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593.別院帰敬式

20191129斉藤氏夫妻s

 11月25日、山口別院で「山口別院帰敬式」が執り行われ、山口教区から177名の方が、壽福寺からは齊藤晃治さんご夫妻が受式されました。

 当日は、「正信偈」のお勤めの後式が始まり次の次第で進みました。

 ・「三帰依文」(南無帰依仏 南無帰依法 南無帰依僧)を唱えます
 ・おかみそり(ご導師が剃髪になぞらえて頭に剃刀を当てます)を受けます
 ・法名拝受(代表者が拝受します)
 ・「帰敬文」拝読(代表者が読みます)
 ・その後、ご導師よりお言葉をいただきました

 本山の御影堂で執り行われる帰敬式と同様に、明かりは内陣の燈明だけという厳粛な雰囲気の中で式は進められました。

 ご導師は、3つの誕生という言葉でこの帰敬式の意義をお話しになりました。
 それは、「最初の命の誕生」、「命終わるときお浄土に往き生まれる誕生」、そしてこの帰敬式の「仏弟子となる誕生」の3つです。帰敬式により仏弟子としての命を喜び、自覚しつつ生きることが始まるということになります。

 代表の方が拝読された「帰敬文」にも次のように、その誕生を喜び、み教えに従う決意が示されています。

 「ただいまみ仏様の御前で帰敬式をうけ、浄土真宗のみ教えをいただく者として自覚をあらたにいたしました。
  迷いの世にあるわたくしが、阿弥陀如来のご本願という確かな生きる依りどころに出遭えたことは、まことに大きな喜びです。
  この上は、親鸞聖人があきらかにされた真実のみ教えを聞き、お念仏を称えつつ、すべての人が心やすらぐことのできる社会の実現に努めてまいります。」


 帰敬式は本山の阿弥陀堂で受式するのが原則とされているのですが、本山での受式が難しい方のために別院でも執り行われています。山口別院では、毎年報恩講に先立って11月25日に実施されるのですが、山口教区のように毎年行わている教区は少ないということです。
 これからも多くの方が受式され、仏弟子としての自覚を新たにされますよう、お勧めいたします。

(写真は、式を終えられた齊藤さんご夫妻です)

 ご主人は「大等」、奥さんは「智実」という法名をお受けになりました。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)

 
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592.最近の話題(37):日高実夫氏の自筆原稿

20191125日高氏文書s

 以前、『寿福寺とその里』という冊子をご紹介しましたが、その著者の日高実夫さんの娘さん日高芙美子さんから日高さんが残された自筆原稿をお借りすることができました。

 その中には次のような文書(資料)が入っていました。
 「寿福寺とその里」(400字詰原稿用紙にボールペン書)
 「哀々たる古城址」(罫紙に毛筆書)
 「杉伯耆守の本城 万倉城址の今昔 哀々たる古城址」(400字詰原稿用紙にペン書)
 「郷土の昔噺し 天然記念物大岩郷 所在美祢市伊佐町堀越 奇岩 米噛み岩の噺」(400字詰原稿用紙にボールペン書)
 「国指定天然記念物 大岩郷の存在する 金比羅山の紹介」(400字詰原稿用紙にボールペン書)
 「剣道の本義と目的 美祢市少年剣道倶楽部」(400字詰原稿用紙にボールペン書)
 「士規七則」(「山口縣警察署」銘の入った罫紙にペン書)
 「グライダーの性能及種類 並グライダー普及の狙ひ処」(「山口縣警察用」銘の入った罫紙にペン書)

 先日、芙美子さんが営まれている「まゆみ美容室」に伺って実夫さんやご家族についてお話しを聞くことができました。

 お話しによりますと、日高実夫さんは明治42年(1909年)生まれで、寺のある現在の宇部市奥万倉黒五郎で育たれました。84歳でご往生なされたのですが、「寿福寺とその里」に記されているように、黒五郎の地に哀惜の心を持ち続けた方でした。
 実夫さんは警察官になられ、その後すぐに刑事として活躍されるようになりました。戦争で出征、帰国後警察に戻られた後、退職されたということです。警察での勤務は10年程度だったと仰っておられましたので、余り長くない警察勤務だったようです。
 退職後、歴史に興味を持たれたようで、関連する本を読んでおられ、ご自身も調べたことを文書にされていたそうです。その一部が今回お貸しいただいた原稿だということになります。

