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584.歴史を訪ねる(23):長島願証寺(2)

20191028長島地図  20191028長島地図2  20191028長島地図3

 10月21日~23日に実施されました念仏奉仕団の本山での奉仕活動は22日の午前中で終わりました。
 昼食を摂った後、参加者一同はバスで三重県方面に向かい、桑名市長島町の「なばなの里」でベゴニアガーデンを見学の後「ガーデンホテルオリーブ」に宿泊しました。

 翌23日には、同じ長島町にあります浄土真宗本願寺派の願証寺さんにお参りしました。この願証寺さんは、このブログでも取り上げました長島一向一揆の拠点となったお寺です。もともとあった願証寺さんはこの一揆の敗北によって破却されましたが、その後現在地に再建されました。

 当日はご住職にバスまで迎えに来ていただき、ご案内をいただきました。
 このブログでご報告していましたように、長島一向一揆と願証寺さんについては今回の念仏奉仕団の「しおり」を作成した際に資料をまとめる機会がありましたので、概要については理解をしているつもりでおりました。しかし、実際にその戦いが行われた地に立ってみると、単なる知識だけでは及ぶことができない実感をもって当時のことを感じることができたように思います。

 ご住職から、一揆の当時使われていたという一本の槍を見せていただきました。手に取ってみるとズシリと手ごたえを感じるものでしたが、これは当時織田信長の軍勢が使っていたものと比較すると非常に短いものだったのだそうです。長島の地で行われる戦ですから、長い槍では生え茂った芦などの中では動きがとれないということになります。同じように足元がぬかるんだ地では、重い甲冑などで足をとられて動きがとれず信長勢は苦労した、などこの地形を生かした戦い方で信長勢に抵抗した様子を聞かせていただきました。
 当日いただいた資料にも、一揆勢は長島の輪中(集落を洪水から守るための堤防に囲まれた地域のことです)地帯の地形を生かして、信長軍をいったん輪中の中に引き入れて夜陰にまぎれて堤防を切り濁流の中に閉じ込める、といったゲリラ戦法を用いたことが記されていました。

  当日、宿から願証寺さんに向かう途中に、稲刈りが終わった田に水が「張ってある」ように見えるところがたくさんありました。これから耕作するために水を張ったのだろうか、と話しながらバスで移動したのですが、後でお聞きしたら以前の雨の水がまだ引かずに残っているということでした。海抜とほぼ同じ高さの地ですから、このような困難も抱えているということを知りました。
 長島全体を囲っていると思われる堤防が遠くに見え、輪中の間の利益の相克、同じ輪中の中での上流と下流の争いなどがあったという情報もあり、この地区が海抜ゼロメートル地帯にあって押し寄せる水と戦いながら、あるいは折り合いをつけながら存在してきたのだということを感じることができました。

 願証寺さんはまじかに住職継職の法要を控えておられ、本堂も工事中という慌ただしい中で、貴重なお時間を割いていただきました。ユーモア溢れるお話しも交えて印象に残るひと時をいただきました。厚くお礼申し上げます。

(写真左2枚は当日本堂に置かれていた地図、右は当日いただいた資料の一部です)

 左の2枚はいつの時代の地図なのかよく分かりませんでしたが、時代によって島の姿が変わっていることが分かります。あるいは、洪水が発生するたびに島の姿が変わるくらいに水の力が大きかったのかもしれません。

 右は「信長と長島一向一揆」というタイトルの資料で、長島町から発行されたものです。
 今回「しおり」に使いたいと思って、ネットで「長島」「地図」をキーワードに検索して見つけた地図は、この地図だったようです。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)

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583.宇部北組念仏奉仕団に参加しました

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 先にご案内しておりました宇部北組の念仏奉仕団が、10月21日~23日に実施されました。
 
 この念仏奉仕団は、昭和23年の蓮如上人450回遠忌法要を機に自主的に始められ、昭和28年にはその仕組みが整えられたものですから、、もう60年を超える歴史を持っています。現在では一泊二日の日程が定着し、その間に本山の阿弥陀堂、御影堂や境内地などの清掃、掃除活動を行っております。
 今回の宇部北組の奉仕団は38名の参加者で実施され、壽福寺からは岩﨑明さんと住職、坊守が参加しました。
 
 出発から2日目午前中までの内容を簡単にご紹介しておきます。

1日目(10月21日)
 新山口駅集合・発⇒新大阪駅着⇒(以後はバスにて)⇒大谷本廟参拝(希望者は納骨を行いました)⇒念仏奉仕団開会式(本山)⇒清掃奉仕⇒抹茶接待(書院にて)⇒書院見学(希望者)⇒ご法話⇒解散・泊(本山近くの「緑風荘」)

2日目(10月22日)
 本山にて晨朝勤行参拝⇒(希望者は帰敬式受式)⇒ご門主ご隣席のもと記念撮影・ご面接⇒清掃奉仕⇒飛雲閣庭園見学(希望者)⇒念仏奉仕団閉会式・解散 

 今回の清掃奉仕では、一日目は御影堂内の清掃、二日目は湿らせた雑巾で御影堂周辺の廊下および渡り廊下を拭きました。お寺では行事を開始する合図に喚鐘(かんしょう)が打たれますが、これは本山での喚鐘にならったものです。本山ではこの鐘のところに至る廊下は「喚鐘廊下」と呼ばれていて、通常は立ち入ることができませんが、当日この喚鐘廊下の雑巾がけも行いました。
 参加者は、(女性はエプロンの上に)門徒式章、奉仕団のたすき(参加団体ごとに色分けされています)をかけて清掃を行いました。たくさんの方が一緒に清掃を行うと早いものです。広い御影堂の内部や廊下もきれいに清掃が完了しました。
 皆さん、ご苦労様でした。

 岩﨑明さんは、2日目に帰敬式を受式されました。
 帰敬式は「おかみそり」とも呼ばれるもので、「仏祖に帰依崇敬(きえそうきょう)の意(こころ)をあらわす儀式」で、本願寺御影堂のおいて行われることが基本となっています。
 晨朝のお勤めの後に受式者の方に残っていただき、本堂の照明は消され、内陣の燈明だけの中で帰敬式は厳粛に執り行われました。
 式では、受式者は三帰依文(「南無帰依仏 南無帰依法 南無帰依僧」)を唱えた後、剃髪になぞらえて頭に剃刀を当てられ、その後法名を授与されました。

 このように帰敬式では法名(仏法に帰依し、お釈迦さまの弟子となった人の名前)をお受けいただきます。
 ご門徒さんのご葬儀で、初めに住職が「おかみそり」を行うことがあります。しかし、これは生前に法名をお受けいただけなかった方に対するいわば緊急の措置ですので、是非皆さんに帰敬式をお受けいただきたいと思っております。

 二日目の午前中で奉仕活動は終わり、以後は三重県に移動、真宗に関わりのあるお寺にお参りし、観光を楽しみました。

(写真左は一日目、御影堂の清掃活動、右は二日目、喚鐘廊下からみた清掃活動の様子です)

 御影堂では、写真でも見えますように、阿弥陀堂内陣の補修工事の間、阿弥陀さまのお像を御影堂の中央の須弥壇にお移しし安置しています。

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582.雨漏りの修理をお願いしました

20191021屋根補修s  20191021屋根補修2s

 しばらく前から強い雨が降った際に、庫裏に雨漏りがするようになっていました。

 その話をしましたところ「見てみましょう」ということになって、10月15日に今橋庄二さんと田中光明さんに点検と補修を行っていただきました。
 点検したところ瓦にずれが生じていてそれが雨漏りの原因だろう、ということで、ずれていた瓦の補修と屋根に溜まっていたスギやササの葉を掃除していただきました。瓦というのは強風などでずれるということがあるのだそうです。これは初めて知ることでした。
 お二人は屋根の上で作業をされたのですが、住職は集めていただいた葉を「地上」で受けとるという作業でした。屋根に上がって瓦を割ってしまうことを心配するのと屋根に上がるのに今一つ自信がなかったからです。
 お二人から、瓦を割らずに屋根に上がって作業をするコツをお聞きしましたので、これからは自分でも対処ができそうです。

