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643.新型コロナウイルス感染拡大への対応(2)

20200529エゴノキ      20200529エゴノキ2

  以前ご報告しましたように、新型コロナウイルス感染拡大への対応として、法中会(17か寺の住職の会)と初組会(各寺院の僧侶、ご門徒各1名が議員)は会合を開かずに、資料をお送りして議決の必要なものについては書面による議決を行うという方針で進めてきました。その対応状況について、以下ご報告します。

 4月23日に臨時の協議会を開催し、上記の対応方針についてご了解をいただきました。
 その後、関係者からいただいた資料も含めて初組会に使う資料を作成しました。5月11日に第2回の協議会を開き「議案書・資料」について説明を行い、併せてその後次のスケジュールで進めることになりました。
 ・「議案書・資料」を法中会メンバーに送付(5月15日までに)
 ・三役が各寺院を訪問し、「議案書・資料」についての質問、意見を聞く(=書面による法中会)(5月25日までに)
 ・「議案書・資料」を最終決定し、組会議員に送付する(5月30日までに)
 ・書面による議決を受ける(6月10日までに)
 ・議決結果の集計、報告(6月15日までに)

 5月27日に、下記の初組会資料を各寺院に送付することができました。
 ・「2020年度初組会議案書・資料」
 ・議決用「2020年度初組会書面議決書」、返信用封筒
 ・通知「2020年度初組会資料ご送付の件」(組会議員宛)
 ・通知「初組会資料に関する件」(協議員、住職宛:当初資料からの修正について説明)

 今後、書面による議決を6月7日までに返送していただくことになっています。その集計と結果の報告が終われば、今回の異例の書面による初組会が完了することになります。
 当初想定していたスケジュールよりは前倒しして進行することができました。関係の方のご協力にお礼申し上げます。

 今回の対応を通して実感しましたのは、顔を合わせて説明し、意見交換することの意味です。
 協議会は少人数だということもあって会合を開きましたが、法中会と初組会は書面でということになりました。口頭で説明し質疑を受ければ簡単に済ませることも、書面でやろうとすると、説明資料を送り、ポイントとなる事項について文書で説明し、質問・意見があればこれまた文書で回答をいただき、資料を修正したらその旨報告する、というステップを踏むことになります。
 作成した資料にも、これまではなかった、市川前組長の「退任のご挨拶」と私の「新任のご挨拶と議題に関する補足説明」を入れるなどの対応を行いました。
 誠にややこしく、資料に抜けがないか、分かりにくいところはないか、など普通以上に気も配りました。(のですが、28日になって資料の修正した部分に整合性のとれていないところを見つけて、とほほ・・・です)

 コロナウイルスへの対応として、多くの企業が「テレワーク」の導入を進めていると報道されています。これまでは顔を合わせて進めていた仕事を、そうすることなく進めることの難しさが分かるような気がします。営業活動などは面と向かって話をすることが重要でしょうから、ご苦労が多いことだと想像されます。
 逆にコロナウイルス対応を通じて、顔を合わせなくても意志を伝達し思いが伝わる、そんな仕事の進め方を考えるよい機会になるととらえることもできると思います。なかなか難しいことだと思いますが、それが「新しい日常」の一部になっていくのではないかと考えています。

 4月から、三役の間ではLINEを使った連絡や情報共有を進めており、できればその範囲を広げたいと考えております。事務的な手数は減らしながら、顔を合わせなくても思いは伝わるという「新しい日常」ができれば、と思います。

(写真は、エゴノキです。)

 石段の登り口に花が咲いています。高い樹高の木ですから、目の前で花を見るのは難しいのですが、石段のおかげで割合に近くで見ることができます。地面にははなびらがたくさん落ちていて良い香りがします。
 エゴノキという名前は、実をかじると刺激があって「えぐい」ところからきているのだといいます。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)
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642.御絵伝に見る親鸞聖人のご生涯 (62):下巻補(9)

20200525西本願寺本下巻第7段s

  今回は、『御伝鈔』には記されていませんが、聖人のご遺骨をお納めする廟堂の建立と本願寺の起源に関わることについて学びたいと思います。

 前回までで、親鸞聖人がご往生され、そのご遺骨を最初は大谷の地の墓所にお納めし、後に吉水の北辺りに仏堂を建ててここにご影像とともに安置されたことを学びました。以前にも記しましたように、この仏堂の建立には、聖人の末娘で聖人のご臨終にも立ち会われた覚信尼公が関わっておられます。覚信尼公は、関東の門弟方に墓所の移設、仏堂の建立を呼びかけられ、関東の門弟方はこれに応えられて支援を寄せられました。

