FC2ブログ

634.御絵伝に見る親鸞聖人のご生涯 (58):下巻第六段(4)

20200427下巻第六段専修寺本s 20200427下巻第六段西本願寺本s
 
  引き続き御絵伝について学びます。今回は、前回と同じ部分の現代語訳だけを掲載します。

 「住坊は京の都、押小路の南、万里小路の東の辺りにあったので、そこから遠く鴨川の東の道を経て、東山の西の麓、鳥部野の南辺りの延仁寺で葬送した。そして、遺骨を拾い、同じ東山の麓、鳥部野の北辺りにある大谷の地に納めたのである。
 聖人の臨終に立ち会った門弟や、親しく教えを受けた人々は、それぞれにご在世の頃を思い、世を去られた今の時を悲しみ、聖人を慕う思いから涙を流さないではいられなかった。」


 今回載せました現代語訳は、4月15日に本願寺出版社から出版された現代語版の『御伝鈔 御俗姓』から引用させていただいたものです。これまでこのブログでは、同じ本願寺出版社から発行されていた平松令三氏の『聖典セミナー 親鸞聖人絵伝』に掲載された現代語訳を使わせていただいていましたが、このブログが最後の部分に近づいた時点で、同社から現代語訳が発行されたということになります。

 両方の訳文を比較してみますと、語調が平松氏の訳では「ですます」調ですが、今回の訳は「である」調になっている点を除いては大きな違いはないように思われます。
 ひとつ興味を引いたのは、聖人のご遺骨を拾ったのが、平松氏は火葬の翌日と記してありますが、今回の訳でははっきりはしませんが火葬の当日のような表現になっているところです。原文にはそのように書いてはないのですが、平松氏が「翌日に」とされたのには、なにか根拠があるのかもしれません。この点はよく分かりませんでした。

 もう一つ、どうでもいいようなことなのですが、2つの訳で「賀茂川」と「鴨川」と同じ川に対して別の字を当てているのも面白いな、と思って読んでいました。
 京都の「かもがわ」は賀茂大橋という橋のところで高野川という川と合流するのですが、それより上流を「賀茂川(加茂川)」、下流を「鴨川」と分けているのだと、昔京都の人が言っていたことを想い出しました。賀茂大橋は現在の京都御所の北辺の通り(今出川通)にかかっている橋です。すると、聖人の棺を運んだ輿はずっと南の方を東山に向かって進んだと思われますので、両方を区別するのであればここは「鴨川」ということになりそうです。
 
 さらにもう一つ、平松氏の訳で印象に残っている表現が一か所ありました。それは下巻第二段で、聖人が稲田の草庵に住まわれていた頃、多くの人々が訪ねてこられたことを、「そのとき聖人は、『青年のころ、京都六角堂の救世観音さまから聞かされた夢のお告げとピッタリだね』とつくづくおっしゃったことでした。」と訳しておられたところです。この「ピッタリ」が面白いと思っていて、この部分は今度の現代語訳ではどうなっているのだろうか、とみてみましたら、
 「このとき聖人は、『かつて救世観音菩薩から受けた夢のお告げが、今まさにその通りになっている』と仰せになった。」と「まじめな」訳になっておりました。

(図は、この段を描いた、左は専修寺本、右は西本願寺本の伝絵です。)

 専修寺本の添え書きには、「延仁寺の五三昧処也」と記されています。この五三昧処(ごさんまいしょ)というのは、京都の五か所の火葬場あるいは単に火葬場、のことを示す言葉だということです。

 平松氏は、この場面の炎の描き方にも変遷が見られると言っておられます。
 確かに、前回の自坊の御絵伝では炎は左に向かってたなびいていましたが、専修寺本ではほぼ真っすぐに、西本願寺本では右に向かっているのが分かります。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)
スポンサーサイト



633.御絵伝に見る親鸞聖人のご生涯 (57):下巻第六段(3)