 おかげさまで、その後の雨では雨漏りは発生しませんでした。お礼申し上げます。

 屋根に上がって作業をする、ということで思い出したことがありました。今から30年以上も前になるのですが、福井県の敦賀市にある工場で勤務したことがあります。
 北陸の南限(?)に当たる敦賀も年によっては大雪に見舞われることがありますが、一度豪雪の年に出会ったことがありました。そのような時には豪雪対策が必要になります。通路を確保するための除雪はもとより、工場の屋外消火栓をいつでも使えるように「掘り出しておく」ことや屋根の雪下ろしも必須の作業となります。
 雪下ろしを実施するとなると、朝出勤したらそのまま屋根の上り、昼食で一度下りますが終わったらまた屋根に上る、で一日が終わるといったことになります。
 その時は、私も屋根に上って雪下ろしをやりました。これがなかなかきつい作業なのですが、いま思い返してみると、その時一緒に屋根で作業していた従業員の方は、会社が終わって家に帰ってからも自宅の雪下ろし、公共施設(その中にはお寺も入っていたことでしょう)の雪下ろし、と文字通り終日雪と格闘しておられたことになります。
 私の方は、申し訳ないのですが、経験したことのない大雪でちょっとワクワク気分もあったように記憶しております。

 以前ご報告しました大雨の被害に際しても、また雪の日も、そして今回も多くの方に支えられていることを改めて思い起しております。
 
(写真左は屋根で作業していただいているお二人、右は葉を取り除いた屋根です)

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581.山口真宗教学大会に出席しました

20191018田中氏s  20191018バッジs

 10月11日、山口別院で開催されました第33回山口真宗教学大会に出席しました。
 この山口真宗教学会は、1987年に「山口教区に於ける真宗教学の研鑽振興を期すること」を目的として設立された組織で、教学大会を始め研究会の開催や会報の発行などの活動を行っておられます。
 当日は、その教学大会で総会に引き続き研究発表および記念講演が行われました。

 記念講演は「アメリカ仏教における浄土真宗ー日本を含む現代仏教としてのモデルとなるかー」という演題でご講師にケネス田中氏を迎えて開催されました。
 田中氏は美祢市出身だと仰っておられましたが、若くして日系二世のご両親とともに米国に渡られ、米国の大学で仏教について学ばれた方で仏教学者として国際的に活躍しておられます。

 氏の講演のポイントは、「先進国での宗教のあり方が変わりつつある」、「そのことが日本の仏教に対して与える影響について考えなければならない」ということでした。

 氏によれば、先進国での宗教のあり方が「信じる宗教」から「目覚める宗教」に変化しつつあるということです。当日配布されたのとは別の情報なのですが「キリスト教から仏教に改宗した人たちに尋ねると、キリストの復活を「信じる」ことより、煩悩による誤った見方を是正して自らが「目覚める」ことを究極の目的にする仏教の考え方が魅力的だと答える人が実に多い。」という文章がありました。
 ここでは、「目覚める」ということは煩悩による誤った見方を棄てて、正しい見方を身につけ、自らが目覚めることをめざす道が示されているようです。私自身がブッダ(目覚めた人)になることを目指すものです。氏も仰っておられましたが、海外で禅に対して注目が集まっているのはそのことを反映しているようですし、「瞑想」(「マインドフル瞑想」と呼ばれるものもあるようです)もその方法として広く行われているということです。

 氏は当日の資料の「まとめ」の中で、次の4点を記されています。
 「真宗の理解はアメリカでは、「目覚める宗教」的な捉え方が主流である。但し、「信じる宗教」的な捉え方も、熱心(熱烈?)な少数の改宗者の間で見られる。従って、真宗において「幅広い解釈」(ができる)」
 「この「目覚める宗教」的な捉え方は、釈尊や親鸞の教えに沿っている」
 「この「目覚める宗教」的な捉え方は、現在、特に先進国に高まっている。これも欧米人が仏教へ興味を持つ要因になっている」
 「同じ傾向は、仏教に興味を持つ日本の若者にも顕著である。そういう意味でも、本研修会のテーマの示唆となると思われる」
 
 講演をお聞きしていて、感じたことを記しておきます。

 まず、重要なキーワードである「目覚める」ということの受け止め方が難しいものだと、改めて感じました。
 欧米で「目覚める」宗教に注目が向けられているという場合の「目覚める」は、「煩悩から自由になって正しい見方ができるようになる」、という意味で使われているように思われました。そのために禅宗のように座禅をする、あるいは流行を迎えつつあるという「瞑想」に取り組む、ということが重要だとされるようです。
 そのようなときに私たちは煩悩を克服して正しい見方ができるようになるのだろうか、正しい行動がとれるようになれるのだろうか、という問いがいつも頭に浮かんできます。そうしたい、そうしなければならないと思いながらも、気がつけば自分中心にものを考え、怒り嫉みから自由になれない、そのような私たちの姿が浮かんできます。

 そのような私たちでも、「そのままでいい」と受け止めていただく阿弥陀さまがおられる、阿弥陀さまにお任せするしかない、と気づかせていただくこと、そのことが「目覚める」の意味ではないか、と思います。
 とすると、私たちは「目覚める(気づく)」から「信じる(お任せする)」となり、氏が言われるアメリカでの動きとは逆の方向に進んで行くのだともいえるかもしれません。
 田中氏がお話しの中で紹介された「一般仏教は目覚めだが、真宗は救済教だ。」という真宗学の大学教員(多分米国の人だと思います)の言葉は、そのことを言い表しているのかもしれません。

 次いで、「瞑想」をどのように位置づけるかということです。講座の中でも実際に「念想(瞑想との違いはよく分かりませんでしたが)」をする機会がありました。
 田中氏から求められたアンケートの設問に、次のような念想に関するものがありました。(  )内は私が記載した回答です。
 「今日行った念想は、「自力」の行だと思いますか?」(思わない)
 「日本の真宗活性化のため、念想のような行いをもっとした方が良いと思いますか?」(分からない)
 最初の設問ですが、念想を自分の力で煩悩から自由になろうとするのではなく、自身の姿を振り返り気づくための方法とすることもできるように思い、この回答にしました。後の方の宗教活性化との関係は、判断が難しいというのが実感です。「はやりの」瞑想と「気づき」の違いをどのように理解してもらえるか、というような課題があるように思いました。

 会場の役員からの声にありましたように、日本の仏教の多くが「家の仏教」になっている点が、欧米との大きな違いではないかと感じています。「信じる」から「目覚める」あるいは逆の動きであっても、その前に「家の仏教」を残しつつも、それと併せて「私一人の仏教」への転換が必要なのではないかと感じました。

 いずれにしても、今回の講座で、米国での宗教の動きや米国で仏教や浄土真宗がどのように受け止められているのかということについてその一端に触れる事ができました。この点についてはさらに学んでいきたいと思います。

(写真左は講演中の田中氏、右は当日会場でいただいたバッジです。)

 このバッジについて少し補足しておきますと、当日会場入り口に5種類のバッジが置いてあって、気に入ったのを一つ差し上げます、ということになっていました。このバッジはアメリカ仏教伝道協会が伝道の「道具」として配っているもので、衣服やカバンに付けてメッセージを活かしてもらうものなのだそうです。
 このようにバッジを使って「伝道する」というのもアメリカ的だなと感じました。

 私はこの「What if the show ends tonight ?(今晩が人生の最後だったらどうする?)」のバッジを選びましたが、他の4つは次のものでした。(カッコ内はいずれも田中氏の資料に記された翻訳です。)
 "Hatred is not Overcome by Hatred"(怨みは怨みによって治らない)
 "Could I be Wrong ?"(もしかしたら、私が間違っているかも)
 "Does it really matter ?"(それは、それほど気にしなければならないものなの?)
 "Bothered by G.A.S. ?"(三毒に惑わされていますか?):G(Greed)=貪欲、A(Anger)=瞋恚、S(Stupidity)=愚痴の三つの煩悩で「ガス」です。 

 このバッジの「What if・・・」でふと思い出したことがありました。
 それは、高校時代ですからもう半世紀以上も前なのですが、この「What if・・・」で始まる文章には二つの意味(ニュアンス)があると教わったことです。
 それは「・・・ならどうしよう」と「・・・だとて何をかまうことがあろうか」の二つニュアンスなのですが、それからいくと上の「what if 」は前者のニュアンスのように思われます。しかし、死が間違いなく来るものだと知り、死について恐れを持たず、今を力いっぱい生きている者にとっては、このバッジは「今晩が人生の最後であるとしても、一向にかまわない」という思いを表してくれるものにもなりそうです。
 大昔のことを突然に思い出させてくれるバッジでもありました。

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580.最近の話題(35):草引きの新兵器です

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 報恩講に向けて、少しずつ境内の草引きを行っています。
 雨が降って少し湿り気のあるくらいが一番草引きに適しているのですが、なかなか思い通りに行かないものです。

 その草引きの道具に新兵器がありました。先日ご門徒さんの杉山昭彦さんご夫妻が来られて、これがいいですよ、と勧められていただいたものです。

 写真に新旧3代にわたる草引き道具(なんという名前なのでしょうか?)を並べてみました。

 一番左は、私がこちらに帰ってきた頃に使っていたものです。新品のときには多分先端に切れ込みがあったものと思われますが、使いこんでその切れ込みもすり減ったようになっています。この切れ込みを使って深いところまで掘り込むことができるのですが、その場合、この道具の少し曲がった所はテコの支点(?)としては不十分で、石などを差し込んでテコとして掘り起こしていました。そのためには、そのたびに石を差し込むという作業が必要になります。

 その点、中の第2世代は、その支点になるところが半円の金属の形で取り付けられているという優れものでした。この半円の部分をテコの支点にして地中の根を掘り起こすのです。写真に写っているのはこの方式のなかでも2代目で、最初の分は中心の軸の部分が細くて、力を入れて掘り起こそうとしたらポキッと折れてしまったのです。それでもう少し頑丈な2代目を使っていました。

 それから、今度いただいた3世代目です。その特徴は、先端部分が鋭くとがっていて直角に曲がった形状と、先端部分につけられたのこぎりのような歯です。使ってみるとこれが実に有効なのです。
 尖った先端部分で深く掘り込みができますし、のこぎり状の部分で根を切断することができ、直角近くに曲がったところで、第2世代のテコの支点の役割を果たしてくれるのです。
 草引きというのは1本の草を根から引くという機能と同時に、少し広い範囲の草を浅く引くという両方の機能が必要に思われます。この3代目はこの先端部分を傾けると広い範囲の草を引くということも可能で、両方の要請に応えてくれるのです。

 同じ草引き機能でも色々な工夫がされているものだと、感心しながら使っております。

(写真左は、草引きの道具です。右はこの時期境内でもよく見かけるミゾカクシの花です。)

 ミゾカクシは漢字では「溝隠」と書きます。溝全体を覆うほど茂るところから命名されたそうですが、片側半分に花弁を持つ独特の花を持った華麗な植物です。キキョウ科の植物で、漢方薬の材料としても利用されているということです。

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579.御絵伝に見る親鸞聖人のご生涯 (39):下巻補(1)

20191011信巻序   20191011本典

 しばらく間が空きましたが、「御絵伝」に戻ってきました。

 聖人が越後から移られて関東におられたのは約20年になりますが、その間の出来事として『御絵伝』に取り上げられたのは、すでに見ました下巻第二段(稲田興法の段)と第三段(弁円済度の段)の2件のみです。今回は「御絵伝に見る」というタイトルですが、親鸞聖人が関東におられた頃の出来事で『御伝鈔』や『御絵伝』には取り上げられていないことについて学びたいと思います。

 その最初は、『顕浄土真実教行証文類』(『教行信証』)の著述に関することです。
 『教行信証』は『広文類』とも呼ばれ、また浄土真宗の最も大切な聖典として『ご本典』ともお呼びしている親鸞聖人の主要な著書です。本書は6巻からなっていて、その中で聖人は仏典を始め多くの典籍を引用されて浄土真宗の教義体系を明らかにされています。原文は漢文で書かれていますが、延べ書きとして収録されている『浄土真宗聖典(註釈版)』では340ページを超える大部の著書です。

 この『教行信証』がいつ頃どのような目的で著述されたのだろうか、と古くから議論がなされており、多くの説が出されたようです。

 まず、著述の時期です。 

 このブログでもお知らせしておりますように、浄土真宗本願寺派では『教行信証』は元仁元年(1224年)に最初の草稿が完成したとされ、この元仁元年を浄土真宗の開宗の年として、2023年に「親鸞聖人御誕生850年・立教開宗800年」を慶讃して法要がお勤めになります。
 元仁元年といいますと、聖人は52歳、建暦3年(1214年)越後国から常陸国に移られてから約10年になります。また、聖人は寛喜4年(1233年)には京へ戻られていたとされていますので、帰洛の約10年前の時期になります。
 この元仁元年が『教行信証』の草稿本成立の年とされているのは、『教行信証』の「化身土巻」の中で末法の年代を算定する基礎として「わが元仁元年」という記述があることによります。

 この『教行信証』の「草稿」に当たる本はまだ見つかっていないのだそうですが、聖人ご真筆の「坂東本」が東本願寺に伝えられています。この「坂東本」は、聖人がお書きになった草稿を聖人ご自身が書き写されたもので、国宝に指定されています。
 この「坂東本」を研究された赤松俊秀氏(「坂東本」の解装修理に携わられた人です)によりますと、「坂東本」は文暦元年(1234年)頃(聖人が京都に戻られた頃)に元の草稿本から書写されたものだとされています。赤松氏は、上記の「元仁元年」の記述が元の草稿本にもあったかどうか確かでなく草稿本の完成時期とは関連がないとされていますが、草稿本は元仁元年までには完成しており、その後聖人はこの「板東本」に対して何度も多くの追加や修正を加えられたとされています。
 
 一方、聖人は京都に帰られてから『教行信証』の著述をされたとする説も主張されていました。
 本願寺第3代宗主覚如上人のご長男存覚上人は、『六要鈔』という『教行信証』の注釈書(最初の注釈書とされています)の中で、『教行信証』について「此の書、大概類聚の後、上人いくばくならずして帰寂の間、再治に及ばず」と記されているそうです。つまり親鸞聖人は『教行信証』を書き上げて間もなくお亡くなりになった、とされているわけですが、このことが『教行信証』は聖人が京都に戻られてから著されたとされる根拠となったようです。
 その他、様々な論拠から親鸞聖人は帰洛の後に『教行信証』を著されたとする論が主張されていて、聖人は『教行信証』を書くために京都に戻られたのだという説もあったようです。

 さらには、越後に配流されている頃から著述を開始されたのだという説も唱えられていて、聖人が越後国から常陸国に移られたのは、『教行信証』を書くためだとする論もあったようです。

 いずれにしても、『教行信証』は一度で完成されたものでなく、最初の「草稿」が出来上がった後にも何度も手を加えられ、存覚上人が言われたようにまだその途上にあったのかもしれません。聖人は『教行信証』の構想を越後国の時代から懐いておられ、「草稿」は常陸国時代に成立し、その後の帰洛後も何度も手を入れられた、と見ることも可能なのかもしれません。

 次いで、聖人が『教行信証』を著された理由です。

 聖人は『教行信証』の総序(最初の置かれた全体の序)で次のように記されています。
 「ここに愚禿釈の親鸞、慶ばしいかな、西蕃・月支の聖典、東夏・日域の師釈に、遇ひがたくしていま遇ふことを得たり、聞きがたくしてすでに聞くことを得たり。真宗の教行証を敬信して、ことに如来の恩徳の深きことを知んぬ。ここをもつて聞くところを慶び、獲るところを嘆ずるなりと。」
 (ここに愚禿釈の親鸞は、よろこばしいことに、インド・西域の聖典、中国・日本の祖師方の解釈に、遇いがたいのに今遇うことができ、聞きがたいのにすでに聞くことができた。そしてこの真実の教・行・証の法を心から信じ、如来の恩徳の深いことを明らかに知った。そこで、聞かせていただいたところをよろこび、得させていただいたところをたたえるのである。)
 また本書の最後の部分で、親鸞聖人は法然聖人との出遭いや法然上人から『選択集』の書写を許されたことなどを感激をもって記されています。

 このように、親鸞聖人は、法然聖人はじめインド、中国そして日本の祖師方のおかげで、阿弥陀さまのお救いの力を説かれるお釈迦さまの尊い教えに遭うことができた、とその喜びを記されていて、『教行信証』は親鸞聖人がご自身の喜びを記され、ご自身の信を確認された書だといえます。

 一方、当時の時代を見ますと、承久3年(1221年)後鳥羽上皇(「承元の法難」により浄土教を弾圧した人でした)が幕府に対して起した乱は失敗に帰し、上皇は隠岐に流され以後朝廷は幕府の支配のもとに入ることになります。
 貞応3年(1224年)(元仁元年と同じ年です)には、延暦寺衆徒の訴えにより専修念仏停止の宣旨が出され、3年後の嘉禄の法難につながります。それは鎌倉幕府の意向もうけて関東の念仏者にたいする圧迫にもつながるものとなりました。
 また法然聖人のもとで共に法然聖人に教えを受けた同朋の間にも考えの違いが表面化し、親鸞聖人のもとにあった方々の中にも聖人のお考えとは違った方向に進み始めた人々があったと伝えられます。
 このような時代を背景にして、聖人は浄土の教えのあるべき姿を示したいとお考えになったともされています。文末に示しました「信巻序」を読んでいますと、その聖人のお心が述べられているように思われます。 

 このように、親鸞聖人は、一つには阿弥陀さまのお救いに遭うことができた喜びを記し、ご自身の信を確認され、二つには当時の同信の人々や在来の仏教界に対して正しい道を示そうと『教行信証』を著されたのだと思います。

 ちょっと長くなりますが、最初に戻って、御絵伝の作者である覚如上人はなぜこの『教行信証』著述のことを御絵伝に取り上げられなかったのだろうか、という疑問があります。『教行信証』は親鸞聖人が著された重要な書であり、浄土真宗の基本的な聖典とされるものですから、なぜなのだろうという疑問がでてきます。
 これについて、平松令三氏は、覚如上人は伝絵の制作に先立って関東を訪ねられて親鸞聖人から直接教えを受けられた方々から話を聞かれたのですが、その時には関東のお弟子さんから聖人が『教行信証』を著しておられたことを聞き出せなかったのではないか、とされています。覚如上人が伝絵を制作されたのが永仁3年(1295年)、聖人が関東を離れられてから60年以上経過していますので、そのような背景があったのかもしれません。
 あるいは、これも平松氏が書いておられるのですが、『教行信証』著述という事実は重要なことですが、絵にするとなると余りインパクトのあるものではなかったのでしょうか、それで伝絵に取り上げられなかった、といったようなこともあったのかもしれません。

(図左は坂東本『教行信証』の「信巻序」、右は得度の際に本山でいただいた「ご本典」の該当部分です。)

 ここには、次のように記されています。
「それおもんみれば、信楽を獲得することは、如来選択の願心より発起す。真心を開闡することは、大聖(釈尊)矜哀の善巧より顕彰せり。
 しかるに末代の道俗、近世の宗師、自性唯心に沈みて浄土の真証を貶す、定散の自心に迷ひて金剛の真信に昏し。
 ここに愚禿釈の親鸞、諸仏如来の真説に信順して、論家・釈家の宗義を披閲す。広く三経の光沢を蒙りて、ことに一心の華文を開く。しばらく疑問を至してつひに明証を出す。まことに仏恩の深重なるを念じて、人倫の哢言を恥ぢず。浄邦を欣ふ徒衆、穢域を厭ふ庶類、取捨を加ふといへども毀謗を生ずることなかれとなり。」
(さて、考えてみると、他力の信心を得ることは、阿弥陀仏が本願を選び取られた慈悲の心からおこるのである。その真実の信心を広く明らかにすることは、釈尊が衆生を哀れむ心からおこされたすぐれたお導きによって説き明かされたのである。
 ところが、末法の世の出家のものや在家のもの、また近頃の各宗の人々の中には、自らの心をみがいてさとりを開くという聖道門の教えにとらわれて、西方浄土の往生を願うことをけなし、また定善・散善を修める自力の心にとらわれて、他力の信を誤るものがある。
 ここに愚禿釈の親鸞は、仏がたや釈尊の真実の教えにしたがい、祖師方の示された宗義をひらきみる。広く三経の輝かしい恩恵を受けて、とくに、一心をあらわされた『浄土論』のご文をひらく。ひとまず疑問を設け、最後にそれを証された文を示そう。心から仏の恩の深いことを思い、人々のあざけりも恥じようとは思わない。浄土を願うともがらよ、娑婆世界を厭う人びとよ、たとえこれに取捨を加えることがあっても、真実の法を示されたこれらの文を謗るようなことがあってはならない。)

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)

(お詫びです)

 今回の記事を作成の途中で掲載してしまいました。掲載予定日時の設定を誤ったことによります。トホホ・・申し訳ありませんでした。

578.団体参拝の「しおり」

20191007しおり

 10月4日万福寺さんで、念仏奉仕団の「しおり」の編集打ち合わせが開催されました。この「しおり」は、7月10日に開催された若僧会で、奉仕団参加の皆さんにお配りしようと準備を進めることになったものです。
 私は「若僧」会のメンバーではないのですが、7月の打ち合わせに参加していたことから記事の一部の作成を担当することになっていました。

 10月4日には、「組長挨拶」および6名のメンバーが作成した原稿をまとめた「しおり」の原案について、意見交換を行い、その結果により最終印刷にかかることとなりました。

 そのうち私の担当は「長島一向一揆と願証寺」の項です。このブログにも掲載しましたように「一向一揆」「長島一向一揆」「願証寺」について情報を集めましたので、それをもとにして「しおり」用には次の原稿を作成しました。(文字数が300字程度ということになっていましたので、情報の要約版となりました。)

「戦国時代、15世紀中頃から16世紀終わりにかけて本願寺門徒を中心に、各地の領主層との間で戦われた戦(いくさ)は一向一揆と呼ばれています。1570年、本願寺の第11代宗主顕如上人は織田信長の圧迫に対抗して兵を挙げられ(石山戦争と呼ばれています)、これに呼応する形で長島の地に起こったのが長島一向一揆です。
 一揆は長島(当時は木曽川などの河口の七つの島でした)の願証寺の門徒を主体に信長に対抗する武士勢力も加わり熾烈な戦いとなりましたが、一揆勢は次第に劣勢となり1574年多くの犠牲者を出して戦いは終焉を迎えました。現在の願証寺はその後再建されたものですが、境内には「長島一向一揆殉教之碑」が建てられています。」

 記事には、写真あるいは図を1枚添えることになっていて、ブログで使用した室町時代の長島(七島)周辺の地図を使うことにしました。桑名市にいる知人に「しおり」に使おうと願証寺の写真を撮ってもらったのですが、考えてみると願証寺は参拝した時に見ることができますので、「しおり」には写真ではなく当時の地図を使用することにしました。(撮ってもらった願証寺の写真はブログの記事に使わせていただきました)

 当日メンバーとの雑談の中で次のような話がでました。

 その一つは、ネットを通じて印刷を手軽にかつ安く外部に依頼することができるようになっているということです。以前ご紹介しました、年に1回発行される宇部北組の組報「ご縁だより」も外部に印刷を注文しています。
 寺の新聞「壽福寺だより」はインクジェットプリンターを使って自分で印刷をしていますが、インクの価格も結構高く、外部に印刷を依頼することも検討してみたいと思います。勿論発行部数との関係で割高になる可能性もありますので比較検討が必要ですが。
 これも話題に上ったのですが、このようなインターネットを介して印刷の注文を受けるという方法は、いわゆる「街の印刷屋」に対しては大きな脅威になります。ちょうど大型書店が増えたことにより、「街の本屋」がなくなっていったのと同じ現象が起こっているようです。便利さと街の「財産」を残すこと、そのバランスをどのようにとっていくのか、という同じ課題が見えるように思います。

 もう一つ、これは当日のメンバーの一人も言っていたのですが、今回のように一つのことを担当することで新しく勉強するきっかけになるということです。
 今回私は長島一向一揆を担当しましたが、このことがなければこの一揆についても「そんなことがあったなあ」と名前を知っている程度で終わっていたように思います。記事を担当することになって情報を集めてみると、その背景も含めて新しい事実を知り違った見方ができるようになりました。このように学ぶ機会はどこにでもあるものだと、改めて思ったところです。
 
(図は、担当した「長島一向一揆と願証寺」(27ページ)の部分です。)
 全体31ページの中には、お晨朝(拝読するお経や御文章など)に関する説明や大谷本廟、本願寺(御影堂などの建造物)についての情報を中心にして2日目以降に訪問、参拝する場所や寺院に関する情報などが集められています。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)

577.新聞版「壽福寺だより」を発行しました

20191004紙面  20191004紙面2

 新聞版「壽福寺だより」10月号を発行しました。10月14日に開催されます公開講座に間に合わせるためにいつもより早く発行しました。今月号の内容は次の通りです。

〇1面
 「秋法座をお勤めしました」

 「報恩講のご案内です」

 「ご連絡です」
 ・お取越しのご案内
 ・来年のご年忌(法事)のご案内
 ・秋の褒章を受章された方に
 ・同送:宇部北組報「ご縁だより」第3号
 ・同送:公開講座「SDGsと人権問題」
 ・今年度キッズサンガ

〇2面
 「宇部北組主催の公開講座にご参加を」
  公開講座への参加を呼び掛けています。

 「来年の『花フェス2020』の概要です」

 「ご紹介します(9)埴生政広さん」
  
(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)
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