナシ
  もう一つ、切手だけをまとめたサイトです。こちらの更新は不定期です⇒切手植物図鑑

(図は、1961年に発行された「花シリーズ」の12枚です)

 1月から12月まで毎月1枚が発行されて、「切手ブーム」の火付け役になったと言われている切手です。きれいな印刷で、今見ても「いい切手だなあ」と思います。当時は、封書を10円で送ることができたのですね。

656.夏法座をお勤めしました

 20200713法座2  20200713法座
   昨日、7月12日に夏法座をお勤めしました。
 最後の法座が昨年11月の報恩講でしたから、間2回の休座(中止)をはさんで8か月ぶりの法座ということになりました。久しぶりに皆さんとご一緒にお正信偈をお勤めすることができて、嬉しく思いました。

 当日は、新型コロナウイルス対策として、マスクの着用をお願いし、アルコールで手指を消毒した上で本堂に入っていただく、席も間隔をあけて座っていただく(こちらはちょっとうまく行かなかったところもありましたが)などをお願いし、本堂の戸はすべて開放するなどの対策を行いました。

 ご講師には萩の浄国寺の杉山恵雄氏に初めてご出講いただきました。杉山氏は、8年前私が中央仏教学院で学んでいた当時の同級生です。同級生と言っても40歳という若い布教使さんで、熱意をもってみ教えをお伝えいただきました。

 ご講師は最初に親鸞聖人の「「聞(もん)」といふは、衆生、仏願の生起本末(しょうきほんまつ)を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。」というお言葉を紹介されました。

 阿弥陀さまはなぜこの私を救わずにはおれない、と願われたのか、とご講師は問いかけられます。私は、自分の力ではどうすることもできない苦しみから逃れることができないのですが、それでもなんとかしたいともがき、苦しんでいる存在です。そのような私を見られて、手を差し伸べずにはおれないと、私たちに代わりに苦しみ、勤められたのが阿弥陀さまだとお伝えいただきました。
 「衆生往生せずば、われも正覚を取らじ」と、私が救われなければ自分も救われることはない、と誓われました。そして、私のぞばにいていただき、「間違いなく救う」と私に呼びかけられ、そしてそれが私の口に出ていただくものが「南無阿弥陀仏」の名号なのだと聞かせていただきました。
 そのお救いは、私がなにかをして得たものではありません、わたしの姿を見られて、阿弥陀さまからいただいたお救い、他力のお救いなのだと示されました。

 最後にご講師から教えていただいた和歌が印象に残っています。

「合掌し肩をふるわせ哭く老婆 菩薩はなにを告げたもうらん」
 老婆がみ仏の御前で合掌しながら哭いている、「哭く」は大きな声をあげて泣くことだそうです、老婆はなにを泣いていたのだろうかという問いです。
 この老婆は、ずっと明るく楽しい生活を送ってきたのではないように思われます。つらいこと、苦しいことの連続だったのかもしれません。でも、この歌からは、老婆がその苦しみ、悲しみゆえに哭いているのではないような印象を受けます。苦しみの中にいる老婆に対して、「菩薩」は「つらかっただろうね、そのまま救うよ、もう大丈夫だから安心しなさい、泣かないでくれよ」と呼びかけられたのではないか、その言葉が届いて老婆は哭いていたのではないか、と感じることができました。

 当日も多くの方のご協力をいただきました。
 ご報告いたしましたように、5日には総代さんに草刈りをお願いしました。また、井上さん、杉山さんにはお花をご提供いただきお飾りをすることができました。また、当日は総代会三役の方には受付をお願いし、仏教婦人会の役員さんにはお茶の接待などのご協力をいただきました。記してお礼申し上げます。

(写真はご講師の杉山氏とお参りいただいた皆さんです。)

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)

655.御絵伝に見る親鸞聖人のご生涯 (66):下巻補(10)