 文章を読んでいますと、実夫さんは史実を丹念に調べられる一方で、詩情あふれ古いものを懐かしむ文章をつづっておられることが分かります。

 実夫さんがどのような方だったのかとお聞きしましたら、ひとことで言うと「言い出したら曲げること、変わることがない」頑固一徹な人だったという答えが返ってきました。芙美子さんもお母さんも、そのような実夫さんでしたから、「お手上げ(?)」状態だったというところでしょうか。
 上記の実夫さんの原稿には剣道に関するものが含まれていますが、剣道では礼儀を非常に大切にされたということです。芙美子さんの二人の息子さん(実夫さんのお孫さんに当たります)は野球をやりたかったのだそうですが、実夫さんの「強い」勧めで剣道をされたのだそうです。喜んで学んだ剣道ではなかったのかもしれませんが、礼儀を大事にという実夫さんの志は息子さんを通してその子供さんにもしっかりと受け継がれているようだと、芙美子さんは言っておられました。

 そのようなことで、先にご紹介した原稿についても、「なにか書いている」という感じで、ご家族は内容については全く聞かされておられなかったようで、いま少しずつ残された原稿を開いて見ているという状況のようです。

 私も、今回お借りした原稿を楽しみに少しずつ読んでいきたいと思っています。
 以前ご紹介した冊子の『寿福寺とその里』には、私の父が「日高さんのご労作に接して」という一文を寄せています。その父の自筆の原稿も日高さんの原稿に付されていて、久し振りに父の自筆を目にすることができました。
 
(写真は今回お借りした自筆の原稿です)

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591.最近の話題(36):絵本シリーズ「親鸞さま」(弁円済度)

  20191122絵本s 20191122絵本2s

 11月に入ってからお取越しのお勤めに伺っています。先日、山根裕さんのお宅でお勤めをしました時に、「弁円再度」の話題がもう一度でました。

 以前このブログでもご紹介しましたように、山根さんのお宅には「弁円済度」の場面を描いた掛け軸があります。御絵伝ではなく普通の掛軸なのですが、弁円が親鸞聖人の前で跪いている場面が描かれたものです。

 今回のお取越しでは、本願寺絵本シリーズの第1巻「親鸞さま」という絵本が話題に上りました。
 当日、山根さんの娘さんが「この絵本にも弁円さんの話が載っていることに気づきました」と絵本を持ってこられました。その絵本は、息子さん(裕さんのお孫さんに当たります)の初参式の際に「記念の品としていただいたもの」だということでした。息子さんの初参式ですから、もう30年近く前のことです。

 その弁円済度の場面は、先頭に載せましたイラストに次の言葉が添えられています。

 「親鸞さまは『弟子は一人ももちません』と、同じ念仏をよろこぶ兄弟として人々に接しましたので、念仏に生きるともの集りが大きく広がっていきました。
 しかし、これをよろこばない人もいました。まじないやうらないなどの迷信をすすめていた山伏の弁円です。弁円はおこって親鸞さまをころしてしまおうと、山でまちぶせをし、ついには庵にまでおしかけました。親鸞さまはいつもとかわりないようすで、話をこころよくお聞きになりました。
 弁円は、親鸞さまのかざりけのかいお人がらや、お念仏に生きるやさしさときびしさにふれ、ふかくこころをうたれました。そして、親鸞さまとともにお念仏をよろこぶようになりました。」

 親鸞聖人と弁円の出遭いの逸話に30年を超えて再会されたということになります。

 この絵本は手元にありませんでしたので、一時お借りして読ませていただきました。

 この「弁円済度」を始め、「六角夢想」や「信行両座」、「信心諍論」の逸話も取り上げられていて、御絵伝に基づいた記述になっていますが、御絵伝には取り上げられていない、衆生救済のために三部経の千回読誦を始められ途中で中止されたという逸話やそのことを17年後に思い出されたこと、善鸞義絶の経緯なども記されていて、子供さんには少し難しいかもしれませんが聖人のご生涯とみ教えを学ぶことができる本になっています。

 興味を持ちましたのは、この絵本では親鸞聖人は越後国で恵信尼公と結婚されたとされている点です。
 私は聖人は京都で結婚されたものと思っていましたが、ご結婚の時期についてはいまでも様々な議論があるようで、京都で結婚されたとする考えはかつては有力な説ではなかったのかもしれません。

(図の左は、「弁円済度」を記したページ、右は、絵本の表紙の部分です)

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590.歴史を訪ねる(24):真宗高田派本山専修寺


 先にご報告しましたように、念仏奉仕団の3日目は、長島一向一揆に関わるお寺の桑名市長島の願証寺にお参りした後に、津市にあります真宗高田派の本山専修寺にお参りしました。
 真宗高田派は、先に学びましたように親鸞聖人が常陸国におられた頃の有力な門徒集団であった高田門徒にその起源持っています。

 高田門徒は、聖人の高弟であった真仏師を中心として高田(現在の栃木県真岡市高田です)の地に形成された門徒集団でした。
 最初、高田の地に念仏の道場「専修寺」が建立されました。1225年といいますから、親鸞聖人が『教行信証』の草稿を完成された翌年になります。本尊には長野の善光寺に由来する一光三尊仏(一つの光背を背に阿弥陀さまを中心に観音菩薩、勢至菩薩の三尊をいただいた像です)を迎えられ、これが今も高田の専修寺の本尊として伝えられています。

 その後、「その門下は関東から東北地方、東海地方に及び、初期浄土真宗の中心的な位置を占め、大谷廟堂の護持にも尽力した」(『浄土真宗辞典』)有力な浄土真宗の門徒集団となりました。

 専修寺の第10代法主、真慧(しんね)師は、東海、北陸方面に教線を広げた「中興の祖」とされる方で、津の一身田に伊勢国の中心寺院として「無量寿院」を建立されました。文明年間とされていますので、1469年から1487年の頃ということになります。
 その後、戦国時代に高田の専修寺が戦火で焼失したこともあって、一身田の無量寿院が高田派の本山とされるようになりました。これが現在の「本山専修寺」で、一方の高田の専修寺はその後再建され「本寺専修寺」として継承されています。

 その間、本願寺と高田派(高田門徒)との間では、一向一揆の中で敵味方に分かれて戦ったり、勢力争いを繰り広げたりと、様々な経緯がありましたが、現在では真宗教団連合(真宗の十派の連合)として共に親鸞聖人のみ教えを広げる活動を行っています。

 念仏奉仕団のメンバーは、本山専修寺のご担当の方に境内や建物の中を案内していただきました。
 山門を入りますと、広い敷地の右手に親鸞聖人の木像を安置する「御影堂(みえいどう)」、左に阿弥陀さまの木像を安置する「如来堂」が配置されていました。本山専修寺の伽藍も二度の火災に見舞われたのだそうですが、再建された両堂は2017年に国宝に指定されています。
 境内や両堂を案内していただき、伽藍建築のご苦労や見どころについて、時にユーモアも交えて説明をいただきました。

 御影堂、如来堂に向かってそれぞれ切石を敷いた通路がありました。その石の縦の列が、御影堂では18列、如来堂では17列になっていると説明がありました。それぞれ四十八願の第十八願、第十七願にちなんで設けられたのだそうです。

 また、以前にもご紹介したことがありますが、善光寺との関わりを示しているとされる「高田の一本松」を拝見することができました。仏花にかわるものとして、大きな花瓶に大きな松が一本だけ生けてありました。案内の方は「花を生ける必要がないから簡単そうに見えるかもしれませんが、これも大変なのです。」と言っておられました。そのために松を栽培しているのだそうです。

 親鸞聖人は1232年頃には京都にお帰りになりましたが、京都に戻られてからも、関東の門弟方にお手紙を送り、あるいは書写した書物を送るなどして引き続きみ教えをお伝えになりました。そのようなことから、多くの聖人直筆のお便りや書物が高田派に伝わっています。それらは境内の宝物館に収められているのですが、残念ながら現在は工事のために閉館されていて拝見することができませんでした。

 次の写真、左は如来堂の内陣、右は如来堂の外観です。いずれも専修寺さんのHPからお借りしています。
 左の写真に「高田の一本松」が写っています。右の写真では、複雑な組物を見ることができます。

    20191118専修寺4     20191118専修寺3

(最初の写真の左は御影堂、右は如来堂です。写真は自身でも撮影したのですが、よい写真がなくネットからお借りしました。)

 切石の列を数えると、確かに18列、17列になっています。
 御影堂は1666年に、如来堂は1748年に完成しました。如来堂の建設に当たっては、軟弱な地盤に苦労され、建設資金にもご苦労があったと逸話をお聞きしました。

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589.掲示を変えました

20191115掲示   20191115掲示2 

 報恩講をお迎えするに当たり、掲示を変えました。掲示は、次回の法座のご案内と「ひとこと」の2枚を貼っています。

 今回の「ひとこと」は次の通りです。

 「終わりある命、見まもられ 輝いて生きる」

 この季節になりますと、喪中の連絡をいただくはがきが来るようになります。データをとっているわけではありませんが、ここ数年その数が増えてきたように感じています。もちろんその中では先輩や年長者の方に関するものが多いのですが、同年輩や後輩に関するものも増えてきています。
 あの時会ったのがのが最期だったのだなあ、もう一度お会いしたかったなあ、などと思うことが多くなりました。

 今回の掲示の言葉は普通にいうと「限りある命、見まもられ 照らされて生きる」といったような言葉になるのでしょうか。

 「限りある」と「終わりある」ですが、「限りある」というとどこか他人事のような語感があるように思えて、「終わりある」にしました。喪中はがきでその感を強くしたところもあります。

 「照らされて」と「輝いて」ですが、この終わりある命を「輝いて」生きていたい、という思い、しかし私が「輝く」といっても、それは私自身が輝くのではなく、私は照らされて輝くのだという思いです。私を見まもり照らしていただく方があって、この命には終わりはあるが、その時それで終わる命ではない。だからこそこの終わりのある命を力いっぱい生きてくれと呼びかけられる声があり光があります。その光を受けて私は明るく輝いて生きていけるのだ、という思いです。その意味では、私は自ら光を発する「恒星」ではなく照らされて輝く「惑星」ということになるのでしょうか。

 また、春の法座でご講師が紹介された岡本かの子さんの歌を思い出しておりました。かの子さんは、
 「年々にわが悲しみは深くして いよよ華やぐ命なりけり」
 と、詠まれていました。

 年を重ねるに従って、背に負う「老病死」の苦しみや悲しみはいよいよ増していきます。しかしかの子さんは、苦しみや悲しみがあって死に至ればそれでおしまいという命、ではない命に気づかれ、それを「いよよ華やぐ命」と詠まれました。阿弥陀さまに見まもられ、命終わる時に間違いなく新しい命を生きる、ということを聞かせていただき、私の命は「華やぎ」、「輝く」ものになるのだと聞かせていただきました。 
 
(写真は、掲示の言葉と石段横の掲示板です)

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588.報恩講をお勤めしました

20191111集合写真

 昨日、11月10日に報恩講をお勤めしました。少し肌寒さを感じる天候でしたが快晴に恵まれ、ご講師の尾寺俊水師のご法話をお聞きすることができました。

 ご講師は、私たちを救いたい、一人残さず救いたいと願われた阿弥陀さまのご本願は「南無阿弥陀仏」の名号となって私たちに届いていただいているとお示しいただきました。私たちがその名号に遭わせていただいたとき、これまでの一つひとつの出来事が全てそのご縁に遭わせていただく因となっていることに気づかされる、とお話しされました。
 それはまず、人間として生を受けたという最も大事な因に始まり、ご先祖、その後お会いした方々、今日までの全てのことが、私がご本願に出遭うことができたことにつながっているということになります。