20200424下巻第六段後半自坊s
 
 今回は、『御伝鈔』の下巻第六段の後半部分です。ご文と訳文です。

 禅房は長安馮翊(ふよく)の辺(ほとり) 押小路(おしこうじ)の南、万里小路(までのこうじ)より東 なれば、はるかに河東(かとう)の路(みち)を歴(へ)て、洛陽東山の西の麓(ふもと)、鳥部野(とりべの)の南の辺、延仁寺(えんにんじ)に葬(そう)したてまつる。遺骨を拾ひて、おなじき山の麓、鳥部野の北の辺、大谷にこれををさめをはりぬ。しかるに終焉にあふ門弟、勧化をうけし老若、おのおの在世のいにしへをおもひ、滅後のいまを悲しみて、恋慕涕泣(れんぼていきゅう)せずといふことなし。

 その時のお住居(すまい)の場所は、京都の押小路の南、万里小路の東でしたから、遠く賀茂川の東の道を通って、東山の西麓で、鳥部野の南側、延仁寺で火葬にせられました。翌日、ご遺骨を拾い、同じ東山山麓で、鳥部野の北側の大谷の地にお納めしました。
 このように聖人の最後に出会った門弟たちや聖人のご教化を受けた老若の門徒たちは、それぞれ在りし日のことを想い出し、ご遷化の今を悲しんで、みな聖人を恋い慕い涙を流したことでした。


 今回の部分では、聖人を火葬し埋葬した時の様子が記されています。
 それによりますと、聖人は押小路通の南、万里小路の東の地に住んでおられた、とされます。前にも学びましたが、聖人は1255年、ご往生の7年前になりますが火災に遭われました。その後、こちらに移られその地でご往生されたことになります。また、他の書(『自然法爾章』)では、聖人は三条富小路(とみのこうじ)にある善法坊僧都のご坊に身を寄せておられたとされているそうです。
 前回にも書きましたが、この善法坊僧都と呼ばれている人は、親鸞聖人の弟の尋有僧都のことです。そのお住いの場所が、三条富小路にあったとされているのですが、それは『御伝鈔』の「押小路の南、万里小路の東」という場所とは違っているようにみえます。
 平松令三氏によりますと、押小路通は二条通りの南の通りで三条通りの北にあり、万里小路(現在の柳馬場)は富小路の一筋西にあることから、両者は同じ場所になるとしておられます。

 聖人のご遺体は、都を横切るように右京から東山へ運ばれ鳥部野の南にある延仁寺で火葬に付され、鳥部野の北の大谷の地に埋葬されました。
 鳥部野(鳥辺野)は現在の清水寺から本願寺の大谷本廟周辺に当たり、平安時代から京都の墓所の一つだったということです。大谷本廟の近くには親鸞聖人を荼毘に付した場所として「御荼毘所」があります。

 ご往生の地(右京の該当地)には、現在、本願寺の角坊別院(すみのぼうべついん)があります。同別院は、安政4年(1857年)に聖人の600年大遠忌に当たり坊舎を建てられたことに始まると伝えられています。
 境内には聖人の大きな立像があり、また山門には大きな金属製の傘がかけられています。この傘はかつて聖人の像が被っておられたもので、戦時に金属製の聖人の像が供出され傘だけが残されたのだとお聞きしたことがあります。
 この角坊別院に隣接して宗門校の中央仏教学院のキャンパスがあるのですが、バス停から学院に登校するのに別院の境内を通ると近道になる(という申し訳ない理由で)、よく通させていただいていました。また別院の法要に出勤するという経験もさせていただいたことなど、懐かしい思い出の場所でもあります。

(図は、自坊の「御絵伝」の下巻第六段の後半部分、御絵伝の4幅目の下から4番目の図に当たります。)

 画面右部では、聖人の棺をお乗せした輿が進んでいる様子が描かれています。画面左では、ご遺体を火葬している様子が描かれます。どちらの場面でも、多くの人々が聖人を慕い嘆き悲しんでいる姿が描かれています。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)

632.御絵伝に見る親鸞聖人のご生涯 (56):下巻第六段(2)