 その仏堂を設けた吉水の地は、覚信尼公のご主人の小野宮禅念氏の持ち物でしたが、禅念氏は文永11年(1274年)にこの土地を覚信尼公に譲られます。その際に、禅念氏は、この土地は、子供に譲る譲らないも含め覚信尼公の意志によって取り扱うように、とされたのだそうです。覚信尼公の門徒方の中での立場を考えて、禅念氏はそのような配慮をされたのだと伝えられています。
 このようにして、大谷の仏堂は関東の門徒が建立したもの、その土地は覚信尼公の所有するもの、という形になりました。

 その後、建治3年(1277年)に、覚信尼公はこの土地を聖人の墓所に寄進されました。覚信尼公はその際、この寄進は「御はかをまたくせんため」(御墓を全くせんため:お墓を将来にわたって問題が生じないように)に行うのだと仰ったと伝えられています。自身の末裔が廟堂を恣意的に営むことがないようにする、という思いだったとされています。このことによって、大谷の廟堂は、その土地も含めて門徒が共同して所有するものとなったということができます。

 覚信尼公はその際、「この御めうだうあづかりて候はんずるあまがすゑずゑの物ども」(この御廟堂預かりて候はんずる尼が末々の者ども)とされ、自分の子孫がこの廟堂を預かり管理していく、とされました。この管理する役目は、「留守職(るすしき)」と呼ばれますが、大谷の廟堂の留守職は覚信尼公の子孫が勤める、ということを示されたことになります。
 しかし同時に、覚信尼公は、その留守職が門徒の意志に背いて祖廟に混乱を招くようなことがあった場合には、門徒は直ちにその者を留守職から追放する、ことも定められ、留守職の役は「預かる」のであって、その地位は門徒の意志に拠るということも示されています。

 このようにして、覚信尼公は廟堂を建立され留守職を設置されました。このことは、前者は後の本願寺の開基に当たり、後者はご門主にかかわる制度へとつながるもので、覚信尼公がその礎を築かれたことになります。

(図は、西本願寺本の伝絵です。)

 すでに掲載しました他の図(自坊の御絵伝、専修寺本の伝絵)と比較しますと、この西本願寺本には次のような特徴があることが分かります。
 ・廟堂の中には石柱だけが描かれています。専修寺本では石柱とご影像の両方、御絵伝ではご影像と三具足が描かれていました。
 ・回廊に僧侶の姿が描かれています。専修寺本では僧侶以外の人も描かれていました。一方、御絵伝では誰も描かれていませんでした。
 ・御絵伝と専修寺本には、覚如上人ご自身とされる僧侶の姿が描かれていましたが、西本願寺本では誰も描かれていません。
 ・屋根は檜皮葺ではなく瓦葺です。専修寺本でも瓦葺に、御絵伝では檜皮葺に描かれていました。

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641.御絵伝に見る親鸞聖人のご生涯 (61):下巻第七段(3)

 
20200522専修寺本下巻7段2s20200522専修寺本下巻7段3s   20200522専修寺本下巻7段s

 御絵伝の下巻第七段の後半部分、『御伝鈔』としても最後の部分に当たります。

 このときに当りて、聖人(親鸞)相伝の宗義いよいよ興(こう)じ、遺訓(ゆいくん)ますます盛(さか)りなること、すこぶる在世の昔に超えたり。すべて門葉(もんよう)国郡(こくぐん)に充満し、末流(ばつりゅう)処々(しょしょ)に遍布(へんぷ)して、幾千万といふことをしらず。その稟教(ほんぎょう)を重くしてかの報謝を抽(ぬき)んづる輩(ともがら)、緇素(しそ)老少、面々に歩みを運んで年々廟堂(びょうどう)に詣(けい)す。おほよそ聖人在生(ざいしょう)のあひだ、奇特(きどく)これおほしといへども羅縷(らる)に遑(いとま)あらず。しかしながらこれを略するところなり。

 このころになると、聖人から受け伝えた念仏の教義はいよいよ興隆し、言い遺されたおさとしはますます盛んで、聖人ご在世当時をしのぐほどでした。門下の人びとは諸国に満ちあふれるほどで、村むらにあまねくひろがり、その数はかぞえきれない有り様でした。他力念仏の教えを重んじて、報恩謝徳にはげむ人びとは、僧侶といわず俗人といわず、老人も若い者も、みなそれぞれにこの廟堂へ参詣にやって来るようになったのです。
 以上、親鸞聖人のご在世中には、いろいろと珍しく且つわれわれの心を打つ出来事がたくさんありましたが、詳しく記述する暇(いとま)がありませんので、残念ながら省略いたします。

 この部分で、覚如上人は、親鸞聖人のご往生の後にそのみ教えがいよいよ広まった様子をお伝えいただいています。

(本日の図は、専修寺本の伝絵です。)

 この図は、専修寺本でも最後の図になります。左の図はその全体、右の図はそのうち、廟堂の部分を拡大したものです。

 廟堂を囲んで回廊が描かれているところは前回載せました自坊の御絵伝と変わりがないのですが、今回の図では回廊に僧侶や武士と見える人の姿がたくさん描かれています。「僧侶といわず俗人といわず、老人も若い者も、」と『御伝鈔』に記された様子がうかがえます。後年制作された御絵伝では、なぜか回廊に人の姿が描かれていません。なぜそうなったのかという点については、平松氏もよく分からないとされています。

 お話しがみ教えと離れて絵の方に行ってしまいますが、もう少しこの図を見てみます。
 今回の図では、廟堂の中に聖人のご像とともに石柱が置かれているように描かれています。前回の自坊の御絵伝では、ここには聖人のご像と三具足が描かれていましたが、石柱はありませんでした。ご遺骨を大谷からこの地にお移しした当時は、大谷にあった石柱もこちらに移され、聖人のご像(木像)とともに安置されていたのではないか、とされているようです。 
 また、西本願寺本の伝絵では、廟堂の中には石柱だけが描かれており、専修寺本とどちらが古い本だろうかという点も含めて、議論の対象となっているようです。
 前々回の図(専修寺本)で、大谷の墓所の石柱は六角形だと書いていましたが、こちらの図を見ると四角形のように見えます。その目でもう一度大谷の墓所の図をみると、こちらも四角形のようにも見えます。平松氏の記述をそのままご紹介したのですが、どちらが正しいのでしょうか、よく分かりません。

 今回の専修寺本にも右手に僧侶が一人描かれています。御絵伝では、覚如上人ご自身とされるこの人物は境内の掃き掃除をしているように描かれていましたが、専修寺本では取っ手のついた鍵と思われるものを手に持っています。これは、覚如上人が、ご自身がこの廟堂の鍵を預かる管理者であるということを示されたのではないか、とされているようです。原作者がちょっと顔を出す以上の意味が込められているのかもしれません。

 もう一つ自坊の御絵伝との相違点として、専修寺本では廟堂の屋根は瓦葺になっていますが、自坊の図ではこれは檜皮葺のように描かれている点があります。これについて、平松氏は、最初の廟堂は建武3年(1336年)に戦火で焼失し、その後檜皮葺のものに建て替えられ、その後に制作された伝絵やそれをもとに制作された御絵伝の絵師はそのことを知らなかったのだろうとされます。

 図一枚だけでも、いろいろなことが想像され、解釈されるものですね。

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640.御絵伝に見る親鸞聖人のご生涯 (60):下巻第七段(2)

20200515自坊下巻第七段s

 今回も、御絵伝の下巻第七段の前半部分を学びます。今回の訳文は、新しく発刊されました「現代語版 御伝鈔 御俗姓」からいただきました。

 「文永九年の冬頃、東山の西の麓、鳥部野の北、大谷の地に納めた遺骨を改葬し、そこからさらに西、吉水の北辺りに納め直しその地に仏堂を建て、親鸞聖人の影像を安置した。」

 前回はこの部分の前半、大谷の地にご遺骨を納めた墓碑について学びました。今回はその後半部分で、そのご遺骨を改葬し、新たに仏堂を建てたとことが記されています。この仏堂の建立には、聖人の末娘である覚信尼公が関わっておられます。

 覚信尼公は、親鸞聖人に付き添って京都に残られ、聖人のご往生のときもおそばにおられました。平松令三氏によりますと、覚信尼公は、聖人が亡くなられた後に小野宮禅念(おののみやぜんねん)という方と結婚(再婚)されたということです。この禅念氏は、聖人のみ教えと覚信尼公の立場をよく理解された人だったようで、ご自身が買い求めていた土地に聖人のお墓を移すことに同意されたということです。
 大谷の地にあった聖人の最初の墓所は、東山の斜面にあり、ちょっと不便でしかも見すぼらしく、雨露をしのぐ備えもなかったようです。前回の専修寺本の伝絵の聖人の墓所がその姿を示しているようです。
 平松氏によりますと、禅念氏がその土地を買い求めた際の証文の控えが本願寺に残っているそうで、それによりますと、広さは144坪(475㎡)程度だったとされます。決して広い土地ではありませんが、この地が本願寺の発祥の地ということになります。

 この記事の最初に掲げました自坊の御絵伝の図に見えますように、六角形の建物の周りに回廊を巡らせた形式をとっています。
 堂内には聖人のご影像が安置され、ご影像の前には三具足と呼ばれる仏具が備えられているのが見えます。上記の「現代語版」の脚注では、このご影像は現在本願寺の御影堂に安置されている親鸞聖人のお像(木像)のことだとされています。このお像は聖人が71歳ときに自ら彫られたもので、聖人ご往生の後にご遺灰を漆に混ぜて全体に塗りこめたものだそうです。

 平松氏は、この六角堂の形にも注目しておられます。といいますのは、六角形の建物は建築が難しく、建築費用もかさむのだそうです。この最初に建てられた廟堂の形が六角形だったのは、かつて聖人が六角堂にこもられた後に法然聖人の許を尋ねられたことにも関わりがあり、また残された門弟方の聖人をお慕いする気持ちの強さも表している、とされます。

(図は、自坊の下巻第七段です。)

 図の右手に、竹箒を持って庭を掃いている僧がただ一人描かれています。この人は、御絵伝を編纂された覚如上人ご自身だろうとされているのだそうです。
 なぜ上人はこの最後の図にご自身を描かせられたのだろうか、ということについては、諸説があるようです。ご自身が廟堂を管理する権限を持っているということを示したかったとする説があったり、平松氏は、テレビのドラマなどの最終場面に原作者がちょっとだけ顔を出すことがあるような、そんなものだったのかもしれない、ともされています。

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639.御絵伝に見る親鸞聖人のご生涯 (59):下巻第七段

20200515伝絵専修寺本

  再び「御絵伝」に戻ってまいりました。下巻の第七段、4幅の「御絵伝」では4幅目の一番上(最後)に当たります。

 この段の前半部分のご文と訳文を載せます。

 文永九年冬のころ、東山西の麓、鳥部野の北、大谷の墳墓をあらためて、おなじき麓よりなほ西、吉水の北の辺(ほとり)に遺骨を掘り渡して仏閣を立て、影像を安(あん)ず。」

 親鸞聖人入滅から十年後の文永九年(1272)冬のころ、京都東山の西麓、鳥部野の北方の大谷にあった聖人のお墓を改葬することにして、ご遺骨を掘り起こし、同じ東山西麓ながら、なお西にあたる吉水の北のあたりにお堂を建て、ご遺骨をそこに移し、堂には聖人の御影像を安置しました。

 今回の部分は、親鸞聖人のご廟所について記された部分で、本願寺の開基にも関わる部分となります。

 すでに学びましたように、聖人は弘長2年(1262年)の冬に亡くなられ、鳥部野の南にあった延仁寺で荼毘にふされ、ご遺骨は鳥部野の北、大谷の地に埋葬されました。
 平松令三氏によりますと、ご遺骨の一部は関東のお弟子さんに分け与えられ、その残りの部分が大谷の地に埋葬されたようです。
その埋葬の場所は、今の知恩院の御影堂の東方、山の斜面だったと考えられ、親鸞聖人の師であった法然聖人のお墓もこの近くにあったと思われる、と記されています。

 法然聖人は、建暦2年(1212年)にお亡くなりになりました。親鸞聖人が越後の配流先におられた頃でした。法然聖人のご遺骸(その時は土葬されたようです)はこの東山の地に埋葬されたのですが、嘉禄3年(1227年)に比叡山の僧たちがそのお墓を壊してご遺骸を掘り返そうとした事件がありました。法然聖人の門弟たちは、それに先んじてご遺骸を現在の長岡京市にある光明寺にお運びし、火葬しました。従って、親鸞聖人のご遺骨を埋葬した時には、法然聖人のお墓はそこにはなかったことになります。

 親鸞聖人の大谷のお墓は、上の図のように、木の柵で囲んだ四角い壇の中央に六角柱と見える石の柱を立てたものだったようです。石柱の上には、笠と宝珠を乗せた形になっているようですが、この形は比叡山の横川(よかわ)で始まった様式だということです。平松氏は、親鸞聖人が青年時代に横川で過ごされたことにちなんだものではないかとしておられます。

 『御伝鈔』では、吉水の北にお堂を建ててご遺骨を大谷の墓所からこちらにお移しし、一緒にご影像を安置したと記されています。

(図は、専修寺本の伝絵です。書き込みには「聖人の墓所」と記されています。)

 寺の御絵伝を始め一般の御絵伝には、この大谷の墓所の図はなくて、聖人のご遺骸を荼毘に付している図の次には、「吉水の北に」建てられたお堂の図が描かれています。

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638.最近の話題(48):コンニャクの花に遭いました

20200511コンニャク    20200511コンニャク2

  先日、寺の近くでコンニャクを育てておられるご門徒さんの畑で、コンニャクの花に初めて会うことができました。

 もう10年近く前になるのですが、スマトラオオコンニャク(ショクダイオオコンニャク:燭台大蒟蒻)という植物の花が咲いたというニュースを見たことがあります。この植物の高さは3メートル以上にもなり、花は数年に一度、それも2日間だけ咲くということでした。咲くと受粉を目的に昆虫を集めるために臭い(人間からすると腐臭だそうです)をまき散らすのだそうです。そんな姿を一度見てみたいと思っていましたが、これは実現していません。

 もう一つ記憶の奥にあるのですが、約40年前に高知県でコンニャクを栽培している広い畑を見たことがあります。そこには葉だけがあったような記憶なのですが、「これがコンニャクです」と教えてもらったことがありました。食物としてのコンニャクとその植物が結びつかないような感じをもったことを覚えています。

 そんなことから、コンニャクの花を見たいと思っていたのですが、これが今回実現したのです。
 以前から花を見たいと言っておりましたので、ご門徒さんから「花が咲きそうですよ」という連絡をいただきました。それが4月25日でした。その日から、毎日、ときには朝と夕方、持ち主のご門徒さんがおられない留守中でも「もう咲いたかな」と畑を覗きに行きましたが、それでもなかなか咲きませんでした。

 それが5月4日、咲いていた(閉じていた襟巻のような部分が開いた)のです。前日は雨で当日は気温が上がっていましたので、これはひょっとすると、という予感もありました。
 畑には花をつけた株が11ほどありました。ご門徒さんによりますと、今年はたくさんの株に花が咲いたということでした。
 コンニャクの花というのは、これがちょっと不思議な形、不気味なと言ってもいいような形をしています。中央に小さな花が集まった肉穂花序(にくすいかじょ)と呼ばれる柱状の部分を持ち、その周りを仏炎苞(ぶつえんほう)と呼ばれる襟巻状のものが取り巻いているのです。きれいな、とか華麗ななどとは程遠い花なのですが、ようやく出会ったこともあって、親しみを感じて見入ってしまいます。

 解説書を読みますと、栽培されているコンニャクは5,6年で花をつけるとありました。花をつけるときには葉は出ず、開花したあとその株は枯れるのだそうです。

(写真はコンニャクの花です)

 肉穂花序、仏炎苞はサトイモ科に共通の特徴なのだそうです。ミズバショウやカラー、アンスリウムなども同じサトイモ科の植物で、確かに似通ったところがあります。
 ついでに、生物の学名は二分法といって、属名と種小名で表記されるのですが、コンニャクはAmorphophallus konjacという学名を持っています。種小名の「konjac」は日本語のコンニャクから来ています。一方、属名の「Amorphophallus」はギリシャ語由来で、amorphos(畸形)+phallos(陰茎)からきているそうです(これは余計なことでした)

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637.新型コロナウイルス感染拡大への対応

 20200508コバノミツバツツジ2   20200508コバノミツバツツジ
 新型コロナウイルス感染拡大に対する緊急事態宣言が今月末まで延長されました。

 宇部北組でも、この感染拡大に対する対応を検討してきました。
 4月3日 以前ご報告しました第1回協議会ではウイルス感染に関する情報を交換し、今後状況を見ながら対応を進めることとしていました。
 4月23日 臨時の協議会(壽福寺の本堂で、出席者5名は長い座机を一人一脚使用し、ペンタゴン風の五角形で会議を持ちました)を開催し、4月7日の緊急事態宣言も考慮して宇部北組として次の対応をとることを決めました。
  ・初組会(前年度の活動報告、決算報告、監査報告、新年度の活動方針、会計予算を審議する年度の始めの会議で、出席者は、各寺2名の34名となります)への提出議案を検討する第2回協議会は、出席者の数が5名と少ないことも考慮して5月11日に開催する
  ・法中会(初組会へ提出する議案について周知し意見を聞く住職の会議です。出席者は17名)は、会合を行わず資料を送付して質問、意見を受ける
  ・初組会も会合を行わず議案と関連資料を組会議員に送付し、書面により議決をもらう
 組会は、規定上も会合を持って決議することが前提とされていることなのですが、上記のような緊急の対応を行うこととなりました。

 これに従って、各組会議員に今回の対応についての説明する文書をお送りし、11日に開催する協議会用の資料を発送したところです。

(写真は、コバノミツバツツジの花です)

 ちょうど今頃きれいに咲いている花です。
 左は西宮市の広田神社で出会ったものです。このお宮は住宅街のど真ん中にあるのですが、深い森があってこのコバノミツバツツジの群生は天然記念物に指定されているということでした。

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636.最近の話題(47):新型コロナウイルス(2)

  カリフォルニアデージーs
 前回、宗門の石上総長から出された「新型コロナウイルス感染症関する『念仏者』としての声明」についてお伝えしました。今回は、この声明をお読みして考えたこと、気づいたことについて記したいと思います。
 この声明の中で、私たちが大切なものと思っている「人とのつながり」が、このウイルス感染拡大の中では「安心」ではなく「不安の要因」となっているという現実が指摘されています。人との接触を80%減らしましょう、という呼びかけがまさにそれです。出かけない、集まらない、家にいましょう、といった呼びかけは、この「人とのつながり」を減らしましょう、なくしましょうという働きかけそのもののように思われます。

 しかし、声明では「『つながり』を表面的に考えてはなりません。世界的な感染拡大という危機に直面する今だからこそ、私たちは仏教が説く『つながり』の本来的な意味とその大切さに気付いていく必要があります。」と記されています。直接的な接触がとれなくても感じられる、それがとれないからこそ初めて感じられる「つながり」があるということを言われていると思います。
 テレビのニュースで、お客さんが途絶えたレストランのオーナーが苦しい経営状況にも拘わらず「前線で頑張っている医療関係者の力になりたい」とおいしい料理を届けておられる様子が伝えられていました。その他にも医療関係者を励ましたい、支えたいという思いから多くの活動が広がっていることも知りました。直接顔を合わせることや、言葉を交わすことがなくとも、ここでは「つながり」はしっかりと伝わっていると感じて観ていました。
 その一方で、自分の居住地区にあるホテルをコロナウイルス感染者の収容施設に転用することに反対している人があることや、医療従事者の家族があたかも感染者であるかのように差別されているという報道もありました。「つながり」が「不安要因」になっているという局面を象徴する事象だということになります。このような事例について知ると、私たちは「ひどいことをするなあ」という受け止め方をしますが、もう一度思い直してみますと、同じ立場に立った時に私は絶対にそのような行動をとらないと断言できるだろうか、と考えてしまいます。
 2017年の秋に、「御同朋の社会を目指す運動」僧侶研修会でお聞きした話を想い出しています。ご講師の人権社会問題担当部長の長屋善洋氏は、極限状態におかれた私たちは私たちがひそかに持っている差別意識を表面化させる可能性がある、と指摘されました。極限状態のなかでは、私たちの差別意識は増幅されて表面化する、さらには意識が逆転することもある、ということを言われました。

 ちょっとした小さなきっかけで、私は日ごろ言っていることとは違った行動をとるかもしれません。そんなはずはなかったのに、と思われるような差別的な発言を行うかもしれません。しかし、自分たちはそのような存在なのだ、と自身を甘やかせてはいけないと思います。「平時」から自身がそのような可能性をもった存在であるということを意識していること、そして「極限状態」に面した時に、難しいことなのでしょうが、自分中心に考えるのではなく「人とのつながり」の中で生きていることを改めて思い起こすこと、が必要だと感じます。

(写真は、カリフォルニアデージーの花です。)

 山陽小野田市にあります「花の海」にたくさん植えられていました。
 前回と今回2回続けて「デージー」になりましたが、今回はキク科の植物で和名を「ツマシロヒナギク(端白雛菊)」といいますから、デージーと呼んでもおかしくないでしょう。
 北米西部原産の植物で、カリフォルニア州には多くの種が分布しているようです。

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635.新型コロナウイルス感染症に関する本山の声明

20200501リビングストンデージー

 新型コロナウイルス感染拡大に対して様々な対応がなされていますが、4月14日付で宗門の総長より声明が発せられましたので、ご伝達いたします。

 この声明をお読みして、極限状態での「つながり」の姿、日ごろ一言で「人とのつながり」といっている関係、について考えさせられることがありましたが、全体が長くなりますので次回以降に記したいと思います。
 
 新型コロナウイルス感染症に関する「念仏者」としての声明

 現在、新型コロナウイルス感染症は世界中に拡がり、収束する気配を見せていません。日本でも緊急事態宣言が発令されるなど、状況は新たな段階に入っています。
 まず、このたびの新型コロナウイルス感染症によりお亡くなりになられた国内外の多くの方々に謹んで哀悼の意を表しますとともに、罹患されている皆さまに心よりお見舞い申しあげます。さらに、特に高い感染リスクにさらされながらも、懸命に治療・対策にあたられている医師、看護師をはじめとする医療従事者の方々に深く敬意と感謝を表します。
 こうした危機的な状況において、世界中の人びとが共に力を合わせ、励まし合って対応しています。しかし、症状が出ないために感染に気づいていない人の行動が、感染拡大の一因となっている場合もあるのではないかとも指摘されています。感染症の危険性や対処法を正しく理解し、実行するとともに、差別や偏見が拡がらないよう、一人ひとりがお互いを思いやり、注意深く行動していきたいと願っております。
 釈尊(しゃくそん)が明らかにされた苦しみの根源である無明煩悩(むみょうぼんのう)、また親鸞聖人(しんらんしょうにん)が「煩悩具足(ぼんのうぐそく)の凡夫(ぼんぶ)」という言葉でお示しになった私たち人間の根本に潜む自己中心性に思いをいたし、このような時にこそ、人と喜びや悲しみを分かち合う生き方が大切ではないでしょうか。仏教には、「あらゆるものは因縁(いんねん)によりつながり合って存在しており、固定した実体はない」という「縁起(えんぎ)」の思想があります。新型コロナウイルスの感染拡大の原因は人との接触であるとされ、本来大切な人との「つながり」が、今は安心感ではなく、不安をもたらすものとなってしまっています。しかし、「つながり」を表面的に捉え、危険なものと否定的に考えてはなりません。世界的な感染大流行という危機に直面する今だからこそ、私たちは仏教が説く「つながり」の本来的な意味とその大切さに気づいていく必要があります。
 今重要なことは、仏智(ぶっち)に教え導かれ、仏さまの大きな慈悲(じひ)のはたらきの中、共に協力し合って生きる大切さをあらためて認識し、感染拡大をくい止めることです。緊急事態宣言がコロナ危機を克服してくれるのではありません。この困難を打開できるか否かは、多くの関係者のご尽力とともに、私たち一人ひとりの徹底した適切な行動にかかっています。
 私という存在は、世界の人びととの「つながり」の中で生きているからこそ、やがて、共にこの苦難を乗り越えた時、世界中の人びとと喜びを分かち合えることでしょう。それぞれの立場において、この難局で法灯(ほうとう)や伝統を絶やさないために何ができるかを考え、「そのまま救いとる」とはたらいてくださるお念仏の心をいよいよいただき、共々に支え合い、力を合わせるのです。誰もが安心して生活できる社会を取りもどすことができるよう、精いっぱいのつとめを果たしてまいりましょう。

2020(令和2)年4月14日
浄土真宗本願寺派総長  石上 智康


(写真の花は、リビングストンデージーと呼ばれています)

 先日、ご門徒さんから3鉢いただきました。いただいたときは曇り空で花が閉じていたのですが「日光が当たれば花は開きますよ」と言っておられ、快晴の翌日、このようにきれいに咲きました。

 デージーという名前や一見した姿でキクの仲間のようですが、肉厚の葉を持つ南アフリカ原産のハマミズナ科の植物です。マツバギクなどと同じ科に属します。寒さにも強いそうで、これから増えてくれるのを楽しみにしています。ついでに名前のリビングストンはアフリカを探検したリビングストン氏にちなんで命名されたとのことです。

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