FC2ブログ

617.母が亡くなりました

20200224祭壇

  2月20日、前坊守の母、杉慶子が浄真院釋妙慶の法名をいただいてお浄土に還りました。満95歳でした。一昨日22日に通夜、昨日23日に葬儀をお勤めしました。

 昨年末に体調を崩して入院し一時は食欲も細るという状態でした。それでも最近は出された食事も「完食」(看護師さんの言葉です)するようになっており、少し安心していたのですが、20日に心不全にて急逝いたしました。
 通夜および葬儀にお参りいただいた方々、弔意をお寄せいただいた方々、お世話いただいた方々ににこころよりお礼申し上げます。

 母は、子供の頃は木登りが得意な活発な女の子だったそうです。峠を越えた隣のお寺から父のもとに嫁いできました。
 父は高校の教師をしていましたので、母は転勤する父を支え私たちを育て、父が教員を退職して寺に帰ってからは坊守として住職の父を支えてきました。しかし、結婚して30余年、母が60歳の時に父が63歳で亡くなりました。
 その後、母は寺を守ってくれました。父の死後、得度し、教師の資格を得ました。また、60歳で運転免許をとったのですが、教習所では女性の免許取得の最高齢記録だったとお聞きしています。頑張り屋の母でもありました。
 また、平成4年には、多くのご門徒さんのご協力、ご尽力をいただいて本堂の屋根の葺き替え、補修の事業を実施しています。
 このように、父が亡くなってから30有余年、多くの皆さまに力をいただいて母は寺を支え、み教えを伝えることに力を尽くしてきました。
 改めて、皆様に厚くお礼申し上げます。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください) 

 
スポンサーサイト



616.最近の話題(44):ファックス、コピー機を更新しました

DSC_0635.jpg

  昨日、ファックス・コピー(モノクロ)の複合機を更新しました。

 これまで使っていた複合機のファックス機能が壊れていたようで(これは電話がうまく使えないので修理を依頼したNTTの方の見立てです)、今回更新することにしたものです。複合機のコピー機能だけ残して、単機能のファックスを置くということも考えたのですが、設備が増えるということもあって、もう一度複合機を入れることにしました。

 ここしばらく、ファックスなしでやっていたのですが、いざないとなるとこれが不便だということが分かりました。
 別院で研修会が続けて開催され、参加申し込みはファックスで、ということになっていたのですが、これが不調ですので申し込みをせずに当日参加手続きをしたということもあり、こりゃやっぱりファックスはいるよなあ・・・ということになった次第です。
 事務機器販売会社の担当の方に来ていただいて、設定してもらい、コピーもファックスもうまく機能することを確認でき一安心です。

 最近このような機器について感じることがあります。
 1年くらい前でしたが、インクジェットプリンターが壊れたことがありました。電気製品の店に持参して、修理が可能か聞いたのですが、メーカーに送って調べないと分からないということでした。その場合、送料を含めた基本料金がかかり、修理できるとなると当然その修理費用がかかります、ということでした。
 プリンターは修理せずに新しいものにしてはどうか、というニュアンスが感じられる応対でした。当方も、プリンターを渡して、見積もりを受けて、その上で修理不能などということになることも考え、しかも寺の新聞をすぐに印刷しなければならないということもあって、「しゃあないなあ、新しいのを買います」と先方の作戦に屈した形になりました。

 最近はプリンターそのものの価格は安くなっているようです。メーカーの戦略はプリンターは安く販売して、補充用のインクで利益を出すという形になっているのだそうです。そういえば確かにインクは高い。
 例えば、髭剃りも同じような感覚を持ちます。替え刃がなんでこんなに高いのだろうか、ですがこれも同じ販売戦略なのでしょう。

 ファックスといえば思い出したことがあります。もう20年以上前になりますが、パソコンの端末からファックスを送ることができるソフトというのがあって、これを使っていたことがありました。この場合、電話回線に接続できれば、ファックス機が不要ですから身軽なものです。
  その頃、山根一真さんという人が書かれた『スーパー書斎の道具術』という本があって、出張先でファックスをプリンターのように使う方法が紹介されていました。
 文書を印刷したいという場合、パソコンにその文書が入っていてもそばにプリンターがないと印刷ができません。そのようなときに、パソコン(小型の携帯型の)にこのファックス送信ソフトを入れておいて、宿泊している部屋の電話回線を使って、そのホテル気付けで自分宛にファックスを送るという方法です。そうすると、送信してしばらくすると、部屋のドアがノックされて「ファックスが届いております」と印刷された資料が届けられるという、便利な方法でした。
 部屋に入ったら電話をつなぐジャックを探すというスパイのような行動が必要でしたが、半分は面白がって利用したものです。

(写真は新たに入った複合機です)

 「壊れんといてくれよ」です。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください) 

615.御絵伝に見る親鸞聖人のご生涯 (50):下巻第五段(6)


20200217専修寺本s20200217専修寺本2s

  前回に続いて御絵伝、下巻第五段の最後の部分になります。
 御文と訳文です。

 そのときかの俗人に対座して、聖人忽爾(こつじ)としてまみえたまふ。その詞(ことば)にのたまはく、「かれは善信(親鸞)が訓(おしえ)によりて念仏するものなり」と云々。ここに俗人笏(しゃく)をただしくして、ことに敬屈(けいくつ)の礼を著(あらわ)しつつ、かさねて述(の)ぶるところなしとみるほどに、夢さめをはりぬ。おほよそ奇異のおもひをなすこと、いふべからず。下向(げこう)ののち、貴坊にまゐりて、くはしくこの旨を申すに、聖人「そのことなり」とのたまふ。これまた不思議のことなりかし。

 そのとき、その貴族らしい俗人の前に、思いがけず親鸞聖人が出現して、その人に向かって「この男は私の導きによって念仏をしている者です」と仰せられました。するとその人は、手の笏を持ち直して姿勢を正し、うやうやしく敬礼の態度を示しました。そしてもう二度と平太郎に物を言わなくなったなァ、と思っていると、そこで夢が覚めました。何とも不思議なことだ、という感動は、言葉に言いあらわせませんでした。
 熊野からの帰り道に、親鸞聖人のお住居へ立ち寄ってこのことをご報告しますと、聖人は「うん、そうか、そうか」と、それがもうわかっていたかのようなお言葉でした。これまた不思議なことでした。

 この場面で親鸞聖人が登場されます。夢の中で、平太郎さんは熊野権現に叱責されるのですが、その時に親鸞聖人がお出になられて、「この男は私の導きによって念仏をしている」のだとして、平太郎さんをかばわれます。
 すると、熊野権現は聖人に対して威儀を正して敬意を表し、平太郎さんに対してそれ以上なにも言わなかった、というところで平太郎さんの目が覚めた、と記されています。
 そして後刻そのことを親鸞聖人に報告したところ、聖人は「そうか、そうか」と、あらかじめご存知だったようであったという逸話です。

 御絵伝を制作された覚如上人は、この逸話を通して、熊野権現の本地は阿弥陀如来であって、日本の衆生を救うために権現の姿をとって現れられたのだとする「本地垂迹説」を説いておられます。
 以前にも記しましたように、この下巻第五段は、覚如上人は当時の浄土教が置かれた状況について在来の伝統仏教との関係に加えて、神祇崇拝を含む日本古来の風習との関わりの中で「折り合い」をつけることに腐心しておられたことが伺える段だということができます。

(図は、専修寺本の伝絵です。)

 手前の図に対する注記に「平太郎夢想のところ也」、後方図の右注記に「態(熊の誤記)野証誠殿」、左部分に「聖人」、「権現あらわれたまふところ也」と記されています。

 前回見ました御絵伝の図と比較しますと、「うやうやしく敬礼の態度」という印象が薄いのですが、いずれにしても平太郎さんの夢の中に聖人がおいでになって熊野権現と対面されているところが描かれています。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)

614.御絵伝に見る親鸞聖人のご生涯(49):下巻第五段(5)

11.下巻第五段s

 少し間が空きましたが、『御絵伝』に戻ってまいりました。

 御絵伝の下巻第五段を学んでいます。常陸国で親鸞聖人のお弟子さんだった平太郎さんという人が、仕えている武士のお供をして熊野権現に参らなければならなくなります。神祇に参拝することは聖人の教えに反することだと思った平太郎さんは、聖人にどうしたらよいのかと教えをいただきに聖人の許を訪ねます。 その平太郎さんに対して、親鸞聖人は、自らの発心で権現に参拝するのではなく、主人に仕えて参るのであればやむを得ない、とお話になります。
 今回の部分は、聖人のみ教えを受けた平太郎さんが熊野に参詣されたときのことが記されています。
  『御伝鈔』の御文と平松令三氏の『聖典セミナー 親鸞聖人絵伝』の訳文です。