 
20200420下巻第六段専修寺s20200420下巻第六段専修寺2s

 引き続いて『御伝鈔』の下巻第六段の前半部分を学びます。
 
 今回の図は、伝絵の専修寺本の第六段の部分です。
 前回の自坊の御絵伝には、右に聖人がお弟子さんと話をしておられる「病床説法」、中に聖人のご往生の様子を描いた「洛陽遷化」、左に「入滅葬送」と呼ばれる3つの場面が同じ画面に描かれていました。しかし、今回の伝絵では、「病床説法」の場面は描かれていません。
 思い返してみますと、前回学びました『御伝鈔』にも「病床説法」に関する記述はありませんでした。平松令三氏によりますと、この「病床説法」の場面が伝絵に描かれたのは、覚如上人が晩年に制作された康永本の「親鸞聖人伝絵」(東本願寺蔵)が最初で、それ以降の御絵伝で取り上げられるようになったということです。

 今回の絵には「聖人入滅し給ふところ也」と注記されています。
 そのご往生の場面で屏風の後ろに2人の僧が描かれていますが、この2人の僧は棺を作っています。左の絵では、棺を載せた輿が運び出されているところが描かれていますが、輿から棺が少しはみ出しています。御絵伝の図がいわば少し様式化されているのに対して、この伝絵の図は非常にリアルに実態を描いているように感じられます。

 そういえば、両方の絵では聖人のご往生に立ち会っておられる人の数も違っています。
 今回の伝絵では、聖人の枕元に3人の僧侶、少し離れて4人の僧侶が描かれているだけです。しかし、前回の自坊の御絵伝では、聖人の枕元に2人の僧侶、手前少し離れた位置に11人の僧侶、武士のような姿の人物が3人、それに覚信尼公ではないかとされている女性が一人と合計15人の人々がご往生の場面に描かれています。

 聖人のご往生に立ち会われた方々として、覚信尼公、尋有(じんう)僧都、顕智房、蓮位房などの方の名前が伝わっているそうです。
 そのうち、尋有僧都は親鸞聖人の弟君で天台宗の僧都だった人で、聖人がご往生された場所は尋有僧都の里房(都での住まい)だったとされています。また、顕智房は常陸国での聖人の高弟で、高田専修寺の第三世となった人で、高田と京都を行き来し、三河に念仏の教えを広めた人です。蓮位房は、以前「蓮位夢想」の段にも名前が記されていた方で、関東から京都に帰られた聖人に従って京都に向かわれ、聖人のお世話をされた方です。
 これらの方々やほかの方々を想定して描いた結果、「登場人物」が多くなったのでしょうか。
 
(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)

631.御絵伝に見る親鸞聖人のご生涯 (55):下巻第六段

20200417下巻第六段自坊

 「御絵伝」に戻ってきました。本日から下巻第六段に入ります。
 御文と訳文です。

 「聖人(親鸞)弘長二歳[壬戌(みずのえいぬ)]仲冬(ちゅうとう)下旬の候より、いささか不例の気まします。それよりこのかた、口に世事(せいじ)をまじへず、ただ仏恩(ぶっとん)のふかきことをのぶ。声に余言(よごん)をあらはさず、もつぱら称名たゆることなし。しかうしておなじき第八日[午時(うまのとき)]頭北面西(ずほくめんさい)右脇(うきょう)に臥(ふ)したまひて、つひに念仏の息たえをはりぬ。ときに頽齢(たいれい)九旬(きゅうしゅん)にみちたまふ。」

 「親鸞聖人は、弘長2年(1262年)11月下旬のころから、ちょっとしたご病気になられました。それからというものは、世俗の事は全く口に出さず、ただ仏恩を深く頂戴してきた喜びの言葉だけをおっしゃって、ほかのことは言葉になさらないで、もっぱら念仏を絶えることなく称えておられました。そしてその月の28日正午ごろ、釈尊入滅の行儀にならって、頭を北に、顔は西に、右わき腹を下にして臥したまま、とうとうお念仏の声が絶え、亡くなられたのでした。御歳は90歳でした。」

 本日の段には親鸞聖人のご往生の様子が記されています。
 聖人は、弘長2年の11月28日にご往生されました。ご往生の時刻については御絵伝では午時(正午)とされていますが、他の文書では同じ日の未剋(ひつじのこく)つまり午後2時とするものもあり、こちらの方を記した方が多いのだそうです。平松令三氏は、『御伝鈔』が午時(正午)としておられるのはお釈迦さまが亡くなった時が正午だったのを考慮したのではないかとしておられます。頭北面西のお姿もやはり釈尊ご入滅のお姿を思わせるものです。

 平松氏はもう一つ、『御伝鈔』が聖人のご往生を、「つひに念仏の息たえをはりぬ」とだけ実に淡々と記述しておられる点についても注目しておられます。当時の高僧の死に際しては必ず瑞相(めでたいことの起こるしるし)が現れると信じられていたそうですが、そのような記述もなく、平生業成(へいせいごうじょう)つまり、臨終に往生が決定(けつじょう)するのではなく平生に決定するとされた聖人のみ教えをそのままお示しいただいたご臨終だとされています。

(図は、自坊の御絵伝下巻第六段です。)

 右から3つの場面が描かれています。
 右の場面では火鉢を挟んでお弟子さん方と話をされている親鸞聖人が、中の場面では聖人のご往生が、そして左には棺を輿に載せて荼毘(だび)所に出発する場面が描かれています。

 右の図は「病床説法」と名付けられていて、聖人が火鉢にもたれるようにして説法をしておられる姿、と伝えられています。多くの御絵伝では火鉢にもたれかかっておられる聖人のお姿が描かれているのですが、寺の御絵伝では、聖人は背筋を伸ばしてお元気そうに見えます。
 中の図で縁に座っている女性が描かれていますが、これは聖人の末娘で京都で聖人のお世話をしておられた覚信尼公だと言われています。多くの人々が聖人のご往生を嘆き悲しんでいる様子が描かれています。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)

630.新聞版「壽福寺だより」を発行しました

20200413紙面s    20200413紙面2s

  新聞版「壽福寺だより」の4月号を発行しました。通常は、5月3日の降誕会の1か月前にお送りするのですが、今回は降誕会をお勤めするかどうかの判断に時間を要したことで、発行が遅れました。

 今月号の紙面は次の通りです。

 〇1面
  「春の永代経法要を休座しました」
   通常、1面の最初の記事は春の法要のご報告となるのですが、今年は休座しましたのでこのご報告となりました。

  「仏教婦人会幹部会を開催しました」
   寺の婦人会の幹部会の報告と2019年度の会計報告を掲載しました

  「宇部北組の組長の大任を仰せつかりました」
   住職が組長に就任したことのご報告です

  「降誕会法要を中止します」
   通常は、降誕会のご連絡なのですが、今回は中止のご連絡となりました

 〇2面
  「前坊守が亡くなりました」
   母の還浄のご報告と、お礼です

  「新型コロナウイルスの影響が広がっています」
   ウイルス感染の拡大に伴う、寺、宇部北組、山口教区の対応等についてご連絡しています

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)
 

629.最近の話題(46):慌ただしい日々が続きました


DSC_0732 (1)s DSC_0730 (1)s

  2月20日に母が亡くなってから50日が経過しました。
 一般に四十九日法要と呼ばれている「満中陰法要」を4月8日にお勤めしました。新型コロナウイルス感染の拡大で、遠隔の地からお参りいただくのは難しく、近くの方にはお年をとられた方が多くてこちらもお参りいただくのが難しいという状況でのお勤めとなりましたが、西念寺さんの福川ご住職の導師によりお勤めをすることができました。

 この間、ご門徒さんのお宅でのご葬儀も続いてその七日勤めもあり、新年度から組長に就任したことによる打合せが入り、と慌ただしい50日間となりました。

 この七日勤めというのは、ご葬儀の後に初七日から6七日まで、七日ごとにお勤めをするもので、その七回目が四十九日(満中陰)ということになります。
 この七日ごとのお勤めはご遺族とご一緒にご家庭のお仏壇でお勤めをします。私は、そのご縁にみ教えを少しずつお伝えしたいと思い、短時間ですが連続講義のようにお話をさせていただいています。
 そのようなことで、午前と午後とに七日勤めの予定が入るというようなスケジュールになっております。 

 組長についてはすでにこのブログでも引継ぎなどについてご紹介しましたが、その業務の一端が見えてきたように思います。
 組長の業務の一つに本山や山口教区の教務所との関わりで行うものがあります。送られてきた調査に回答する、組の他のお寺さんに通知を周知するなどの業務があり、様々な届(各寺院から本山や教務所に提出するものです)について組長として承認する旨の記名、捺印をするという仕事もあります。このような事務的な仕事も結構多いようです。

 宇部北組の中には、仏教婦人会や総代会などの活動組織(「教化団体」と呼んでいます)があります。それぞれの会合に組長として出席することがあるのですが、年度の始めにあたるこの時期には特にそういった会合が多くなりそうです。その上に、新型コロナウイルスの問題が発生していますので、それへの対応をどうするか、という課題が加わったということになります。
 4月7日に開催された総代会の役員会で総会・研修会の開催について検討したのですが、やはりウイルス問題を考慮して開催方法を従来のやり方から変えよう、という結論になりました。
 5月に開催する初組会(組の活動報告、決算、活動計画、予算を審議する重要な会議です)についても、そもそも開催するのか、開催するとして開催方法、開催場所などを従来とは変える必要があるだろうということで、今後検討することになっています。

 寺の方では、5月3日に予定しておりました降誕会法要は中止することとしました。そのことも含めてご連絡するために新聞「壽福寺だより」の4月号を少し遅れていますが発行することにしております。毎回、前回の法座の様子をご紹介する記事を1面に掲載しておりましが、3月の春季永代経法要も中止しておりますので、紙面の構成が従来とは違うものになりそうで、工夫が必要となります。

 そんなことで、母の逝去に伴う様々な手続きもとりかかったままになっているものもあり、これから進めることになります。市役所などで手続きをしたのですが、いろんな書類を提出することを求められるということを改めて知りました。窓口の担当の方は親切に教えてくれるのですが、とにかく手間がかかるものです。このような経験をされたご門徒さんからその様子をお聞きすることがあったのですが、「なるほどこのことだったのか」と納得することも多くあるという状況です。

 と、とりとめのない記事になりましたが、近況です。

(写真は、山口市一の坂川(左)と美祢市厚狭川畔のサクラです)

 今年は、ゆっくりとサクラを楽しむ余裕もなく、たまたま立ち寄った一の坂川と厚狭川の写真です。いつもはごった返しているのでしょうが、今年は人出も少ないように思われました。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)

628.2020年度第1回協議会が開催されました

20200406スイセン 20200406スイセン2 20200406スイセン3

  4月3日、壽福寺を会場に宇部北組の2020年度第1回の協議会を開催しました。宇部北組の組長を拝命してから実質的に最初の会合ということになります。

 この協議会といいますのは、組長、副組長(2名)、教区会議員(僧侶1名、門徒1名)の合計5名が協議員として参加する組織で、次の事項を行うものと定められています。(宇部北組規約第14条)
 1.組会の議決を経て委任された事項
 2.総局及び教務所長の指令による事項
 3.その他組長の提案する事項
 通常は、組会(組内の決議機関です)に提案する議案について協議する機能を果たしています。

 今回の協議会は2019年度の最後の協議会で未定となっていた事項についても協議をすることになっており、新旧の協議員合計6名で実施、次の事項について協議を行いました。
 1.2020年度宇部北組「組織図」の確認
  未定だった「御同朋の社会をめざす運動」委員に福川健三氏(西念寺)が就任されることになりました
 2.2019年度会計報告概要
  会計担当副組長より概要を報告しました
 3.2020年度会計予算方針
  会計担当副組長より報告しました。コロナウイルス感染拡大により中止となった花フェスを来年度も実施することとし、その予算措置を組み込んだものにしました。
 4.初組会までのスケジュール
  概要、次のステップで進めることとしました。
  教区組長会(4月28日)→協議会(5月上旬)→法中会(5月中旬)→初組会(5月下旬)

 その後、コロナウイルス感染の拡大について情報交換を行いました。
 3月中の法座はほとんど全てが中止になり、4月中に予定されている法座も中止されるものが多くなっているという情報がありました。宇部北組として具体的に影響を受けるものとしては、上記の初組会の開催や教化団体の行事などがありますが、状況の変化をよく見ておきたいと思っております。

 壽福寺としては、5月3日に予定している降誕会を予定通りお勤めするのか、ということも近々判断する必要があります。

(写真は、昨日の寺の境内のスイセンです。周りの元気な草に負けずけなげに咲いています)

 今回のような記事の場合どのような写真にするのか迷うところですが、季節を感じさせるものがいいな、とこの写真にしました。
 左はラッパスイセン、中はキズイセン、右はスプリットコロナスイセン(?)と呼ばれる品種のようです。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)

627.新年度が始まりました

 
 DSC_0707 (1)

 4月1日より新しい年度、2020(令和2)年度が始まりました。一般の企業と同じく、浄土真宗本願寺派も4月1日から始まる「年度」制をとっています。
 ことしの新年度は、もう一つ私が宇部北組(うべきたそ)の組長(そちょう)を担当させていただく新年度でもあります。

 この組といいますのは山口教区(範囲は山口県と一致します)内の寺院(629か寺あります)を地域的に分けるもので、33の組があります。そのうちの一つが宇部北組で、17か寺で構成されています。

 組には次の役員を置くことになっていて、特に定めるもの以外は僧侶の組会議員が互選することとされています。
  組長(1名)
  副組長(2名)
  教区会議員(2名:僧侶、門徒各1名)
  協議員(5名:組長、副組長、教区会議員)
  監事(2名:僧侶、門徒各1名)
 この選挙は去る3月12日に開催された臨時組会で実施され、そこで組長に選出されました。

 組長は、次の職務を担当することになっています。(宇部北組規約第11条)
 ・本山、山口教務所及び関係機関との連絡調整並びに渉外的な事項を処理すること
 ・組会、協議員会及び法中会の決議を要する事項については、その議案を提出しその議決を執行すること
 ・収入及び支出を命令すること
 ・本会の公文書を保管すること
 ・組会、協議員会及び法中会を招集すること
 ・その他上記に準ずる事項

 3月31日に前組長の市川幸佛氏より業務引継を受けました。その中で、「宗門法規集」、「組長事務必携」、宇部北組に関わる資料とその説明をいただき、組長公印、組長輪袈裟を受領しました。

 現在の宇部北組は、2012(平成24)年に実施された組画変更により旧宇部北組と旧厚狭北組(壽福寺はこちらの組に属していました)が合併して成立した組です。合併当時の福川健三氏、そして2代目の市川幸佛氏の後を継いで組長に就任させていただいたことになります。
 福川氏は合併後の4年間で合併に伴う調整と一体感醸成に努められ、市川氏は「花まつり」などの新しい行事をスタートされました。上記のように組長にはたくさんの機能が期待されています。お二人の前任者の作られた組を引き継いでいきたいと思っておりますので、ご支援とご助言をいただきますようお願いいたします。

(写真は、市川氏から引き継いだ資料です。)

 左の「宗門法規集」(分厚いのに驚きました)や冊子、そのほかの資料などなかなか「重い」引継ぎ資料でした。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください) 

カウンター
カテゴリ
検索フォーム
リンク
最新記事
最新コメント
月別アーカイブ
最新トラックバック
RSSリンクの表示
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR