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626.御絵伝に見る親鸞聖人のご生涯 (54):下巻補(8)

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  今回は、親鸞聖人が京都に帰られてからのことで、聖人が著された著書に関することです。
 以前記しましたように『御伝鈔』にはもっとも重要な著書である『教行信証』についての記述もなく、ほかの著書についても同様に触れられていませんが、今回は聖人が京都に帰られて以降に著された著書について概要を学びたいと思います。

 『教行信証』については、関東在住時代にその草稿本が成立し、聖人はその後校正を繰り返されたとされていますが、聖人は京都に帰られて以降に多くの書を著されました。
 『浄土真宗聖典(註釈版)』の巻末に置かれている年表によって、聖人の著書とその著作時期を整理しますと、次のようになります。
 法治2年(1248年)(聖人76歳)『浄土和讃』『浄土高僧和讃』
 建長2年(1250年)(聖人78歳)『唯信鈔文意』
 建長4年(1252年)(聖人80歳)『浄土文類聚鈔』『入出二門偈頌』
 建長7年(1255年)(聖人83歳)『尊号真像銘文』『浄土三経往生文類』『愚禿鈔』『皇太子聖徳奉讃・75首』
 康元元年(1256年)(聖人84歳)『往相回向還相回向文類』
 正嘉元年(1257年)(聖人85歳)『一念多念文意』『大日本国粟散王聖徳太子奉讃・114首』
 正嘉2年(1258年)(聖人86歳)『正像末法和讃』
 文応元年(1260年)(聖人88歳)『正像末和讃』を補訂

 前回に学びましたように、聖人が火災に遭われたのが1255年、ご子息の慈信房(善鸞)を義絶されたのが翌年の1256年ですので、この前後に多くの大切な書を著されていることが分かります。
 この時期と言いますと聖人はすでに80歳を超えておられ、その上二つのご苦難の前後です。私自身と比較するなどはおこがましいのですが、私はまだこのまとめにでる以前の年齢なのですが、このような精力的といいますかものすごいエネルギーをもってことに当たることなどできないのではないか、などと弱音を吐いてしまいそうです。

 この他に、年表を見てみますと、多くの書を書写されたことが分かります。
 書写されたものの中では、聖覚法印が著した『唯信鈔』を何度も書写されたことが分かります。この『唯信鈔』を読むように勧められたご消息(お手紙)が残されており、書写されたものを門弟に与えられたと思われます。
 また、聖人ご自身も『唯信鈔文意』を著されて『唯信鈔』の意義を明らかにされていることからも、聖人が『唯信鈔』を大切にしておられたことが窺えます。

 このように、親鸞聖人は80歳を超えてなお、ご自身のお考えを伝えたいと書を著され、一般の人々にも理解してもらいたいと和語による和讃を作られ、多くの書写本を門弟に与えられました。このような聖人のご尽力のおかげで、現在の私たちに浄土のみ教えが伝わっていただいているということを実感し、改めてお礼申し上げたいと思います。
 と言っておりますが、私自身は、上記のご著書の多くはまだ開いたこともないものでもあります。これから少しづつでも学びたいと思っております。
 
(写真は、3月25日に秋吉台で出会ったオキナグサの花です。)

 当日は、展望台から長者が森までの往復を歩いたのですが、途中3か所で、それぞれ1株づつでしたがこのオキナグサの花を見ることができました。(写真の株は、気づかずに踏まれないようにと、小さな石で囲ってありました)
 2月23日に山焼きが行われましたので、約1カ月で芽を出して花を咲かせるまでになったということになります。その生命力にも感心させられます。
 昨年出会ったのは1か所だけだったので今年は増えた形になっていますが、オキナグサは近年自生している個体数が減っており、環境省のレッドリストで絶滅が危惧される植物に指定されています。個体を減らしている原因のひとつが盗掘なのだそうです。掘り取って持ち帰ってもまずうまく育たないということですが、それでもなくならないのだそうで、残念なことです。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)

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625.御絵伝に見る親鸞聖人のご生涯 (53):下巻補(7)

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  引き続き親鸞聖人のご生涯について学びます。今回も『御伝鈔』には記述がないものですが、「善鸞義絶」と呼ばれ、親鸞聖人がご子息の善鸞(慈信房)を義絶(親子の関係を絶つことです)された出来事です。

 法然聖人が開かれ親鸞聖人も帰依された浄土教のみ教えは、それまでの伝統的な聖道門、自力の仏教とは違うとするところにその基礎を持ち、古くから伝えられた習俗や慣習とも違うものとして広まっていきました。
 そのようなこともあって、教団の内部には教えに対する理解の違いが存在し、時にそれが表面化し激しく対立するような事態が生じます。また教団の外からは在来の習俗や「信仰」を軽んじているという非難を何度も受けることになります。

 教団内部の抗争としては「一念多念(いちねんたねん)」の論争が法然聖人の時代から争われ、その後も尾を引いていたとされています。また、教団の外から非難攻撃の的となったのは、「増悪無碍(ぞうあくむげ)」「神仏軽侮(しんぶつけいぶ)」と呼ばれる考えや行動がありました。
 この「増悪無碍」は「悪事を犯しても浄土往生のさまたげにならない」として、あえて反道徳的な行動をする立場であり、「神仏軽侮」は従来の習俗である神祇を否定し、伝統的な仏教を軽んじる行動をいいます。これらの行動が在来の仏教や時の権力者の反発を呼び起こし、教団に対する弾圧の原因となりました。

 赤松俊秀氏の『人物叢書 親鸞』によれば、この争いが改めて激しくなったのは建長3年(1251年)頃ではないか、とされています。聖人が関東を離れられてから十数年が経過した時期です。親鸞聖人は、これらの教団内の争いや教団外からの非難を受ける行動に対して、それは誤りであり改めるように諫めるご消息(お手紙)を何度も関東の門弟に書き送られています。
 聖人のこのようなご努力にもかかわらず、争いは激しくなり、また外部からの教団に対する非難、攻撃も激しくなっていたことがこの善鸞義絶事件の背景にあると思われます。 

 混乱する関東の教団に対して、親鸞聖人はそれを収めようとご子息の善鸞(慈信房)を派遣されました。
 彼についてはよく分からないところが多いようですが、赤松氏によれば、京都の親鸞聖人のおそばにいてその当時50歳になるかならないか、という年齢だったのではないか、とされています。

 彼は関東に赴き、事態の収拾に当たります。しかしその過程で、関東の各地に道場を構えていた門弟である道場主と対立することになったようです。その対立の中で、彼は、自分は父聖人から夜に密かに伝えられた教えをいただいているので自分の教えの方が正しいのだと主張し、自分の周りに信者を集めようとしたと伝えられています。
 このような彼の動きは門弟たちから京都におられる親鸞聖人にも伝えられました。彼の主張するところはその後過激になり、父聖人や母恵信尼公を非難し、ついにはみ教えを謗るまでになりました。当初、関東の状況を十分に把握されておられなかった聖人も、このような事態を前にして、非は明らかに慈信房の方にあると判断されることになりました。

 建長8年(1256年)5月29日付けのご消息(「慈信房義絶状」とも呼ばれています)が残されています。
 この中で聖人は、慈信房が行った非業を挙げ、次のように記されて本人と門弟方に親子の縁を切ることを伝えられました。
 「このことどもつたへきくこと、あさましさもうすかぎりなれば、いまは親といふことあるべからず、子とおもふことおもいきりたり。三宝・神明に申しきりをはりぬ。かなしきことなり。」
 慈信房の行いを憤り、親子の縁を切らざるを得なくなったことを深く悲しんでおられることが伝わってくるご文です。

 また、この「慈信房義絶状」の最後の部分に、聖人は次のように記されています。
 「親鸞がをしへにて、常陸の念仏申す人々を損ぜよと慈信房にをしへたると鎌倉まできこえんこと、あさましあさまし。」
 聖人は、「私が関東の念仏者を害するようにと慈信房に教示したかのように鎌倉幕府にまで伝わったとのこと、ひどいことで嘆かわしいことだ」とされています。このことから、今回の争いが(多分慈信房サイドから)幕府に持ち込まれことが窺え、聖人はそのように教団内の争いが時の権力者に持ち込まれて、それをきっかけに教団が介入を受けることの問題を指摘しておられるのだと思います。
 実は、この善鸞義絶事件の前にも教団内に対立が生じて、その一方が幕府に訴え出るという事件があったようです。この時も、幕府に訴えた異議(誤った教説)派の訴えは退けられたようですが、教団内の問題を時の権力者に訴えるということが行われるようになったということなのでしょうか。今回の事件で、時の権力者とのかかわり方も聖人のお悩みの一つだったのではないかと思われます。

 建長8年5月といえば、前年の12月に火災に遭われた半年後になります。慈信房を関東に派遣された時期はよく分からないのですが、義絶に至るまでの様々なご苦悩の中での火災遭遇だったということになります。

 (図は、2月20日付けの『本願寺新報』に掲載された「ここに注目!読み解き親鸞聖人ご絵伝」です)

 このシリーズはちょうど2年前の4月に連載が始まったもので、この第64回で完了となりました。このブログではその7月から御絵伝を学び始めて、追いついたりまた離されたりしながら各段を学んできました。

 以前にもご紹介しましたが、シリーズを執筆された本願寺史料研究所研究員の岡村喜史氏は、私が中央仏教学院で学んでおりました時の「真宗史」のご担当でした。温厚なお人柄の先生とその授業の様子を思い出しながらシリーズを読ませていただき、また参考にさせていただきました。お礼申し上げます。

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624.御絵伝に見る親鸞聖人のご生涯 (52):下巻補(6)

20200323西念寺       20200323恵信尼公像

 今回は、京都での親鸞聖人のご様子、お住いのことです。

 以前このブログでもご紹介しましたように、聖人のお住まいについて『御伝鈔』では「都でのお住居(すまい)も、一処に定住するのも好まず、あるときは右京に、またあるときは左京にと、あちらこちらへお住居を移されました。その中では五条西洞院のあたりが気に入ったとのことで、しばらくそこに落ちついておられました。」(訳は平松令三氏によります)と記されていました。

 その後の聖人のお住いのことは『御伝鈔』にも記されておらず、ご臨終を迎えられた場所が「押小路の南、万里小路より東」であったとだけ記されています。

 『御伝鈔』には記されていないのですが、その間に聖人は火災に遭われたことが伝えられています。建長7年(1255年)の12月、聖人83歳のときだとされています。
 聖人ご自身がこの火災について記されたお便りが高田派の専修寺に残されていて、聖人は「この十日の夜、せうまうにあうて候ふ。」と記されています。12月15日付けのお便りですから、「12月10日にせうまう(焼亡:火災)に遭った」とされているものの、これだけでは何年の12月なのかはわかりません。
 ところが、奥様の恵信尼公(越後に戻っておられます)が末娘の覚信尼公(親鸞聖人とともに京都におられます)に送られた書状が西本願寺に残されていて、先に与えた「譲状(ゆずりじょう)」を火事で焼いたと聞いたから再発行する、ということが記されているのだそうです。この恵信尼公の書状が建長8年9月15日付けだということで、聖人が火災に遭われた12月は建長7年のことだとされることになったということです。

 このように、聖人は83歳の晩年になって、火災に遭い住居を移さなければならないというご辛苦を体験されることになりました。

 今回の出来事は聖人がご苦労されているところで申し訳ないと思いながらも、複数の古文書を突き合わせて歴史を解読する面白さも感じながら読んでおりました。
 また、前回恵信尼公は親鸞聖人とご一緒に京都に向かわれ、その後建長8年(1256年)までには越後に戻られた、としていましたが、それもこの建長8年付けの書状が根拠になっているようです。

(写真は、茨城県笠間市の西念寺本堂と同寺に安置されている恵信尼公のお像です)
 
 以前にもご紹介しましたように、西念寺は聖人が常陸国に庵を結ばれた稲田の地に建立されたお寺です。
 お寺の内陣の中央には阿弥陀如来立像、向かって右には親鸞聖人御影像が安置されていてこの配置は浄土真宗の寺院と変わりがありません。ただ、向かって左には写真の恵信尼公の御影像が安置されているということで、この点が違っています。
 これは、親鸞聖人を支えられた恵信尼公に対する関東の門信徒の尊崇の思いが厚かったことを示している、とされています。

623.御絵伝に見る親鸞聖人のご生涯(51):下巻補(5)

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 約1カ月ぶりに御絵伝に戻ってきました。
  関東でお弟子さんだった平太郎さんが熊野に詣でることになった逸話について記された、下巻第五段「熊野霊告」は前回で終わりました。御絵伝ではこの次の第六段は「洛陽遷化」と呼ばれ、親鸞聖人のご往生について記されます。

 今回は、聖人がご往生を迎えられるまでの間のことについて学びたいと思います。
 覚如上人の『御伝鈔』には記されていないことになるのですが、最初は、聖人のご家族に関することです。このブログでも時々恵信尼公のことが出てきましたが、聖人のご家族については『御伝鈔』でも記述がなかったこともあって、余り触れることがありませんでした。

 一部は以前の記事と重複する部分もありますが、赤松俊秀氏の『人物叢書 親鸞』によって聖人のご家族に関する記述を整理してみます。

 赤松氏は、親鸞聖人は元久2年(1205年)33歳のときに京都で恵信尼公と結婚されたとされます。聖人が法然聖人の許を訪ねられたのが1201年ですから、その4年後ということになります。1205年はまた、親鸞聖人が法然聖人から『選択集』の書写を許された年でもあります。
 親鸞聖人は二度結婚されたとする説もあったのだそうですが、赤松氏は、それは資料の誤読などによるものだと否定しておられます。
 恵信尼公の父上は、三善為教という下級官人で、越後国にも関わりのある役職についていた人のようです。このことは、親鸞聖人の配流先が越後国にされたことや、さらには後に恵信尼公が晩年を越後国で過ごされることになったこととも関連しているとされています。

 お二人の間にお子様は6人おられました。
 承元5年(1211年)越後国で第3子に当たる信蓮房明信が誕生されました(そのことは『恵信尼消息』と呼ばれている恵信尼公のお手紙に記されているということです)が、それ以前に京都で小黒女房、善鸞の1女1男がおられたようです。その後、益方有房、高野禅尼、覚信尼の3方が生まれられ6子となります。
 約20年の関東生活の後に聖人は京都へ戻られます。聖人が京都に戻られたのは60歳から62,63歳の頃、1233年から1236年の頃だったのではないかとされていますが、それよりも早く1230年までには京都へ帰っておられたとする説もあります。

 その際に、このご家族はどうされたのか、という点についても見解が分かれているようです。
 関東での生活を切り上げられる際に、恵信尼公は聖人と別れてゆかりのある越後に帰られたとする説もあり、公は聖人とご一緒に京都へ戻られたとする説もあるようです。これについて、赤松氏は関東から京都へはご一家で帰られたとする立場をとっておられます。
 聖人と一緒に京都に帰られた恵信尼公は、その後建長8年(1256年)までには、聖人と別れて越後国に移られたとされています。これは越後国にあった実家の三善氏の所領を管理することが必要となったためではないか、とされています。
 こうして、恵信尼公は越後国で小黒女房、信蓮房、益方有房の3方と生活をされ、一方末娘の覚信尼公は京都に残られて晩年の親鸞聖人のお世話をされることになりました。

 第2子に当たる善鸞さんについては、晩年の親鸞聖人を悩ませる事件を起こした人物として伝えられていますが、その経緯につきましては次回以降で学びたいと思います。

(写真は、西本願寺本の御絵伝、「熊野霊告」です)

 これまで見てきましたこの場面でも、奥に聖人と熊野権現、手前に眠っている平太郎さんが描かれていました。今回の絵ではその中間の部分に特に多くのスペースを割かれていれ、まるで、中間の人々が主人公のように思える程です。なにか意図があってそういう構図になったのでしょうか、分からないところです。

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622.最近の話題(45):新型コロナウイルス

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  連日報道されていますように、新型コロナウイルスの感染拡大に歯止めがかかりません。
 壽福寺は春季永代経法要を休座し、前回ご報告しましたように4月11日に予定して準備を進めていました宇部北組の「花フェス2020」も中止となるなど、影響が具体的に身近なものになりつつあります。周辺でも、飲食店のお客さんが激減したというお話や、イベントがすべて中止になり音響関連の仕事がなくなった、というような情報をお聞きしています。

 また、3月2日から始まった「休校」も様々な影響を生じているようです。私のところは子供も大きくなっていますので、テレビなどからの情報なのですが、仕事を持っておられるお母さんのご苦労は大変なものだと実感させられています。
 仕事を持っておられないお母さんも、いつもはいない子供さんと一日一緒に暮らすわけですから、これも「ストレスになる」と取材に対して言っていた方もおられました。子供さんと一緒にいて相手をしなければならない、食事の準備もある、家事も当然ある、これが「ストレス」だというのも、分からないこともないなと思いながら聞いていました。
 このような状況で、おじいちゃん、おばあちゃんが「出番がきた」と張り切っている姿、お父さんも「ここはいっちょう頑張ろう」としている様子など、これまででは見られなかったような場面も報じられていました。

 ふと思いましたのは、もし私が小学生の児童を持つ父親だったら、このような時にどういう行動をとっただろうか、ということです。会社を休んででも子供相手の手伝いをしていただろうか、あるいはいつも通りの生活を続けていただろうか、と考えてみるのですが、どうやら後者の方になったように思われます。
 当時は、毎晩のように「仕事だから」と言い訳をしながら飲んで、終末もゴルフだ山歩きだ、とあまり家にはおりませんでした。そのような状況でしたが、「ここはいっちょう日ごろの悪評を挽回しよう」とまではいかなかったように思います。「男親が必要になるのは子供が大きくなってからだ」などとうそぶいて(言い訳して)いた頃です。

 しかし、ここでもう一つ思い浮かべましたのが、先日ご紹介しました『妻のトリセツ』です。
 著者の黒川伊保子さんは「出産から育児期にかけて『満身創痍状態』の」奥さんが感じている「ストレス」と、それを感じとることができない男性脳による行動、が後々まで尾を引く「地雷」になる、と書いておられます。「なるほど、このことか」。私はことあるごとに地雷をまき散らしていたようです。

 再掲しますが、同書の帯に次の「読者からの声」が紹介されていました。
 「ただいま”座右の書”として活躍中。でも30年前に本書に出会えていればよかった」・・男性60歳代
 今回の新型ウイルスはいろいろなことを思い出させ、考えさせてくれます。

(写真は、前回もご紹介した秋吉台の風景です。)

 秋吉台は山焼きから約半月、まだ「焼け跡」状態でしたが、快晴のもと歩くことができて気持ちのよい汗をかくことができました。
 今回の「休校」要請でも、子供さんと家の中で過ごすことだけを考えず、外に出るのもいいのではないかと思います。近くのお寺(!)や文化財を訪ねたり、一緒につくったお握りを持って山歩きなどすれば、ストレスをためるのではなく解消する方に利用できるのではないかと思います。

 「休校で生じた時間をスマホゲームではなくて読書に向けてはどうでしょうか」と書いた記事もありました。その通りだと私も思うのですが、図書館は先頭を切って閉館となっているようです。本の貸し出しだけでもできないのかなあ、と思います。

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621.臨時組会が開催されました

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  昨日3月12日に宝林寺さんで宇部北組の臨時組会が開催されました。
 今年度は、任期4年の組長および教区会議員の改選期に当たります。それに対応するために、新年度の始まる4月1日に先立って、臨時に組会を開催しこれらの改選を行いました。

 議題は次の通りでした。

1.組長改選
 向こう4年間、私が組長(そちょう:「くみちょう」ではありません)を担当させていただくこととなりました。
 僧侶、住職としての経験も短く、不安ばかりですが、皆さんのお力添えをいただいて頑張りたいと思っております。

2.教区会議員改選
 僧侶は前組長の市川幸佛氏(宝林寺)、ご門徒は新総代会会長の藤本一規氏(常光寺総代)を選任しました。

3.副組長任命
 副組長は組長の推薦にもとづき本山が任命するもので、次の2名の方にお願いすることとなりました。
 副組長(会計担当):安藤良樹氏(光林寺)、副組長:山名学道氏(明山寺)

4.新年度組織と担当
 組長、副組長以外の役員、教化団体の担当者は次の通りとなりました。
  協議員(5名):組長、副組長(2名)、教区会議員(2名)
  監事:僧侶 福川健三氏(西念寺)、門徒 本田俊雄氏(西教寺:同寺の新責任総代が選任されるまで暫定就任)
  総代会:石井良祐氏(常光寺)
  仏教婦人会:福川健三氏(西念寺)
  坊守会:石井ゆかり氏(常光寺坊守)
  若僧会:石井良祐氏(常光寺)
  子供会:津室智山氏(養福寺)
  連続研修会:山本敬氏(正善寺)
  護持口数調整委員:西岡芳之氏(西教寺)
 なお、「御同朋の社会をめざす運動」委員は4月1日までに人選することとなりました。

5.新型コロナウイルスの対応として「花フェス」開催の是非
 4月11日に予定していました「花フェス2020」は中止することになりました。
 次回(2021年春)の「花フェス」については、今回企画した内容をベースに開催を検討し、10月に発行予定の「組報」に記事を掲載できるよう準備を行うこととしました。

6.「花フェス2020」のための既支出分の会計処理について
 パンフレット印刷など既に実施したものの経費は、2019年度の「実践運動」の費用として処理することとなりました。

(写真は、記事とは関係がないのですが秋吉台の「帰り水」です)

 3月11日、好天に誘われて久しぶりに秋吉台を歩いてきました。長者が森駐車場からこの「帰り水」を経由して真名が岳のふもとの展望ベンチ、ここで昼食(コンビニのサンドイッチと持参のコーヒー)の後、長者が森駐車場に帰ってきました。
 この「帰り水」は、地下の水の流れがドリーネ(カルスト台地の窪地)の底の部分で地表に現れまたすぐ地下に消えている現象をいいます。この「帰り水」に3月9日夜以降に降った強い雨が地下に吸収されずに溜まった結果、当日は一時的に池のようになっていました。
 新聞では「秋吉台、『一時湖』が出現」という見出しで報じられていました。11日に私が見た「池」よりもさらに広い「湖」になっていたようです。

 左の写真は11日の「帰り水」の様子、右は通常の様子です。比較するものがなくて分かりにくいのですが、通常は地表に数メートルだけ流れが現れているのですが、11日にはご覧のような広さで流れていました。

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620.春季永代経法要を休座しました


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  新型コロナウイルスの感染が広がっていることを考慮して、3月7日に予定していました春の永代経法要を休座(中止)しました。過敏に反応することはよくないと思いながらも、影響がどのように出てくるのか判断できないという状況でしたので、中止の決定をしました。
 総代さんには、ご門徒さんへの連絡にご協力いただきました。ありがとうございました。

 先日久しぶりに下関に行ったのですが、いつも賑わいを見せている唐戸周辺も人通りが少なく、ひっそりとしているという感じでした。山口県で初めて感染者が確認された日の翌日で、昼食をとった飲食店でもすでに来客が急減しているというお話でした。このように経済活動に対する影響が出始めており、これからさらに深刻なものになっていくのではないか、という思いを強くしました。

 またまた週刊文春の「阿川佐和子のこの人に会いたい」ですが、そのスペシャル版(「教えて福岡ハカセ」)で福岡伸一氏が言っておられた内容をご紹介します。

 氏によれば、私たちは通常も体内にたくさんのウイルスや雑菌を持って生活しているのだそうです。その中には、通常のインフルエンザウイルスもあれば、ひょっとしたらコロナウイルスも混じっているかもしれない、と言っておられます。ウイルスを持っていても、症状が出ずに治ってしまう人がほとんどなのだそうです。
 ただ、今回の新型コロナウイルスへの感染が急速に拡大したのは、もともと動物の体内にあったウイルスが、人の活動範囲が広がって動物のウイルスに接触する機会が増えたことによる、つまり人間の活動の結果それが起きたと考えるのが正しいということなのだそうです。

 で、新型コロナウイルスの今後ですが、氏は「私がこの新型コロナウイルスについて予言できるとすれば、数年後はインフルエンザのような日常的な病気になるということでしょうね。」と言われ、現在の一般的なインフルエンザと同じような病気になるのだとされます。
 厚生労働省のHPの情報によれば、現在の「一般的なインフルエンザ(季節性インフルエンザと呼ばれているようです)」の例年の感染者は国内で約1,000万人と推定されていて、2000年以降の死因別件数では214人(2001年)から1,818人(2005年)の間だったということです。また、直接的にあるいは間接的にインフルエンザの流行により生じた死亡件数は日本で約1万人だとされているということです。感染者1,000万人、死亡者1,818人ということになれば大ニュースになりそうですが、こちらの方は日常の出来事になっています。

 このようなことから見ると、新型コロナウイルスの流行に対しては、初期の爆発的な感染の拡大を抑えることが重要だということになりそうです。そうすれば、氏が言われるように「予防注射が打てるようになったり、ウイルスの増殖を抑制するような薬も開発されるでしょう」と、一般的なインフルエンザと同じように対応できるということになりそうです。

 私たちのできる対応としては、氏は「できるだけ自分の免疫システムを信じるのがいいですよ。」と、自身の免疫力を落とさないことが重要だと言われます。
 TVのニュースショーが元気よく「新型コロナウイルス対策は、ウイルスに効く食べ物は、マスクが、トイレットペーパーが・・・」とやっていますが、過剰に反応せずに、睡眠をとって、心穏やかに過ごすことが一番の対策のようです。

 ついでに、福岡ハカセは現代の「清潔志向」「除菌ブーム」にも問題があると言われます。
 私たちの体の中にはありとあらゆる雑菌やウイルスが棲みついているのだけれど、それは外敵でもなければ寄生体でもなく、長い過程で折り合いがついた共生者なのだから、それを無理やり一方的に駆除すると未知の悪者が来てしまう、という結果になりかねない、ということでした。雑菌と共生できることが大事ということだと理解しました。

(写真は、今回の法座中止をお知らせする掲示です)
 
 石段の周辺もまだ「冬模様」です。

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619.母が亡くなりました(2)

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  母の葬儀が終わってから2週間が経過しました。その間に2人のご門徒さんが亡くなり葬儀をお勤めしたこともあって、バタバタとしてあっという間だったように感じています。
 これまでもご門徒さんのお宅でお別れのお勤めしてきましたが、気づいてみると実質的に自身が喪主となった葬儀は初めてでした。30年以上前に父が亡くなった時も喪主は私になっていましたが、寺から離れていたこともあって内容にはほとんどタッチせずに任せきりの葬儀でした。
 ご門徒さんはこのようなことについても悩みながら判断されていたのだ、と今回初めて気づいたこともありました。

 その中の一つは、「終末医療」に関わることです。

 母はもともと心不全で心臓が肥大するという症状を持っていましたが、昨年11月末に、日ごろからお世話になっていたかかりつけの医師の勧めで総合病院に入院することになりました。
 入院してしばらくして食が細り、ほとんど食べ物を受けつけなくなりました。そのような状況で、担当の医師から以後の治療方針について説明を受けました。
 食事ができていない現状では必要な栄養が摂取できないので、今後の治療方法として、胃に管を挿入して栄養を与える、鼠径部の血管に点滴をして栄養を与える、現状の点滴(これには栄養分を与える効果はないのだそうです)を続けて様子を見る、の3つが考えられる。どれを選択するかご家族で検討してもらいたい、ということでした。

 食事ができていない母は、一気にやつれたように見えていました。この医師の説明を聞いて、鼠径部の血管への点滴で栄養を与える方法を選択したいと医師に回答しました。医師の意見もその方法がよいと思う、ということでもあり、「そうすれば元気になられますよ」という言葉も後押しをしていたように思います。また、胃に管を通して栄養を補給すること(胃に直接栄養を送る胃ろうという療法に近いイメージがありました)に比べて点滴の方が穏やかな療法のように思えたこともその判断の背景にあったように思います。

 母は血液の凝固を防ぐ治療も行っていましたので、鼠径部の血管に点滴を行うためには出血を防止するための予備の処置が必要だということで、点滴のための処置は翌週に行うことになりました。
 医師にその意思を伝えた後に、この判断が本当によかったのだろうか、という思いが起こりました。点滴で栄養を与えて「元気に」なったとしてもそれは点滴で維持されている「元気」であって、心臓を始めとする病気が治癒するわけではありません。このような治療を母は望んでいるのだろうか、母を苦しめることを長引かせるだけではないだろうか、という思いが強くなっていきました。母の意思とは関わりなく「元気な」姿を見たいと思っているのは私たちの勝手な願望ではないかという思いです。

 30数年前に父はがんで亡くなりました。病状が悪化したときに、人工呼吸器をつけることもできるという提案が医師からあったという話を思い出しました。直接聞いたわけではないのですが、母はそれを断ったということでした。母は父のがんをなんとかできないかと、治療についてあちらこちらに尋ねて回っていたということも聞いていました。苦しい呼吸をしている父を前にして、人工呼吸器はいらない、と判断した母です。今回自分についても「もう食べたくない、もうこれでいい」と言っていた母ですから、点滴で「元気になる」ことは望んでいないのではないかと思いました。
 
 鼠径部への点滴を依頼してから2日後に再度医師に時間をとってもらって、鼠径部への点滴は行わずに現状の点滴のみでお願いしたいと話をしました。医師からは、現状の点滴だけでは栄養失調となるが、食欲が回復することを期待して消化薬を変えてみようと言っていただきました。
 その後、前回の記事でも書いていましたように、母の食欲は改善して、看護師さんの言葉によると出された食事を「完食」するまでになったということです。しかし、母はその後急性心不全により亡くなりました。

 医師に鼠径部への点滴治療を依頼してから、私は以前山口別院で聞いた公開講座の講話を思い出しておりました。
 患者を救いたいという医師の使命感と元気でいて欲しいという家族の望みの両方に従って、高度な医療技術は寿命を延長することを可能にしましたが、それが患者の意思とは別に進められて結果として患者を苦しめているのではないか、というお話でした。医療技術が現在ほど進んでいなかった時代には、食事が摂れなくなればそれが自然の死につながっていて、患者は「延命治療に伴う苦痛」を感じることなく命を終わることができました。現在ではそのような死を可能にするためには、家族が単なる延命治療を断るという強い意志を持たなければならない、ということになるのでしょうか。

 もう一つ、母が亡くなってから思い起したことがあります。
 それは、これもこのブログでご紹介した本「動的平衡」の中に紹介されていたことです。
 著者の福岡伸一氏は、人間の体はちくわのようなものだと言っておられました。一方の口から食物を摂り入れて他方の口から排泄しても、それはまだ体に取り入れたことにはならない、ちくわの本体の中に吸収されて初めて体内に取り込まれたことになるのだ、というお話でした。
 その観点から見ると、胃に管を通して栄養を補給することはちくわの体内に栄養を送り込むことにはならないことになります。一方、鼠径部の血管に点滴を行って栄養を送り込むことはちくわの本体に直接栄養を送り込むことに相当します。私は、前者の治療に対して抵抗感のようなものを感じていたのですが、後者の方が患者の意思とは別に、延命を行う治療に当たるものだったのかもしれません。

 このように思い返しながらも、今回の判断が本当によかったのだろうという思いも引き続き残っています。
 生老病死と4つの苦をいいますが、自分自身だけでなく近しい人の生老病死も、私自身の身勝手さ、弱さを浮き彫りにするものだということを実感させられました。母の死を目前にしてこのように悩んだことを忘れてはいけない、と思っています。

(写真は、オオガハスです)

 オオガハス(大賀蓮)は、大賀一郎博士が今から2000年以上前の地層で発見されたハスの実から育てられ開花したものです。
 大谷本廟で咲いていたものです。

(このブログは、毎週月曜日と金曜日に記事を載せるようにしていますので、また覗いてみてください)

618.仏教婦人会幹部会を開催しました

20200302仏婦幹部会

  昨日3月1日、壽福寺の仏教婦人会幹部会を開催しました。各地区の役員7名の方にご参加いただきました。

 本堂で『讃仏偈』をお勤めした後、次の内容について会議を行いました。

1.住職挨拶、報告
 ・2月23日にお勤めしました前坊守の葬儀へのご協力についてお礼
 ・3月7日に予定していました、春季永代経法要をコロナウイルスのために休座(中止)することにしたことを報告
 ・引き続いて令和元年度の報告と今年度の計画について説明しました
  その中で、帰敬式を受式されたいこと、7月の夏法座で腕輪念珠作成の講習会を開催したいこと、などをお話しました

2.令和元年度活動報告、令和2年度行事計画
 各法座の奉仕担当は次の通りとなりました。
  春季永代経法要:中止
  降誕会:伊佐地区
  夏法座:’おとき’はなし。午後に念珠作りを予定。お握りを作ろうと提案しました
  秋法座:吉部地区
  報恩講:各地区幹事

3.令和元年度会計報告、会計監査報告
 いずれも報告が承認されました

(写真は当日出席の役員の皆さんです)

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)

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