 これによりて平太郎熊野に参詣す。道の作法とりわき整(ととの)ふる儀なし。ただ常没(じょうもつ)の凡情(ぼんじょう)にしたがひて、さらに不浄をも刷(かいつくろ)ふことなし。行住坐臥(ぎょうじゅうざが)に本願を仰ぎ、造次顛沛(ぞうじてんぱい)に師教をまもるに、はたして無為(ぶい)に参着(さんちゃく)の夜、件(くだん)の男夢に告げていはく、証誠殿の扉を排(おしひら)きて、衣冠(いかん)ただしき俗人(ぞくじん)仰せられていはく、「なんぢ、なんぞわれを忽緒(こつしょ)して汚穢(わえ)不浄(ふじょう)にして参詣するや」と。

 平太郎はこのお言葉を聞いて、熊野に参ることにいたしました。普通の熊野詣の道中には、独特の作法がありますが、平太郎は特別にそんな作法もいたしませんでした。ただ迷いの世界に沈んでいる凡夫としての気持ちのままに行動し、神道で言う精進潔斎などもしませんでした。いつも阿弥陀如来の本願を仰ぎ、ちょっとした間にも、親鸞聖人の教えを守って、熊野への旅をつづけました。
 すると、何事もなく到着したのですが、その夜その平太郎に夢のお告げがありました。本宮中央の「証誠殿」の扉が開いて、貴族としての正装をした俗体の人が現れて、「お前はなんで私を軽んじて、精進潔斎せず不浄の体で参詣するのか」と叱られました。

 今回の部分について、平松令三氏は同じ出来事を記した『親鸞聖人御因縁』という書物のことを紹介しておられます。
 その書には、『御伝鈔』で「道の作法とりわき整ふる儀なし。ただ常没の凡情にしたがひて、さらに不浄をも刷ふことなし。」と記されている部分について具体的にその内容が記されているということです。
 それによりますと、平太郎さんはいわゆる「別火精進」を行わなかった、人々が「南無証誠大菩薩」と唱えているのに、平太郎さんだけは「南無阿弥陀仏」と称えたとか、田辺で難破船があり死骸が海岸に打ち上げられた事件があって、死の穢れを忌んで誰も近づかなかったのを平太郎さんが夜にまぎれてとりのけた、といった具体的なかつ臨場感のある逸話が記されているということです。
 そのようなことから、この平太郎さんの熊野詣は実際にあったことで、覚如上人はその事実を聞かれて御伝鈔に取り入れられたのではないか、とされています。

 この「別火精進」という言葉を初めて耳にしたのですが、神道では火は不浄、汚れたものとされていて、火を通じて穢れが伝わらないために使う火を別にするという風習があったのだそうです。平太郎さんは、そのような迷信に惑わされることなく行動したということが伺えます。また、神道と仏教の死というものに対する向き合い方の違いがこの逸話に言い表されているようです。それだからこそ、本宮から出てきた人物に平太郎さんが「叱られた」という事態になったのだと思われます。
 
(図は、自坊の「御絵伝」下巻第五段です)

 絵は、手前と後方の二つの部分に分けて描かれています。
 前方の絵は、熊野本宮大社を描いたものだとされています。御絵伝によって図柄が違ったものがあるようですが、右の横になっている人物が平太郎さんだと思われます。左には平太郎さんの主人の武士とお供が3人、中央の人物は一行の先達をつとめた人だとされています。他には女性も3人描かれています。女人禁制とされた高野山に対して、熊野は女性を受け入れていたのだそうです。
 後方の絵は、朱塗りの熊野の本殿で、左の人物は貴族の正装をしていますがこれが熊野権現で、向かいに座っておられるのが親鸞聖人となります。なぜ親鸞聖人がここに登場されているのかということについては、次回の『御伝鈔』に記されます。

 右上に僧侶の下半身が2人分描かれていますが、これは次の段の図がはみだしているものです。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)
 

613.新聞版「壽福寺だより」を発行しました


20200210紙面1    20200210紙面2

 新聞版「壽福寺だより」2月号を発行しました。ご家庭にお届けしますので、一読ください。なお、今月は「花フェス2020」のご案内を一緒にお送りしています。

 今月号の記事は次の通りです。

〇1面
 「総代会を開催しました」
  去る1月26日に開催しました総代会の報告です。門徒講金の決算概要もお知らせしています。

 「山口教区(別院)の行事計画」
  今年の行事計画をご連絡しています。

 「春季永代経法要のご案内です」
  3月7日にお勤めします法要のご案内です。

〇2面
 「花フェス2020のご案内です」
  4月11日に開催を予定しています花まつりをご案内しています。2月6日に開かれた打ち合わせの内容も含めたご案内になっています。

 「ご存知ですか(21)お釈迦さま」
  花まつりに関する記事としてお釈迦さまのご生涯をご紹介しました。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)

612.最近の話題(43):門徒講金の郵便振替

20200207お知らせ3s20200207お知らせs

  毎年ご門徒さんからお受けする門徒講金は、次のいずれかの方法で集金させていただいています。
 〇地区の総代さんに集金していただく
 〇お取越しのお勤めに伺った際などに直接いただく
 〇上記以外の方には、郵便振替用紙をお渡し(お送り)して郵便局から振り込んでいただく

 この3番目の郵便振替用紙によって送金する場合の手数料(ご本人ではなく受取人の門徒講金で負担しています)や関連する費用が、ゆうちょ銀行の料金制度の改定で高くなり、またこれから高くなることが分かりました。
 具体的には、送金手数料は次のように値上げとなっています
  窓口で振替用紙で依頼すると 130円⇒203円
  CD機から送金でも 80円⇒152円
  CD機で通帳から送金すると 月1回は無料。以後は125円⇒最初から100円(4月1日より)
  ゆうちょダイレクト(ウエブ取引)では月5回まで無料。以後は115円⇒月5回まで無料。以後は100円(4月1日より)

 さらに、送金を受けた当方でも新しく費用が発生することになっています。
 振替を受けた都度郵送される「振替受払通知票」による通知。これまでは無料⇒郵送1件ごとに108円(4月1日より) 
 ということで、ご門徒さんが窓口で振替依頼をされその通知を1件として郵送を受けると、これまでは130円だったのが合計で311円の手数料がかかるということになります。

 先日の総代会でも、その情報をお伝えしてこの費用を減らすことを検討したい旨お話をしました。

 具体的には、つぎのようなことを実施し、またお願いしようと考えています。
 〇可能ならば現金で受け取る(お取越しのときなどに)
 〇これはハードルが高そうですが、振替による場合も、できるだけネットからあるいはCD機から、をお願いする
 〇「振替受払通知票」のWeb照会サービスを利用する

 この3番目のWebサービスは、4月1日からの料金新設に対応するサービスとしてゆうちょ銀行が進めているWeb化で、当方は昨年11月からこの方法に切り替えました。これまで郵送されていた通知票に代えてメールで振替受け入れが通知され振替のあった翌日にはパソコン上で確認できるという便利なものです。
 今回、門徒講金の郵便振替についてその料金体系を調べてみたのですが、ゆうちょだけではなく金融機関の様々な手数料が新設されあるいは値上がりしていることも分かりました。金額は多くはないのですが、値上げに対して「防衛」し、お預かりした講金を有効に活用することが必要だと、改めて思った次第です。

(ちょっと見えにくいですが、「振替受払通知票Webサービス」の案内パンフレットです。)

 うたい文句は、「スピーディー」「ペーパーレス」「データ管理が簡単」となっています。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)  

611.最近の話題(42):日高実夫氏の自筆原稿(3)

20200203自筆原稿s   20200203眺望s

  3回目になりますが、日高実夫さんが残された自筆原稿の一つ「哀々たる古城跡」をご紹介します。
 この古城といいますのは、以前このブログでもご紹介した「信田丸城(しだのまるじょう)」のことで、大内氏の時代、万倉の領主だった杉氏の居城として築かれたものです。大内義隆公が討たれた「大寧寺の変」に際して、この城も陶晴賢勢に攻められ、落城しました。壽福寺の起源には諸説あるのですが、この変に関わるものだとする説もあります。

 今回の原稿は平成2年(1990年)と記されていて、日高さんがこの信田丸城址に登られた時の城跡の様子とその時の思いを綴られたものです。
 その原稿によりますと、日高さんは原稿執筆の7年前の1983年に城跡に登られたとされていますので、74歳前後の年齢だったと推定されます。同じ年に、このブログでもご紹介しました『寿福寺とその里』という冊子を作製され、前回ご紹介しました「米噛み岩」に関する原稿がその前年の1982年ですから、この頃に懐かしい黒五郎の地を思い出されてこれらの文章を記されたものと思われます。

