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601.御絵伝に見る親鸞聖人のご生涯 (46):下巻第五段(2)

 
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 前回に続き、御絵伝の下巻第五段です。御文と訳文を記します。

 「そのころ常陸国(ひたちのくに)那荷西郡(なかのさいのこおり)大部郷(おおぶのごう)に、平太郎なにがしといふ庶民あり。聖人の訓(おしえ)を信じて、もつぱらふたごころなかりき。しかるにあるとき、件(くだん)の平太郎、所務に駈(か)られて熊野に詣(けい)すべしとて、ことのよしを尋ねまうさんがために、聖人へまゐりたるに、」

 「そんな中に、常陸国那荷西郡大部郷(いまの茨城県水戸市飯富町)の住人で平太郎という人がありました。ごく平凡な民衆の一人で、聖人の教えを信じて、迷うことがありませんでした。
 ところがあるとき、その平太郎は、その地方の領主に仕える役目の都合上で動員され、熊野詣をしなければならないことになりました。かねて神祇不拝(じんぎふはい)と教えられていたので、教えに背くことにならないか、どうしたらよいかを尋ねるために、聖人のところへやってきました。」

 前回の部分で、都に帰られた聖人のもとに、関東のお弟子さんが教えを受けたいと遠い道のりを越えて訪ねてこられていたことが記されていました。また多くの書が残されていますように、手紙で教えを請いそれに対して聖人から答えられるというやりとりが頻繁に行われていました。
 今回は、平太郎さんという方が常陸国から都の聖人のもとを訪ねられたという出来事です。

 この平太郎さんは常陸国の人で、領主が熊野詣でを行うにあたって、領主に従って一緒に詣でなければならなくなります。親鸞聖人の教えを堅く守っていた平太郎さんは、神祇を拝することはいけないことだと信じていましたので困り、聖人にどうしたらよいのか教えを請います。

 この熊野詣でというのは、和歌山県の熊野地域にある熊野三山(3つの神社)を中心に参詣することです。古くからおこなわれていたようで、平安時代以降には歴代の上皇も参詣を行ったとされています。その参詣の規模は、時に数千人の一行になったこともあったようです。後鳥羽上皇が法然聖人やそのお弟子さんを弾圧した承元の法難もこの熊野詣から帰京された後のことでした。
 その後、政治の実権が朝廷から武士に移行するに伴って、熊野権現のご利益を願って武士層が熊野参詣の主役になっていったということです。

 当時の武家勢力の中心は関東にありましたから、東国の武士層が遠く熊野の地までやってきたということになり、その場合も、多数の従者を引き連れての参詣となったことと思われます。
 東国で親鸞聖人の教えを受けた平太郎さんが、その一行として熊野に詣でることになったというわけです。

(図は、専修寺本の伝絵に描かれた場面です。)

 図に付されている言葉は左から、「聖人」、「平太郎まいりて、熊野詣の事たつね申ところ也」、「五条西洞院御房也」と読まれます。
 この「平太郎」の名前は、もともと「忠太郎」と記されていたものが書き直されたとするのが通説になっているということです。この段の詞書と画中の説明書込の全てがそうなっているのだそうで、最初の「忠太郎」の筆跡も覚如上人のものだそうですから、後になって書き改められたことになります。

 前回の自坊の御絵伝とは違って、聖人は多くのお弟子さんとともに平太郎さんにお会いになっています。折烏帽子をかぶり口ひげを生やしている平太郎さんの姿は、武士に従う家来らしい姿だと、平松氏は記されています。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)
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600.御絵伝に見る親鸞聖人のご生涯 (45):下巻第五段

 20191227熊野霊告2s   20191227熊野霊告s

 御絵伝は下巻第五段に入ります。4幅の御絵伝では4幅目の下から2番目の図(一番下の図の一部も含め)です。
 『御伝鈔』のこの段の書き出しです。実はこの段は『御伝鈔』の中でも最も長い段なのですが、その最初の部分に当たります。ご文と訳文を載せます。