三代宗主ss

 前回までで、奥書も含めて『御伝鈔』と「伝絵」について学んできました。

 本願寺第3代宗主の覚如上人は、永仁3年(1295年)にこの『御伝鈔』を詞書とする絵巻「本願寺上人伝絵」を制作されました。この年は、親鸞聖人が亡くなられてから33年に当たる年です。
 その後上人は、内容に手を加えられ、最初の伝絵から48年後、康永2年(1343年)に制作された「康永本」がその最終版となりました。現在多くの浄土真宗寺院に伝えられる御絵伝は、この「康永本」を基本として描かれたたものです。
 
 覚如上人は、覚恵上人のご長男として文永7年(1270年)にお生まれになりました。覚恵上人は親鸞聖人の末娘覚信尼公のご子息になりますので、覚如上人は親鸞聖人の曽孫に当たります。若くして天台の教えを学び、その後弘安10年(1287年)には慈信坊善鸞氏(以前学びましたように親鸞聖人のご子息ですが、聖人から義絶された人です)の子息の如信上人に会われて親鸞聖人のみ教えを学ばれました。
 また伝絵制作に先立って、上人は父上の覚恵上人とともに関東の親鸞聖人の聖跡を巡られて、同地の門弟方から聖人の事跡について学ばれたと伝えられます。

 そのような体験を通じて、覚如上人は親鸞聖人のみ教えを承継するというご自身の立場を明確にしていかれました。
 その過程では、以前少し触れましたが上人の叔父に当たる唯善氏との留守職をめぐる争いや、上人に距離を置いていた関東の門弟方との関係の修復などの課題に対処されました。また、親鸞聖人の廟所であった大谷廟堂を真宗門徒の中心と位置づけられ、対外的にも「本願寺」を寺院として確立されました。

 一昨年の7月から66回にわたって「御絵伝に見る親鸞聖人の御生涯」について学んできました。
 覚如上人は伝絵の制作を通じて、親鸞聖人が師である法然聖人のみ教えを正しく受け継がれ、大変なご苦労を重ねられながらそれを守り伝えられたことを示されました。さらに、親鸞聖人の廟所を礎とする本願寺が真宗門徒の中心寺院であること、上人ご自身がその法灯を継承することを示され、現在に続く真宗教団の基礎を確立することに尽力されたたことを学ぶことができました。

(図は、右から親鸞聖人、如信上人、覚如上人です。)

 この図は、2017年4月に伝灯奉告法要に団体参拝した際にいただいた冊子からお借りしました。
 覚如上人は、親鸞聖人を御開山、如信上人を第二代、ご自身を第三代の宗主とされました。

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654.夏法座の準備をお願いしました

20200706草刈り

  昨日7月5日、夏法座の準備として総代さんんに境内周辺の草刈りをお願いしました。

 当日は、梅雨の間にもかかわらず、雨も降らず、暑くもないという天候に恵まれました。代表総代の井上啓志さんを始め、岩﨑明さん、吉屋博志さん、岩﨑昌彦さん、三上敏秀さん、山根惣一さん、稲田英明さん、今橋庄二さん、金子富士夫さん、杉山博子さん、志賀慎次さん、志賀進さん、西睦生さん、田中光明さんの15名の方においでいただいて作業を行いました。

 作業は9時から始まり、駐車場および石段周辺、石段から下の参道の草刈りをお願いし、約1時間で終了することができました。大岩郷方面の三差路から境内に下る参道の周辺は岩﨑昌彦さんが前もって刈っていただいていましたので、これで12日にはきれいになった環境で皆さんをお迎えすることができます。
 皆様のご尽力に対して心からお礼申し上げます。

 作業が終わった後に、お茶を飲みながら一息いれました。このようにして総代の皆さんと集まりますのは1月26日の定例の総代会以来のことで、懐かしくうれしく思いました。

 その際にも話が出ていたのですが、昨年1月まで宇部西地区の総代をお願いしていた徳田順久さんが3月28日に84歳でご往生されました。徳田さんには会計をご担当いただき、丁寧で正確な処理をしていただいていました。また、トイレの改修や杉林の法面改修の工事に際しては、毎回作業に参加いただくのと併せて弁当の段取りなどもお願いしていました。皆さんとお元気なころの徳田さんについてもお話しすることができました。
 改めて徳田さんにお礼申し上げす。

(写真は、当日ご協力いただいた皆さんです)

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653.御絵伝に見る親鸞聖人のご生涯 (65):奥書(3)

廟堂の推移s

  『御伝鈔』に付された3番目の奥書です。御文は次の通りです。

 「康永二載癸未十一月二日筆を染めをはりぬ。 
                   桑門 釈宗昭 
                   画工 大法師宗舜 康楽寺弟子」

 平松令三氏による訳です。
 「康永二年(1343)十一月二日筆をとって書き終わりました。
                   僧 釈宗昭
                   画工 康楽寺弟子大法師宗舜」 

 ここで、覚如上人はこの奥書を前回の第二の奥書の4年後に記されたことが分かります。
 こうして見ますと、覚如上人は1295年、26歳の時に初めて絵巻を制作され、その44年後の1339年に焼失した原本の写しをもとにして制作し直されました。そしてそのさらに4年後にもう一つの絵巻を制作されたことになります。この時、上人は74歳になっておられました。

 この最後の伝絵は制作年から「康永本」と呼ばれ、東本願寺に伝わっているものです。上人はその後伝絵を制作されなかったとされますので、伝絵の最終決定版であり、浄土真宗の寺院に伝えられる四幅の御絵伝はこの「康永本」を基本にして描かれたものです。
 この康永本について平松氏はその絵巻の紙幅について述べておられます。それによりますと、原本である専修寺本や西本願寺本が幅32~33センチであるのに対して、康永本の幅は41.8センチと10センチ近くも大きいのだそうです。これは、覚如上人が本願寺という寺院の地位を明確にしようという意思が現れているのだとされます。
 覚如上人は、大谷廟堂を寺院化して真宗門徒の中心とすることに注力された方でした。上人の晩年、そのご意志が実現していったという喜びと誇りもこの最後の伝絵に現れているとされます。

(図は、伝絵に描かれた廟堂の姿です。右から順に「西本願寺本」「専修寺本」「康永本(東本願寺本)」「弘願本(西念寺本)」です。)

 『真宗重宝聚英』にこの4枚を比較した記事がありましたので、図をお借りしました。
 廟堂の内部を見てみますと、西本願寺本では石塔だけが、専修寺本では親鸞聖人のご影像と石塔、康永本では正面を向かれたご影像、弘願本ではご影像が斜め向きに、見えます。

 これもみ教えとは別の話になるのですが、この絵相の違いから西本願寺本と専修寺本の制作時期の前後が論じられているのだそうです。その場合、廟堂内部の様子は画工が自分の判断で描けるものではなく、制作者の指示によるものであり、またそれは伝絵制作当時の廟堂の姿を伝えるものだ、ということが前提になっているようです。
 
 西本願寺本が専修寺本よりも古いとする立場からは、創建当時の廟堂には石塔だけが置かれていて、その後ご影像が安置されたのが専修寺本の姿だとされます。
 一方、専修寺本の方が先に描かれたとする立場からは、廟堂には最初から石塔とご影像が安置されていたのですが、ある出来事によりそのご影像が失われたというのです。それは、覚如上人と上人の叔父にあたる唯善氏との間に廟堂の管理権について争いが生じ、遠慶2年(1309年)に唯善氏がご影像を奪って関東に逃げるという事件が起こり、西本願寺本はその事件の後に描かれたので、ご影像がない絵になっているという説です。

 その時に、廟堂も破壊されたのですが、その後1311年に復旧され、それもまた前回記しましたように1336年に焼失しました。さらにその2年後1338年に古い仏堂が移設されたのだそうです。その時には石塔も失われていて、弘願本や康永本に描かれているように、その後に安置された親鸞聖人のご影像だけが描かれているということになります。

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