 ご講師は一人の方の例をお話しになりました。
 その方は長く農業に携わっておられた方なのですが、若い頃からお寺に参ることが楽しみだったということです。その楽しみというのは、ご法話をお聞きする楽しみではなく、毎月4日間のお寺参りの日は、仕事が休みになり当日はおときをご馳走になることができたからなのだそうです。そしてお寺ではゆっくりと眠るのが楽しみだったのだそうです。
 でもその後、ある時に急にその方はお寺でお聴聞することの「楽しみ」に気づかれたのだそうです。それは、それまでに別の理由だったにしてもお寺に参ることを楽しみにしていたことが遠い因となっていたのだとご講師は説かれました。

 このようにしてたくさんのご縁により私に届いていただいた南無阿弥陀仏の名号は、間違いなく私を救うと言っていただく声なのです。私を間違いなく救うと、お示しいただいた他力のご本願は、「この今」示していただく呼声です。

 ご講師は、自力の救いは入学試験の結果を待っているようなものだと話されました。
 入学試験が終わってからその結果の発表があるまでの期間は、心理的には非常に不安定になります。合格しているだろうと思う時もあれば、あそこがうまく行かなかったらダメなんではないか、と心は揺れ動きます。そして、その結果は試験結果の発表の当日まで分かりません。
 自力で積み重ねた努力の結果は、私の命が終わる時になってみないと分からない頼りにならないものだとご講師は言われました。勿論、試験勉強で努力してもだめだ、ということではありません。そこでは、結果が分からないからこそ、全力を尽くす必要があります。
 しかし、煩悩から自由になれずにいる私が救われる道は、阿弥陀さまが私に向けられた南無阿弥陀仏の願いに気づき、願いに出遭った時に直ちに確かなものにしていただいものなのです。決して私たちがつとめて手にできるものではないと、ご講師はお伝えいただきました。
 この今、阿弥陀さまの願により、私は救われることが間違いないと知ることができました。そのことを励みとして限りある日々を感謝のうちに過ごしたいと改めて思いました。

 今回も多くの方にお世話になりました。
 すでにご報告しておりますように、10月31日には総代さんに境内や駐車場、参道周辺の草刈りをお願いしました。
 また、前日には仏教婦人会の井上愛子会長、志賀信子会計監査、山本信子さんに伝統料理「けんちょう」の準備と、本堂の会場設定をお願いしました。
 法座の当日は、総代の井上啓志さん、岩﨑明さん、吉屋博志さんに受付をお願いし、仏教婦人会の井上幹子さん、江木都美恵さん、齋藤智代さん、志賀信子さん、石川ハルミさん(下の写真左から)におときの準備から給仕、後片付けまでをお願いしました。

 おかげさまで滞りなく報恩講をお勤めさせていただきました。

 写真左は、おときのお世話をいただいた5名の方です。レンズが曇ってかすんでいます。
 右は、当日のおときです。仕出しの食事とけんちょうと味噌汁、小餅、ミカンです。これまでおときの写真を載せたいと思いながら、気がついたら箸をつけていたということで写真がなかったので、今回初めて登場です。

    20191111おとき     20191111おとき2

(集合写真ですが、明暗がはっきりしし過ぎて後ろの方は暗くなってしまいました)

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587.御絵伝に見る親鸞聖人のご生涯 (41):下巻補(3)

20191108交名牒 (2)

 前回は、親鸞聖人が関東におられた頃の門弟の方々がどのような人々だったのかということについて学びましたが、今回は、この門弟方についてもう少し具体的に学びたいと思います。
 いずれも『御絵伝』では触れられていないことです。

 『親鸞聖人門侶交名牒(しんらんしょうにんもんりょきょうみょうちょう)』という書があります。親鸞聖人の面授の(直接教えを受けた)門弟方の名前や所在地を列記したものなのですが、この内容によって聖人のお弟子さんの数や師弟関係を知ることができます。

 この書によりますと地域別の門弟の数は、つぎのようになります。(笠原一男氏の『親鸞と東国農民』を引用させていただきました)
  常陸国(現在の茨城県の大部分です)19人
  下野国(栃木県)5人
  下総国(現在の千葉県北部、茨城県南西部、埼玉県東辺部、東京都東辺部)4人
  陸奥国(現在の青森県、岩手県、宮城県、福島県、秋田県北東部)6人
  武蔵国(東京都、埼玉県、神奈川県の一部)1人
  越後国(新潟県)1人
  京都8人
 他に4人の孫弟子があり、総勢は48名となっています。
 (こうして見ますと、聖人がおられた常陸国に面授の門弟が多かったことが分かります。また、越後国の門弟が一人だけというところから、聖人は越後国では積極的な布教活動をしておられなかったのではないかとする見方もあるようです)

 これらの面授の有力な門弟方はさらに自身の門弟(聖人から見ると孫弟子に当たります)を持つようになり、それらの門弟を中心にして多くの信者(門徒さん)が集っていたと考えられています。笠原一男氏は、その信者のすべての数は万をはるかに上まわるだろうとされています。
 そしてこれらの直接、間接の門弟方はそれぞれの在所に自身の道場を構えていました。多数の信者はその道場でみ教えを聞くことにより、地域の門徒集団を形成していきます。

 このように道場を中心にしてまとまった集団は、高田門徒、横曽根門徒、鹿島門徒などと呼ばれる有力な集団を形成することになりました。
 聖人の直弟子の真仏師を中心として高田(栃木県真岡市高田)の地に形成された高田門徒は、その後本山を三重県に設けて現在の真宗高田派へとつながり、横曽根門徒は親鸞聖人の直弟子性信師を中心として横曽根(茨城県常総市横曽根)の地で形成され、後の真宗木辺派の系統につながることとなります。鹿島門徒は、現在の鹿島神宮である常陸国鹿島明神の大宮司の子息で、親鸞聖人の直弟子となった順信師を中心に鹿島(茨城県鹿嶋市)に形成された門徒集団でした。
 
 これらの門徒集団の形成は、一面では親鸞聖人のみ教えを広げ、聖人の支援を行うについて大きな力となったものと思われます。その一方で、集団の中心になった門弟はその信者を自分の弟子と考えるようになり、集団と集団との間では、互いに競い合い、時には信者を奪い合うというような動きにつながったこともあったようです。親鸞聖人が関東におられた頃には、聖人の周辺でこのような環境が形成されつつあったということになります。

(図は『親鸞聖人門侶交名牒』の一部です。真仏、性信、順信など門徒集団の中心となった方々の名前を見ることができます。)

 この写真は、笠原一男氏の『親鸞と東国農民』よりお借りしました。 

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586.御絵伝に見る親鸞聖人のご生涯 (40):下巻補(2)

20191104西念寺s

 親鸞聖人が関東におられた頃のことをもう少し学びたいと思います。今回は、関東でのお弟子さん方に関することです。

 『御伝鈔』の記述で、関東時代の聖人とお弟子さんの様子を伝えるものは、下巻第二段の「稲田興法」および第三段の「山伏済度」でした。
 前者では、稲田で聖人はひっそりと住まわれるつもりでしたが僧尼や一般の在家の人々が次々とやって来て、門前は民衆で一杯になったと伝えられ、後者では、聖人が説かれた専修念仏に対してそれを疑ったり、そしったりする人は少なく、信じて従う人がほとんどだったと伝えられます。しかしそのような中で、聖人の命を狙った山伏がいたのですが聖人のお姿に接することによって、聖人のお弟子になったという逸話が伝えられます。

 関東で聖人のお弟子さんになられた人々はどのような人だったのでしょうか。

 平家が滅亡し鎌倉幕府が成立した1185年は、親鸞聖人は12歳の頃になり比叡山で修行されていました。1207年の承元の法難により越後国に配流となられたのは三代将軍源実朝の時代、常陸国に向かわれた1214年頃も同じく実朝が将軍の位についていた時代です。
 1221年、聖人が関東に移られてから7年の頃になりますが、後鳥羽上皇が幕府に対して兵をあげ敗れた承久の乱は、朝廷と幕府の力関係が逆転する事件となり、関東が重要性を増していった時期に当たります。それに伴い、関東では農業だけではなく商業に関わる人々も増え、社会は武士、商工業者、農漁業者といった多様な構成になっていったものと考えられます。さらにその農業従事者も、名主層から小作層までの階層化が進んでいったとされます。
 また笠原一男氏は著書『親鸞と東国農民』の中で、当時の関東の宗教のありさまについて「天台・真言等の平安仏教一色に塗りつぶされていた時である。」さらに「奈良仏教諸宗も、なお強固に自己の在立を主張し続け」ており、「また一方、神社信仰は旧仏教諸宗の発展に、勝るとも劣らぬ普及力を以て、東国農村のすみずみまで様々の神社を設置していた」とされています。

 越後から移られた親鸞聖人が説かれたみ教えは、このような関東でどのような人々に受け入れられたのでしょうか。そのことに関する具体的な記録は見当たらないようで、これまで様々な見解が出されています。

 赤松俊秀氏はその著『人物叢書 親鸞』の中で、多くの説を紹介しながらこの問題を次のように整理しておられます。
 「山田文昭氏は、門弟のうちには地方の豪族もあったが、多くは田夫野人であったと説いている。(中略)服部之総氏はそれを一歩進めて、親鸞の立場は、「領家・地頭・名主」に対立する意味の「百姓」の耕作農民に置かれていたと主張した。笠原一男氏も基本的には服部説を是認している。家永三郎博士は服部説に反対して、悪人正機の親鸞の宗教の社会的基盤としては耕作農民より武士階級の体験を重視すべきであると主張している。親鸞の宗教成立の社会的契機をなにに求めるべきかという問題については、罪悪感を重視する家永博士の論に共鳴するが、親鸞は源空ほどに武士の精神生活を高く評価しなかった。門弟としては、武士よりも名主・商人出身のものが数も多く、宗教体験の面でも彼らをより重視すべきである。」

 このように聖人が関東におられた当時、どのような人々が聖人のみ教えを受け容れ支えたのかということについては定説となるものがないようです。
 ただ、この問題は時代の流れの中で捉えられなければならないと思います。聖人が最初に関東に入られた頃、その後の期間、さらには京都に戻ることを決心された頃、それぞれの時期に聖人を支えていた人々は広がり、その結果変わっていったと考えられるのではないかと思います。
 大きく捉えると、聖人が関東に移られた当初は、その地の人々、それまで在来の仏教から取り残されていた人々の間に聖人のみ教えが浸透していったのではないかと想像しています。その後、関東の地で力を持っていた階層にも広がり、多くのお弟子さんが聖人をお支えするようになったのではないでしょうか。
 また、そのように聖人を支持する人々が広がっていくことにより、ちょうど京都で生じたようにそれに反発する人々も増えたことは容易に想像されます。さらには、聖人の周りのお弟子さんの中にも様々な動きをする人があり、そのような複雑な環境の中、親鸞聖人はみ教えを説かれていたと思われます。

(写真は、稲田の草庵跡に建てられた西念寺です。山口教務所が発行された「御絵伝に見る親鸞聖人のご生涯」のCDよりお借りしました。)

 門前の碑には、「親鸞聖人 教行信証 御制作地 浄土真宗別格本山」と記されています。同寺は宗派に属さない単立寺院です。

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585.報恩講に向けて草刈りをお願いしました

IMG_5009.jpg

 10月31日、来月の報恩講に向けて境内と周辺の草刈り清掃をお願いしました。

 いつもは土日に行っていましたのを平日に実施しましたが、12名の総代さん(代理の奥さんを含めて)にご協力をいただきました。

 当日参加できないからと岩﨑昌彦さんがあらかじめ参道の草を刈っていただいていたこともあって、駐車場、石段周辺、参道と境内の草刈り、清掃を1時間で終わることができました。
 この範囲を一人や二人でやろうとなると、その労力は大変なものです。多くの方のお力添えをいただいてスムーズに作業を終わることができました。厚くお礼申し上げます。

 報恩講は次によりお勤めいたします。当日は、天皇のご即位を記念するパレードが入りましたが、是非お参りいただきますようご案内いたします。

1.日時
 11月10日(日)10:00~(午前、午後)

2.場所
 壽福寺本堂

3.ご講師
 尾寺俊水師(豊田組 清徳寺 ご住職)

4.その他
 おときをご準備します。(仏教婦人会の皆さんには大変お世話になりますが、よろしくお願いします)

(写真は、作業が終わってからの集合写真です)

 岩﨑明さんはまだ作業中で写っておられません。

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