  「聖人(親鸞)故郷に帰りて往事をおもふに、年々歳々(せいせい)夢のごとし、幻のごとし。長安・洛陽の棲(すみか)も跡をとどむるに懶(ものう)しとて、扶風(ふふう)馮翊(ふよく)ところどころに移住したまひき。五条西洞院(にしのとういん)わたり、これ一つの勝地なりとて、しばらく居を占めたまふ。このごろ、いにしへ口決(くけつ)を伝へ、面受(めんじゅ)をとげし門徒等、おのおの好(よしみ)を慕ひ、路(みち)を尋(たず)ねて参集(さんじゅう)したまひけり。」

 「親鸞聖人は、故郷の京都に帰って、昔のことをふりかえってみますと、歳月をすごしてきた跡が、夢か幻のようにおもわれるのでした。そしてその都でのお住居(すまい)も、一処(ひとところ)に定住するのも好まず、あるときは右京に、またあるときは左京にと、あちらこちらへお住居を移されました。その中では五条西洞院のあたりが気に入ったとのことで、しばらくそこに落ちついておられました。
 そのころ、むかし東国で、聖人のお教えを直接口伝えに受けた門徒たちが、めいめい昔のよしみをたよって、遠い道のりを尋ね尋ねて聖人のもとへやって来られました。」

 今回の下巻第五段は、後に出てきます平太郎という人物が東国から親鸞聖人を尋ねて都にこられたという逸話が記されています。本日の部分はその前段で、都に帰られた聖人のご様子が伝えられています。
 それによりますと、聖人は京都に戻られてからもあちらこちらに住まいを移されたようです。その中で、五条西洞院あたりが気に入られてしばらくその地に住まわれたと記されています。

 平松氏は、現在そのあたりに行ってみると「狭い道路をはさんで、小さな商店がひしめきあって軒をならべています。全くの下町の風景です。聖人の当時もやはりこんな様子だった、と思われます。」とされ、聖人がその地を「勝地」とされたということは、「聖人には風光明媚な景勝の地よりも、このような人間臭い所の方が『勝地』だったのかもしれません。」と興味深い理解をしておられます。

 前々回の御絵伝下巻第四段の中で、聖人が京都に戻られた理由について様々な見解があるということを学びました。その中で、平松氏は、関東の真宗教団が拡大安定してきたのでこれなら大丈夫だ、として聖人は都に戻ることを決意されたという見解を述べておられました。その理由として、今回の段にありますように、遠い関東からはるばる聖人を慕ってお弟子さんが京都に上っておられたように、親鸞聖人と関東のお弟子さんの絆は聖人帰洛後もいささかも変わることがなかった、という点を挙げておられます。

(図左は、自坊の御絵伝の下巻第四段の左部分、右は下巻第五段です)

 左では、聖人が関東から訪ねてきた平太郎に面談しておられる場面、右は次回以降に記される逸話が描かれています。

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599.御絵伝に見る親鸞聖人のご生涯(44):下巻第四段(2)

20191223箱根霊告s

  御絵伝の下巻第四段の後半部分です。少し長くなりますが、『御伝鈔』のこの段の残りの全文です。

 「ときに聖人歩み寄りつつ案内したまふに、まことに齢(よわい)傾きたる翁のうるはしく装束したるが、いとこととなく出であひたてまつりていふやう、「社廟(しゃびょう)ちかき所のならひ、巫(かんなぎ)どもの終夜(よもすがら)あそびしはんべるに、翁もまじはりつるが、いまなんいささか仮寝(よりい)はんべるとおもふほどに、夢にもあらず、うつつにもあらで、権現仰せられていはく、〈ただいまわれ尊敬をいたすべき客人、この路を過ぎたまふべきことあり、かならず慇懃(いんぎん)の忠節を抽(ぬき)んで、ことに丁寧の饗応をまうくべし〉と云々。示現いまだ覚めをはらざるに、貴僧忽爾(こつじ)として影向(ようごう)したまへり。なんぞただ人にましまさん。神勅(しんちょく)これ炳焉(へいえん)なり、感応もつとも恭敬(くぎょう)すべし」といひて、尊重(そんじゅう)屈請(くっしょう)したてまつりて、さまざまに飯食(ぼんじき)を粧(よそ)ひ、いろいろに珍味を調(ととの)へけり。 」

 「そこで聖人はその家の入口に歩み寄って戸を叩き、『御免ください』と声をかけると、立派な衣装をつけたずいぶん高齢の老人が、すぐに出てきて言うのには、『ここは箱根権現の社にほど近いところで、この地の習俗として、神に仕える者たちが夜を徹して遊びをいたしております。私のような老人もその中にまじって遊んでおりましたが、ちょっと物にもたれて居眠りをしてしまったようです。そのとき、夢だったのか幻だったのか、おぼろ気なことですが、権現さまが現れておっしゃるには、『私が尊敬しているお客人(賓客)が、ただいまこの道をお通りになる。失礼にならないように、とくに丁重におもてなしをして差し上げなさい』ということでした。そしてそのお告げの夢がまださめ終わらないうちに、あなたが突然としてここにお姿を現されたのです。あなたはただ人であろう筈がありません。権現さまのお告げがそれを明らかに示しています。あなたのおこしを権現さまが感じ取られたこと、これはつつしみ敬わねばなりません』と言って、聖人たちを丁重に招き入れ、とりどりの珍味を用意し御馳走をしてもてなしてくれたのでした。」

 この段では、親鸞聖人が関東から都に帰られる途中、箱根で起きた出来事について記されています。
 深夜に聖人のご一行は箱根の険しい山路にさしかかり、明け方近くになってようやく人家にたどり着かれます。そこで立派な身なりの老人の出迎えを受けられるのですが、老人は「自分は権現さまからのお告げで、権現さまが尊敬されるご一行が来られるから丁重におもてなしするようにと言われています。」といい、珍味の御馳走をされた、という出来事です。

 平松令三氏は、覚如上人が箱根権現が親鸞聖人を丁重にもてなしたという「箱根霊告の段」をなぜここに入れられたのかということについては、まだ分からないところが多い、とされています。なぜ箱根権現が聖人のご一行をもてなしたのかという理由を覚如上人は記されていないからです。

 この箱根権現は箱根の芦ノ湖のほとりにある神社で、源頼朝以降鎌倉幕府の歴代の将軍が尊崇を寄せ、隆盛を誇った神社だったそうです。覚如上人は、親鸞聖人がこの神社に詣でるのではなくこの地を通り過ぎようとされたときに、権現の方から丁重な扱いを受けたと記されていますので、覚如上人の神祇に対する姿勢を表そうとされているのかもしれない、と平松氏は記されています。
 そういえば、前の段「弁円済度」の段も、当時の山岳信仰(平松氏によれば、箱根権現もそうだということです)の修験者が聖人に帰依することになった経緯を記したものでした。

(図は、専修寺本の伝絵です)
 
 聖人のご一行が箱根神社の神官の老人と対している部分には、ちょっと見えにくいですが「聖人案内し給ふところ也」と注記されていますが、寺の御絵伝と比較しますと右の隅に追いやられているように見えます。
 そのかわり、鳥居と芦ノ湖のむこうに「芦河の宿也」「箱根権現の社壇也」「僧房等」などと注記され、人や馬も入った芦ノ湖周辺が風景画のように描かれています。また、御絵伝にありますような次の段(下巻第五段)の図は描かれていません。
 平松氏は、伝絵のこの段について「絵師が『ここぞ』とばかり腕を振るっている感じです。」と記されていますが、なるほどと同感させられます。

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(お詫びと修正です)

 このブログには連続した記事の番号をつけて来たのですが、途中で間違っていたことが分かりました。前回が599番、今回も599番として正しい連番に修正しました。この番号は後から記事を確認する際に必要なものなのですが・・・。

599.最近の話題「秋吉台の赤土のひみつ」

20191220チラシ  20191220セイタカアワダチソウ

  12月15日、山口大学秋吉台アカデミックセンターの主催で、「秋吉台の赤土のひみつ」という講演会がありました。たまたま図書館でこの催しの案内を見て、面白そうだと聞きに出かけたものです。

 講演会は4名の講演者がそれぞれ次のテーマで講演をされました。
 〇「秋吉台の土はどんな色?どんな性質?」(山口大学大学院創成科学研究科 柳由貴子氏)
 〇「秋吉台の土は何でできている?秋吉台の歴史と土とのかかわり」(森林総合研究所関西支所 岡本透氏)
 〇「秋吉台の土が支える生物多様性」(九州大学大学院農学研究院 平館俊太郎氏)
 〇「炭からわかる山焼きの歴史 秋吉台と他地域を比べると?」(京都精華大学人文学部 小椋純一氏)

 これらのテーマに共通していることは、秋吉台の土(土壌)ということになるのでしょうか。私も秋吉台が好きで時間を見てはあちらこちらを歩いていて植物については興味を持って見ていましたが、「土」については余り意識をすることがありませんでした。

 これらの講演を聞いて、私がこれまで漠然と思っていた秋吉台の姿が随分間違ったものだったということが分かりました。
 私は秋吉台の土壌は石灰岩が風化したものが堆積したもので、当然アルカリ性の強い土壌だと思っていたのですが、それはどうも違っていたようです。本で読んでも、秋吉台にはアルカリ性に強い植物が分布する、といった記述があったように思いますがそれも違っていたのかもしれません。
 そうではなく、秋吉台の土壌、特に表面に近い部分はpH4~5の強い酸性を示すのだそうです。それは、秋吉台の土壌の表面に近い50~70センチまでの部分の主な構成物は、中国大陸から運ばれてきた黄砂と火山の爆発による飛来物で、それに雨水が加わって酸性化した結果だということです。この堆積物が石灰石の基盤に乗っかっている結果、地表では強い酸性を示すことになるようです。その石灰石の部分が地上に現れているところもあり、そこではアルカリ性に傾くなど様々な構成になっているというのが実態のようです。

 このような興味深い話の後に、3番目のテーマである秋吉台の植物の現状が取り上げられました。
 講演のなかでも取り上げられていましたが、セイタカアワダチソウという植物が秋吉台に限らず、あちらこちらで繁茂しています。このセイタカアワダチソウは外来植物なのですが、平館氏のお話では1890年代に観賞用、蜂蜜採取用に移入されたのだそうです。これが1940年代から急激に広がって結果、競合相手のススキを圧倒しながら現在の姿になったということです。
 そこで面白いのは、セイタカアワダチソウを始め外来の植物は、pHがアルカリ性で必須の元素であるP(リンの化合物)が豊富な土壌を好むのだそうです。ところが秋吉台の土壌はその反対で、強い酸性でP成分が少ないという特徴があり、これは在来植物にとっては好適な環境ですが、外来植物には厳しい環境なのだそうです。

 そこで、なぜこのような不利な環境の中で、外来植物のセイタカアワダチソウが急速に繁茂することができたのだろうか、ということになります。
 その答えは、日本の土壌が変化したのではないかということでした。特にP成分が豊富になったのがその背景にあるのではないかということでした。休耕田などが特徴的なのですが、施肥によって必須の元素が豊富になったところに、手入れがなされず、その結果セイタカアワダチソウなどの外来植物が繁茂することになったという説明がありました。
 ここで言われていたのは、植物が繁茂するかどうかはその土壌の性質に大きく依存するということです。秋吉台は基盤に石灰石を持ち、その上に酸性でP成分の少ない土壌があり、なおかつそのあらわれ方が様々なことから、多様な植物群が分布しているという特徴があるということです。そのことから、逆に不用意にP成分を増やすようなことがあれば、在来の植物群を減らし外来の植物を増やすということになるということになります。

 このことは、土壌をコントロールすることにより、植生をコントロールすることも可能だということにもなります。現に、セイタカアワダチソウが生育している場所の土壌を酸化したところ、セイタカアワダチソウが衰退し代わりにチガヤ(ススキと同じイネ科の植物です)が優勢になったという実験があったそうです。
 そのように、秋吉台の固有の多様な植生を維持するためには、土壌を酸性に維持しP成分を低いレベルに保つことが必要だということになります。

 この講演会をお聞きして、生物が微妙なバランスの上に生育しているということを理解し、そのバランスには土壌が重要な役割を果たしているいうことを認識することが必要だということを知らされました。

(図は講演会の案内とセイタカアワダチソウです)

 セイタカアワダチソウは一時期喘息を引き起こすブタクサと混同されたそうですが、喘息の原因ではなく薬効があるとされ、ハーブティーに使われたり、天ぷらにするとおいしいなど、有用な植物なのだそうです。

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598.新聞版「壽福寺だより」を発行しました

20191216新聞2   20191216新聞 (2)

  新聞版『壽福寺だより』の12月号、新年号を発行しました。明日からご家庭にお届けします。

 記事は次の通りです。

 〇12月号1面
  「報恩講をお勤めしました」

  「山口別院の報恩講にお参りしました」
   宇部北組がご奉仕の担当となり、壽福寺は受付・ご懇志の収納を担当しました

  「来年のご法事のご連絡など」

 〇新年号1面
  「明けましておめでとうございます」
  (写真は、伊吹山の日の出です)

  「宇部北組の念仏奉仕団に参加しました」
   10月に実施されました宇部北組の念仏奉仕団に関するご報告です

  「帰敬式を受式されました」
   今年帰敬式を受式された3名の方のご紹介です

  「今年の壽福寺の行事計画です」
   来年の法座の計画のご連絡です

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597.御絵伝に見る親鸞聖人のご生涯 (43):下巻第四段

20191213下巻四段自坊

  御絵伝は第四幅に入ります。第四幅の一番下の段です。

 『御伝鈔』の御文と訳文です。
 「聖人(親鸞)東関の堺を出でて、華城(かせい)の路におもむきましましけり。ある日晩陰(ばんいん)におよんで箱根の嶮阻(けんそ)にかかりつつ、はるかに行客(こうかく)の蹤(あと)を送りて、やうやく人屋(じんおく)の枢(とぼそ)にちかづくに、夜もすでに暁更(ぎょうこう)におよんで、月もはや孤嶺(これい)にかたぶきぬ。」

 「親鸞聖人は長年の関東での生活に別れを告げ、京都に帰る旅に出られました。その途中、日も暮れ暗くなってから、箱根のけわしい山路にさしかかったので困りましたが、どうにか旅人の歩いて行ったあとをたどって行くと、ようやく人家を見つけました。夜もふけて明け方近く、月も山の端に傾むいていました。」

 この「箱根霊告(はこねれいこく)」と呼ばれている段では、親鸞聖人が関東から京都にお帰りになる途中、箱根山でおきた出来事が記されています。

 親鸞聖人が関東から京都に戻られたのはいつ頃のことでどのような背景があったのか、ということについて様々な見解が示されていました。
 京都に戻られた時期については、聖人60歳から62,3歳のころだったとするのが定説になっているようです。
 一方、なぜ京都に戻られたのか、ということについては諸説が論じられ来ました。

 その一つは、聖人は『教行信証』を完成させるために京都に帰られたとする説です。聖人の主要なご著書である『教行信証』には多くの書物から文を引用しておられ、このような著書を完成させるためには豊富な参考文献が必要であり、それは京都に戻らないとできない、と考えられたことによります。しかし、戦後の坂東本の『教行信証』の研究の結果、すでに学びましたように『教行信証』の大綱は聖人が関東におられた間にほぼ完成を見ていた、ということが明らかになり、この説はその後後退していったようです。

 二つ目の見方は、当時念仏者集団に対して加えられた弾圧とも関連するものです。
 文暦2年(1235年)に鎌倉幕府は念仏の禁止を命じます。関東では親鸞聖人のみ教えは、幅広い階層に浸透していきました。お念仏ひとつでだれでも間違いなく救われる、と説く聖人のみ教えは、それまで救いの対象とはされていなかった多くの人々の力となりました。その一方で、どんなことをしても救われる、地獄に落ちるべき悪人が救われるのだからむしろ悪をなす方が救われる、とする誤った信仰も広がっていったとされています。そのようないわば「反社会的な」行動が念仏弾圧につながったものと思われます。笠原一男氏は『親鸞と東国農民』で、「親鸞自身、念仏の縁つきたらそのところを去る、という根本的態度を生涯を通じて貫き通したのである。」として、念仏弾圧に動いた関東の地で、その弾圧に対抗するのではなくその地を去るという対応を聖人は取られたのだとされます。

 これに対して、平松令三氏は「関東には多くの門弟が生まれていました。それらの門弟がいるのにもかかわらず、『念仏の縁つきた地』だといって立ち去ることは、それらの門弟を見放したことになりましょう。」とされ、念仏の禁圧が聖人の帰洛の原因ではないとされます。帰洛後の聖人と関東の門弟方とのやりとりなどからも門弟を見放したなどは考えらず、念仏弾圧が原因ではないとされます。逆に、氏は「関東教団がこの時期には安定してきたことが帰洛の原因だったのではないかと思っています。」と、関東での門徒集団が拡大安定して「これならもう大丈夫」と確認されて帰洛の腹を固められたとされます。

 また、赤松俊秀氏は『人物叢書 親鸞』で、聖人の帰洛はこの関東における念仏禁圧に因があるとしながらも、幕府が厳しい禁圧で臨んだとしても、門弟らの帰依支持を頼りに関東に永住する決意を変えることはなかっただろうが、「最後のよりどころと頼む門弟の信仰と行儀に根源があるのでは、親鸞としても別の道を選ぶほかはなかった」とされ、門弟たちの信仰と行儀の実態の方にその因がある、とされます。あるいは、以前見ましたような門徒集団の姿、弟子を囲い込み互いに争う姿などもその背景にあったのではないかとも思われます。

 このように親鸞聖人がこの時期に京都に帰ることを決意された理由には様々な見方があることが分かります。いずれにしても、聖人は考え抜かれて都に戻るという決断をされ、関東から都への旅に出られたということになります。

(図は、自防の御絵伝下巻第四段です)

 明け方近く、聖人のご一行が人家(実は箱根神社です)に着かれたところが描かれています。
 画面の左に描かれている図は次の下巻第五段にかかわる図で、今回の「箱根霊告」とは直接関連はありません。

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596.御絵伝に見る親鸞聖人のご生涯(42):下巻補(4)

20191209絵本

  しばらく離れておりましたが、御絵伝に戻ってきました。
 今回も「下巻補」としましたが、親鸞聖人の奥様である恵信尼公に関することです。恵信尼公についても、『御伝鈔』には全く触れられていません。

 以前ご紹介しました絵本『親鸞さま』の記述では、親鸞聖人は越後で結婚されたとされていました。その記事でも書きましたが、私は親鸞聖人は京都で結婚し、恵信尼公とともに配流先の越後に向かわれたと思い込んでいました。しかし、以前は越後で結婚されたとする説が有力だったようです。

 平松令三氏は『聖典セミナー 親鸞聖人絵伝』で、越後結婚説の背景に「流罪人が家族を連れて配流先に行けるはずがない」という思いがあったからだと言われています。ところが、当時の法令では、流人(流罪人)は「皆妻妾(さいしょう)棄放して配所に至ることを得じ」と定められていたのだそうです。家族を連れて行ってはいけない、どころか置いて行ってはいけなかったのだそうです。

 そのようなことや、ご子息信連房(1211年生まれ・聖人が越後で赦免の知らせを受けられた年、越後に移られてから4年後です)の上に姉の小黒女房(おぐろのにょうぼう)、兄の善鸞のお二人がおられることも含めて、親鸞聖人は法然上人のお弟子さんだったころに恵信尼公と結婚されたとする赤松俊秀氏の説が見直されるようになったと、平松氏は記されています。
 また、『恵信尼文書』に見られる、恵信尼公の洗練された「都ぶり」もその説の背景にあるということです。
 赤松氏は『人物叢書 親鸞』で、聖人が結婚されたのは元久2年(1205年)、聖人33歳の時だったのではないかとされています。この年は、親鸞聖人が師である法然聖人のお許しを得て、『選択本願念仏集』を書写され法然聖人のお姿を写された年です。

 このようにみてみますと、聖人は1201年に六角堂の夢告を受けて法然聖人の門下に入られ、1205年に法然聖人から『選択詩集』の書写を許され、同じ年に恵信尼公と結婚され、1207年の専修念仏弾圧により越後に配流となられたということになります。

(図は、絵本シリーズ『親鸞さま』の18,19ページです)

 この部分では、親鸞聖人が越後で恵信尼公と結婚されたことが記されています。本文は次の通りです。
 「越後に流された親鸞さまは、これをきっかけに『愚禿(おろかな)親鸞』と名のられました。おろかな身になって、あみださまのおおきなお慈悲のこころをいただかれたのです。
 流罪のきびしい生活は、親鸞さまのこころをさらに豊かにしました。お念仏をよろこぶ仲間がふえ、やがて、恵信尼さまと結婚されたのです。家庭をもって、みんなと一緒に苦しみやよろこびをわかちあいながら、お念仏を申す生活に入られたのでした。」

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595.最近の話題(38):日高実夫氏の自筆原稿(2)


20191206原稿     20191206米噛み岩

  先日、日高実夫氏の自筆の原稿についてご報告しましたが、今日はその中の一つをご紹介します。

原稿には、「郷土の昔噺し 天然記念物大岩郷 奇岩 米噛み岩の噺」という表題が付されていますが、大岩郷にある「米噛み岩」と呼ばれている奇岩(大きな石です)に関する昔噺が紹介されています。
私もこの岩についての言い伝えとして子供のころ聞いた記憶があり、このような形で文章に記されているのを読むことができてうれしく思いました。

原稿は、400字詰め原稿用紙8枚にボールペンで記されています。
「はじめに」として日高さんは次のように記されています。
 「国指定天然記念物大岩郷の中に昔しから米噛み岩と呼んでいる奇妙な形の一際大きな岩があり、それにまつわる昔噺しがある。幼年の頃、その噺しを聞くと日増しに近寄って見たい童心をかきたてられて、遊び仲間と恐る恐る岩郷に入り岩の間を這いながら見に行ったものである。岩の様子があまりにも噺しとぴったり合っているので、ほんとうにあった事と思った。一度見るとまた見たくなり、見に行っては、色々と幻想しあったものである。今では、あまり噺しも聞かれず殆ど廃れてしまったように思われるので書いて置くことにする。」

 その昔噺は次のように始まります。
 「昔し昔し、大岩郷のある金比羅山に、米噛みと呼んで大そう恐れられていた怪鳥のような怪獣が居たそうな。」

 このように、日高さんは「日本むかしばなし」のように話を始められます。娘さんからお聞きした日高さんの姿、謹厳で言い出したら引かなかったという日高さんがこのような文章を書いておられたことも、微笑ましく思いながら読ませていただきました。
以下、日高さんの文章を要約させていただきます。

 この怪鳥は大きな羽を持っていて、秋に、お百姓さんが精を出して育てた稲が稔るころになると飛んできて、稲穂をかみちぎり腹一杯食べて、金比羅山の奥に逃げていたのだそうです。しかし、お百姓さんは「あの米噛みは金比羅様に仕えているのかも知れんのう」と言って、諦めていました。
 ある年、天候が悪く作物ができず、その上米噛みに荒らされて食べ物がなくなったお百姓さんは、米噛みが金比羅様に仕えていようがいまいがともかく金比羅様にお願いしようと、お詣りし米噛みが米を取らないようにお願いをしました。
 それから間もなく、大きな鉞(まさかり)をかついだ樵(きこり)姿の大男が村に現れ一夜の宿を請います。大男を泊めてやった村の長は、この米噛みの被害について樵に話をします。すると大男は、自分が米噛みを退治しよう、そのために村の各家から一握りの米を持ち寄って夕飯を炊くようにと言います。
 大丈夫かなといぶかりながらも村人は大切な米を使ってご飯を炊きます。その匂いを嗅いだ米噛みは、自分も腹をすかせていたので、飛び出して襲ってきます。大男は大鉞を振り回し対抗し、米噛みの右の羽根元に切りつけ深手を負わせ、さらに米噛みの背中に一撃を加えます。逃げ出した米噛みは、大岩郷を横切って金比羅山に逃げようとしましたが、力尽きて動けなくなりました。ついに右羽根が落ち、背中の深手も大きく開いた形で大岩郷の中で蹲ったまま、今のような姿の岩になったのだそうです。

 日高さんは、現在の大岩郷の「米噛み岩」について次のように記されています。
 「ついでに、米噛み岩の姿と様子であるが、大岩郷の中程より稍々上の方にあって、背筋の少し下部が前後に長く大きく裂けている。右側には、羽根に当たる平たい岩が付根より外れた跡がはっきりしている。その真下に羽根に当る平たい岩が落ちている。両方共に外れた跡口が全く同じである。左側は平たく出張って左羽根を思わせる。又、その様子は麓の部落の方に向って上向きに首を長く伸し、如何にも苦しげに吠え叫ぶようである。」

 この「米噛み岩」は大岩郷の奥の方にあって、子供のころはそこまで行くのが難しい場所でした。その後、大岩郷に行くことも少なくなって、結局一度も「米噛み岩」までは行っていないように思います。日高さんの原稿を読んで、一度「米噛み岩」まで行ってみたいと思うようになりました。さあ、あの岩波を越えて到達できるでしょうか?

 子供のころにこの話を聞いたときにはそのようなことは考えませんでしたが、この「米噛み」は何を表しているのだろうか、と思っています。対抗していた敵対勢力、無理難題を言ってくる領主、人間の力が及ばない自然現象、そのようなものを象徴しているのかもしれないなあ、と思いながら原稿を読んでおりました。

(写真左は日高さんの自筆原稿、右は現在の「米噛み岩」です)

 累々たる大岩のむこう、右上方に「米噛み岩」があります。昔は、岩まで行った証に遠くから見てもわかるように名前を石で刻んで来た、という話を聞いたことがあります。今だったら、天然記念物を損傷する行為で問題になるでしょうが。

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594.山口別院の報恩講にお参りしました

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 11月28日、山口別院の報恩講第に、坊守、岩﨑明さん、吉屋博志さん、井上愛子さんでお参りしました。別院の報恩講は毎年11月26~28日の3日間でお勤めになりますので、28日はその最終日ということになります。

 今回28日は、宇部北組がご奉仕の担当組に当たっていました。
 このご奉仕というのは、報恩講当日に必要な業務について手分けをして担当することで、参拝係(駐車場の整理)や受付・収納係、書籍販売の補助、供物伝供(お供えを行います)などの業務があります。また、参拝予定者約380名分の昼食の配布は担当者全員で行い、さらに、法座終了後には、会場や通路、トイレの清掃、整理も行います。

 宇部北組の担当者は、8時50分に打ち合わせ会場の会議室に集合しました。別院の中村ご輪番(教務所長)および宇部北組の市川組長からご挨拶をいただいた後に、全体の概要の説明を受け、その後各担当ごとに業務について説明を受けました。

 壽福寺はその受付・収納係を担当しました。4か所の受付で、参拝者の受付を行い、御仏前をお預かりし、当日の資料をお渡しするという業務で、その後、御仏前を集計するという業務もあります。
 壽福寺のメンバーは岩﨑さん、吉屋さん、井上さんともう一人の方の4人チームでした。見ていますと、法要開始の10時直前が一番混雑していましたが、このピークを過ぎたところで受付を終了し集計を行いました。
 この集計作業は、御仏前の現金と受付表の金額の合計とが合わなければならないのですが、壽福寺のチームは効率よく作業を行っていただき、合計金額もぴたりと合いました。別院の担当の方によれば、壽福寺のチームはこれまでで一番早く集計が終わったのだそうです。岩﨑さんと吉屋さんは寺の法座でも、受付の仕事をお願いしていますので、「手慣れた仕事」だったのかもしれません。

 その後の、昼食の配布と終了後の清掃、整理も含めて当日は皆さんに大変お世話になりました。お礼申し上げます。

(写真左は、壽福寺のチーム、右は集計作業中です)

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に更新する予定ですので、また覗いてみてください)

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