 その日高さんは当時の城跡について次のように記されています。
 「登山道口に至って見ると豈に図らんや、曾つては歴然としていたにも拘わらず草木生い茂って登路らしき形跡も無い有様になっていた。止むを得ず方位を確め方向を定めつつ樹木蔓草の間を縫い乍ら漸く山上に辿り着いて見れば、往年の如き城址の影観は全く無く何処にも感ずることさえも出来ない鬱蒼たる自然林に化していたのである。」
 日高さんが黒五郎におられた頃(戦前です)には、「山上の城址に何時登って見ても清掃が至って良くされていて殊に眺望に特別気が配られていて四辺の樹木や蔓草が伐り払われていたので眺望が甚だよく、内陸部はもとより内海が殊の外良く見渡されたのである。」といった城跡だったのですが、大きく姿を変えていたのです。

 日高さんによりますと、戦前は城の南の地域、現在「城南(じょうなん)」と呼ばれている地区の方々が、この城跡を大事に維持しておられたのだそうです。現在はこの地区に住んでおられる方は1軒だけとなっていますが、日高さんが登られた当時、すでに城跡は樹木がうっそうと茂った状態になっていたようです。

 城跡には、明治45年(1909年)1月に杉孫七郎子爵が建立された石碑があるのですが、それも日高さんが訪れた頃には「碑は何処にあるか見当さえもつかないけれども、よもや持ち去られるなどのある筈はないと思い、鬱蒼たる中を右往し左往して小半時も探し廻ったのである。すると一木の蔭に碑らしきものが、チラッ、と見えたのである。木の間を透かしてよくよく見ると、その一木に縋るかのように悄然として立っているのである。」という姿だったと記されています。

 そして、日高さんは明治の文豪高山樗牛の文章を引用されます。
 「(後人碑を建て之に銘するは其心素より其の英名を不朽に傳へんとするにあり。然れども、)星遷り世變り、之が洒掃の勞を取るの人なく、雨雪之れを碎き、風露之れを破り、今や塊然として土芥に委するも人絶えて之を顧みず、先人の功名得て而して傳ふべきなし。思ひ一たび此に至れば、彼の廣大なる墓碑を立てゝ名の不朽を願ふものは何等の痴愚ぞや。嗚呼劫火烱然として一たび輝けば、大千旦に壞す、天地又何の常か之れあらん、」

 と、日高さんは、かつては大切に護られていた先人の遺徳をたたえる碑も荒れ果ててしまう姿を思い、さらには「相も変わらず広大な墓碑を建てて名の不朽を謀る者の多きことであらうか。」と私たちの姿も振り返っておられます。
 このように日高さんは、先の『寿福寺とその里』でも述べておられましたが、その地の人々が大切にしてきたこと、維持してきたものが失われていることに心を痛めておられることが感じられる文章です。

 その城跡は、現在は「信田丸城跡」として宇部市の指定文化財とされています。
 私はこちらに帰ってきてしばらくしてこの城跡に登ったことがあります。その後、一昨年6月に登ろうと計画したのですが、登り口付近の草と蔦に遮られて登ることを断念しました。
 今回、日高さんのこの文に出会いもう一度登ってみたいと思い、1月4日に登り口に向かいました。登り口には前回と同じように草と蔦がありましたが、冬のこととて払えば進むことができる程度で、約30分で頂上の城跡に至ることができました。頂上は日高さんが登られた当時とは違って、周辺の雑木は刈られ、瀬戸内方面など遠くの眺望が可能な状態にありました。城跡の広場も草が刈ってあって、記念碑もしっかりと残っておりました。
 有形、無形を問わず、地域の文化財は地域の住民が中心となって伝承し、維持することが理想なのでしょうが、信田丸城跡のように地域の住民がほとんどいなくなっているような実態もあり、これも難しい問題だと改めて感じました。

(図の、左は日高さんの自筆原稿、右は城跡から見た瀬戸内方面です。)

 日高さんは、この罫紙毛筆で書かれた原稿と、同じ内容を少し手直ししながら400字詰めの原稿用紙に書いた原稿の2種類の原稿を作成しておられます。冊子としてまとめようと考えておられたのかもしれません。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)
カウンター
カテゴリ
検索フォーム
リンク
最新記事
最新コメント
月別アーカイブ
最新トラックバック
RSSリンクの表示
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR