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576.親鸞聖人御誕生850年・立教開宗800年慶讃法要「趣意書」

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 すでにご報告しておりますように、2023年に「親鸞聖人御誕生850年・浄土真宗立教開宗800年」慶讃法要が営まれます。その法要の趣旨について記された「趣意書」が発せられましたのでお知らせします。

 「趣意書」の全文です。

 来る2023(令和5)年に宗祖親鸞聖人のご誕生850年を、また、その翌年には立教開宗800年をお迎えすることになります。つきましては、私たちの宗門は2023(令和5)年にその慶讃法要をお勤めいたします。
  ものごとを自己中心的にしか考えられない私たちがこの世を生きることは苦悩そのものです。その苦悩を超えて生きていく道を教えてくださるのが仏法です。阿弥陀仏は私たちに「どんなに孤独で苦しく悲しくとも、私はあなた方一人ひとりを、そのままに受けとめて、決して見放さない」との救いのメッセージを「南無阿弥陀仏」というみ名に込めて、よび続けておられます。そのメッセージをそのままに頷き受けとめることが、私たちに届けられた真実信心となり、どのような状況におかれようとも揺らぐことのない尊い安心を頂くことになるのです。それこそが、さまざまな苦悩にも向きあって生きることのできる依りどころとなりましょう。そういう阿弥陀仏から頂いている御恩への感謝の言葉がお念仏であり、その救いの在り方を、念仏者の生き方として私たちにわかりやすく、しかも体系立てて説き示してくださったということが、浄土真宗にとって親鸞聖人による「立教開宗」の意義であります。
  遙か2500年前、釈尊は、「諸行無常」と「縁起」という、この世界と人間のありのままの真実を見抜かれました。さらにそのような在り方のなかには、変化しない実体的な自我など存在しないにもかかわらず、人びとは自ら仮想した自我に執われ、限りない欲望に基づいて、自らに苦しみを、そして世界にさまざまな争いを引き起こしていることを明らかにされました。これは、現代にもそのままに通じる現実です。
  およそ800年前、親鸞聖人は、自己の在り方を深く省みて、私たち人間とは自己中心的な思い、煩悩からいかにしても抜け出ることのできない存在であると気づかれました。しかし、そういう煩悩に突き動かされる私たち誰にも、誰ひとり取り残すことなく尊い安心を与えようとはたらき続けている阿弥陀仏の願いに出遇われたのでした。そのことを身を以て私たちの生き方として示してくださったのが親鸞聖人です。その親鸞聖人の説き示してくださった浄土真宗の教えに出遇うことがなければ、今の私はあり得なかったという聖人への感謝と、その教えに出遇えたことの喜びを込めて、聖人のご誕生を祝い、「立教開宗」に感謝する慶讃法要をお勤めするのです。
  さて、現代世界は、社会・国家のレベルでは自国の経済や文化を優先する排他的で閉鎖的な在り方が優勢となり、それにより国際的にさまざまな対立や紛争が起こっています。また個人レベルでは、自己努力と自己責任という名目のもとに、共に生きるという価値観が薄らぎ、孤独・孤立が深刻な問題となっています。こうした人類の破滅をももたらすような閉塞した現代世界の方向性を、互いに響き合って生きていける方向へと転換し逆転させていくことは、世界のすべての宗教が果たすべき役割です。しかしながら、日本のみならず世界各地域では硬直した宗教からの離反現象が広がりつつあり、宗教は、その役割を十分に果たせているとはいえません。
  このような状況のなか、今こそ、「自他共に心豊かに生きることのできる社会の実現」を理念とし、仏道の基本を踏まえて人びとと共に歩む私たち念仏者の果たすべき使命は、かけがえのない、大変に重いものです。
  今回の慶讃法要に向けて、「世のなか安穏なれ、仏法ひろまれ」との親鸞聖人のお言葉を胸に、地道にその役割を果たすべく、精一杯精進してまいりましょう。

   2019(令和元)年8月

                                                 浄土真宗本願寺派
                                                  龍谷山  本 願 寺



 併せて、「慶讃法要の趣意 付帯事項」として、慶讃法要のあり方や関連諸行事についての課題として次の5項目とその目指すことが示されました。

 〇大きな感動につながる法要を
  法要や諸行事を、若い人やこれまで仏教や浄土真宗の教えにあまり親しみのなかった方々で新鮮なメッセージをおくる機会とすること
 〇伝わる伝道を
  時代を超えて伝えられるご法義を、その時代に応じた形で宗門の内外に伝える法要とすること
 〇「私たちのちかい」の普及を
  今回の慶讃法要に向けて、特に若い方々に向けて示された「私たちのちかい」の普及に努めること
 〇社会に開かれた宗門へ
  今回の慶讃法要を機に、共に生かされ生きることの尊さを伝える「開かれた宗門」となること
 〇具体的な社会実践として
  SDGsをはじめとした社会の課題に取り組むこと

 このように、今回の慶讃法要は、親鸞聖人が誕生になられ私たちに浄土真宗のみ教えをお示しいただいたことを、現在の社会の現実の中で喜び、お礼申し上げる大切なご縁です。ご一緒にお参りをしたいと思います。

(写真は、ヒガンバナです。9月27日に撮影しました)

 藤ケ瀬から吉部に抜ける道の途中に、段々畑がきれいなところがあります。稲の刈り取りも終わり、日ごとに秋は深まっていきます。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)

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575.公開講座「SDGsと人権問題」

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 先日、このブログでもお伝えしましたように、宇部北組主宰で公開講座「SDGsと人権問題」を開催することになりました。
 9月23日には新聞の折込広告で告知されましたが、以下、改めてご案内いたします。ご門徒さん以外の方にもぜひご出席いただきたいと思いますので、お誘い合わせいただきますようお願いします。

1.開催日時
 10月14日(祝) 13:30~15:45

2.開催場所
 楠総合センター(宇部市船木442-11)

3.内容と次第
 13:00~ 開場
 13:30~ 開会式
 13:50~ 講演「SDGsと人権問題」
         講師:岡崎秀麿 氏(浄土真宗本願寺派総合研究所・宇部市船木正圓寺)
 14:50~ 休憩
 15:00~ パネルディスカッション
         パネラー:岡崎秀麿 氏
              小檜山大介 氏(宇部市 宇部SDGs推進センター長)  
         進行:安藤良樹 氏(宇部市小野 光林寺)
 15:40~ 閉会式

 タイトルにもあります、SDGsはSustainable Development Goals(持続可能な開発目標)の略で、2015年に国連で採択された活動計画です。貧困や飢餓、不平等、環境など17の課題について「誰一人取り残されない」を理念に2030年までに取り組まれます。
 浄土真宗本願寺派でも、阿弥陀さまの「誰一人もらさずすくう」という願いにもとづき、教団としてこの活動に取り組みを進めています。
 また、宇部市は、内閣府で選定された29の「SDGs未来都市」に選ばれ、宇部SDGs推進センターを中心に市をあげて取り組みを進めておられます。

 そのようなことから、今回の公開講座が開催されることとなりました。

(図は今回新聞折り込みで配布されたご案内です)

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574.最近の話題(34):「オリンピック1年前」


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 月刊誌『文芸春秋』に「日本語探検」という連載のコラムがあります。飯間浩明さんという国語辞典編纂者をされている方が書いておられるのですが、国語に関する面白い話題が取り上げられていて毎回楽しみにしています。

 10月号の記事は「『迫る』のは前か後か 視点により変わる言い方」という記事でした。
 その記事は、JR東日本と東京メトロが7月下旬に貼り出した広告の文言について、ネット上で取りざたされたというものです。
 その広告の文言は、
  「いよいよ1年前に迫った東京2020オリンピック・パラリンピック」
 というもので、ネットではこの「1年前に迫った」という言い方はおかしいだろう、「1年後に迫った」ではないか、と議論を呼んだのだそうです。ネット社会ではこのようなことが大きな話題になって、たくさんの人が、ああだ、こうだと議論し、時には「炎上」することもあるのだそうです。

 飯間さんも仰っておられますが、「1年後に迫った」と言うのが普通の感覚なのでしょう。「6カ月後に迫った首脳会談」などがそうです。一方「目前に迫る」「眼前に迫る」「相手のゴール前に迫る」というような使い方もあって、この宣伝の文言を作ったコピーライターの思いも分からないではない、と言っておられます。
 「1年後に迫った」は、「自分たちから見て五輪の方がそこまで来た」という感覚、「1年前に迫った」は、「五輪から見て自分たちが1年前の時点まで来た」という感覚で、どちらの視点から見るのかの違いなのだ、と飯間氏は説明されています。

 私と五輪のどちらがどっしりとあって、どちらが動いて近づいていっているのか、という視点の違いからくるということのように思います。とすると、五輪の方が開催日時がはっきりしていて、準備しなければならないことも明確なのですから、それに向けて準備を進めている私たちの方が「動いている」という感覚の方が当たっているようにも思われてきます。とすると、「(開会の)1年前に迫った」の方が実感にあっているのかも、などと堂々巡りになってしまいそうです。

 この「どちらが動いているのか」(地動説、天動説ではありませんが)ということを考えていてふと思い出しましたのが、大河ドラマ「軍師官兵衛」のことです。以前このブログでも取り上げましたが、このNHKの大河ドラマで顕如宗主とともに石山本願寺の阿弥陀さまの像が映されていたのですが、その像が坐像でした。浄土真宗のご本尊が坐像の阿弥陀さまというのはおかしいという指摘が寄せられて、NHKは誤りを謝罪したのだそうです。

 浄土真宗のご本尊の阿弥陀さまは坐像ではなくお立ちになっておられます。
 このお姿は、阿弥陀さまはお浄土で坐して教えを説いておられる姿ではなくて、悩み苦しむ私たちを放ってはおけないと立ち上がり、私たちのもとに届いていただいているお姿だと伺いました。
 私たちは「阿弥陀さまのお浄土に往きたい」と願いますが、私たちが自分の力で勤め励んで阿弥陀さまのところに往こうとしてもそれはかなわないこと、阿弥陀さまが私たちを救いたいと願われ救い摂られるのだとお示しいただききました。私たちが阿弥陀さまの方に進んで行くのではなく、阿弥陀さまの方が私たちに向かって手を差し伸べていただき、そのお力にお任せするという姿が思い浮かべられます。
 ここでは私たちが動くのではなく、阿弥陀さまの方から働きかけていただいているということになります。

(図は、「五輪1年前」をPRするポスターです。ネットで見つけましたので使わせていただきました)

 左はJRの社内広告、右は羽田空港を会場にした1年前キャンペーンの告知広告です。
 いずれにも「1年前に迫った」という言葉が記されていて、今回の議論になった、というよりは批判が集中したということのようです。で、右の広告は(制作者の方が腰砕けになって?)その後「1年後に迫った」に修正されたようです。
 
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573.ご門徒さん紹介(11):埴生政広さん

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 今回の「ご門徒さん紹介」は河中所にお住いの埴生政広さんです。

 先日、NHKテレビの「お便りさんぽ」という番組を見ていましたら、埴生さんが映っておられたのです。この「お便りさんぽ」という番組は、NHKの山口放送局が作成している番組で、視聴者からの情報(お便り)によりレポーターが訪問して取材放送するという番組です。

 私はその再放送を見たのですが、最初は8月6日に放送されたものです。
 埴生さんの知人の西村隆之さんという方が万倉で作られている「万倉なす」を栽培しておられ、美味しいのに余り知られていない、もっと知って欲しいと思いNHKに情報を提供されたのだそうです。

 番組でも紹介されていましたが、万倉なすは大正時代から万倉で作られていて多い時には70軒もの農家で栽培されていたのが現在では4軒にまで減り、それも来年にはさらに減ってしまいそうだということです。
 万倉なすの特徴は、皮は薄く、中身は柔らかく甘いところだそうです。皮が柔らかいので、枝や葉が当たっても傷がつくため、風が当たらないようにすることが大事なのだそうです。その防風のためにソルゴ(Sorghum bicolor:モロコシのことでしょうか)というイネ科の植物を周辺に植えるという工夫がされていて、このソルゴがアブラムシなどの害虫を集めて、なすの方に行かないようにするという効果もあるのだそうです。

 万倉なすのお勧めの料理法はやはり「焼きなす」だそうです。番組でも実演されていましたが、網の上で表面が焦げるまで焼いて、割いた身に醤油を加えて食べると、これが甘くて柔らかく・・・一級品なのだそうです。その他、煮物、天ぷらなどなすの定番料理も絶品だと紹介されていました。
 7月に行われたテレビの撮影は朝8時から15時まで続き、リハーサルあり撮り直しもありと暑い中皆さん汗だくの撮影だったようです。先日ご紹介しましたyab山口朝日放送の「通りへ行こう」もよく似た狙いの番組ですが、随分と時間のかけ方が違うのだなあ、と妙な所に感心をしたのです。

 先日、埴生さんのお宅を訪問してお話しを伺ったのですが、このNHKの放送以外でも、埴生さんは地元の活性化や支援のために色々な活動に関わっておられることを聞かせていただきました。その活動の様子もご紹介します。

 「キッズうべたん」(「たん」は探検の探です)という、宇部の魅力を知ってもらおうと夏休みに子供さんを対象にした活動が催されています。その活動の一環として「おいでよ吉部 やよいの里でそうめん流し」というタイトルで河中所を会場に2回開催され、各10組の親子が参加しました。行事は近くの「魚切の滝」で水遊びをした後にそうめん流しやスイカ割りを楽しむもので、そうめん流しには埴生さんが竹から手作りされた設備を使い、埴生さんのお宅の庭で実施されました。冷たい滝での水遊び、そうめん流しと楽しいひと時を過ごしました。
 滝での水遊び、そうめん流しやスイカ割りを養護施設の子供さんが楽しまれたこともあります。家族からの虐待などから保護するために入所している子供さんたち5名が来られました。埴生さんたちと家族のようにして一緒に遊んだことが楽しい思い出になったようで、子供さんから送られてきたお礼の手紙には、初めてこんな楽しい経験をしました、もう一度遊びたいです、と思いがつづられていました。
 山口大学に東南アジアから留学している留学生を受け入れられたこともありました。留学生16人と世話役の宇部高校の生徒さんも含めて40人がそうめん流しやスイカ割りを楽しみました。中には子供さんを連れて留学している人もいて、特に喜んでおられたそうで、その様子はインドネシアのテレビ番組でも紹介されたそうです。

 「吉部ふれあいサポート」という活動もしておられます。16人のメンバーで、吉部地区の一人暮らしや高齢者の方を支援する活動で、草刈やお墓の掃除、買い物の代行、空き家の管理などの要望に応じて仲間の方と駆けつけるという活動です。夏季は特に草刈の依頼が集中し「こちらも年をとってくるし」と大変だったそうです。

 そのお話しを伺って、綠があって滝がある河中所、キッズうべたんのキャッチフレーズで「宇部の秘境といわれる西吉部『やよいの里』で流しそうめんを体験」とあるように、河中所の地が貴重なものだということを感じました。河中所にはかつては10軒のお宅があったのですが、今は2軒になっています。河中所に限らず周辺の地域にも高齢化、過疎化という現実が間違いなく進行しています。
 そのような中でもお互いに支え合い、また様々な行事を通じて魅力を伝え、それを活性化につないでいく活動は大切なものだと改めて思いました。

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 写真左はテレビの取材の様子、右は「キッズうべたん」を報じた宇部日報の記事です。

(最初の写真の左はNHKの「お便りさんぽ」の画面、右は留学生の皆さんがそうめん流しを楽しんでいる所です)

 写真はいずれも埴生さんからお借りしたものです。

(ちょっと嬉しかったことです)

 8月12日、このブログで画家の三橋節子さんについて書かれた本『空と湖水』をご紹介しました。その際、昭和52年刊行された梅原猛さんの『湖の伝説』についてもご紹介したのですが、当時持っていたその本を引っ越しの時に置いてきたようだ、と書きました。ところがその本をこちらに持って帰っていたことが分かりました。いつも使っている本棚とは別の本棚で見つけたのですが、ちょっと嬉しくなりました。
 で、そのブログの記事を少し手直ししました。こちらです⇒「ご紹介します『空と湖水』」

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572.歴史を訪ねる(22):黒五郎氏の墓

20190916黒五郎氏墓碑  20190916黒五郎氏墓碑2

 9月11日、寺の近くにある「黒五郎氏の墓」を訪ねました。

 そのきっかけは、須子正実さんという方がこの黒五郎氏の墓を訪ねられる、とお聞きしたことによります。
 須子さんは、万倉校区だより「なすの花」のいう月刊の広報誌に「万倉ものがたり」という地元の歴史を紹介する連載記事を書いておられる方です。先日、この記事に寺のことを取り上げたいと訪ねてこられて、その時にこの「黒五郎氏の墓」も話題に上りました。
 
 寺の住所は宇部市大字奥万倉字黒五郎といいますが、この字名は、今から約400年前にこの地を開拓したと伝えられる黒五郎氏の名前から来ています。
 以前、日高実夫氏が著された『寿福寺とその里』という書をご紹介しましたが、黒五郎氏はその中でも取り上げられていました。日高さんによりますと、岩﨑黒五郎と名乗っていたその人は、武士を棄ててこの地の開拓に尽くされた人だということです。

 そのお墓ですが、日高さんの記されるところでは、寺から信田の丸の城山に向かう古い道があって、その傍らの小道に何も記されていない高さ130センチメートル、幅50センチメートル、厚さ30センチメートルの傾いた自然石があったのだそうです。これが「黒五郎の墓」と呼ばれていたそうで、「触ると罰が当たるぞ」と大人から脅された記憶がある、と日高さんは書いておられます。
 大正12年頃、墓の主の黒五郎氏はこの里の開拓者で恩人なのだから墓を立て直そうという話になって、東西の黒五郎の人が共同して台石を運び込み少し離れた場所に墓碑を立て直されたということです。

 この東西黒五郎というのは、当時黒五郎は小さな小川を境に、行政区が東は吉部、西は万倉と分かれていたことを示しています。山の尾根を境界にすることが自然なように思うのですが、ここでは小さな川が境界になっていたのです。この境界に従って、目の前の家でも川のこちらとあちらでは通う小学校が違ったりするというようなこともあったいう話は他の場所でもお聞きしたことがありました。
 日頃は別々に行動していた東西の黒五郎の人は、このお墓の改修は共同でやろう、ということになったのだそうです。墓碑の改修後は、毎年8月7日に東西の黒五郎の人が集まってお勤めがなされていたと日高さんは記されています。

 当日は、寺のすぐ近くの岩﨑昌彦さん(寺の総代さんでもあります)に案内していただいて3人で出かけました。
 城山につながっていたという道から少し下りたところ、竹藪の中に墓碑はありました。

 碑の表には、 四百年前/開祖 黒五郎氏の墓
 碑の裏には、 大正十三年四月/東西黒五郎中建之 (/の部分は改行を示しています)
 と、私の祖父顕道が書いた文が刻まれています。

 黒五郎の方々が黒五郎氏に寄せておられた敬愛の思いを感じることができる碑でした。

 須子さんのお話しでは、黒五郎という名前は、もとは九郎と五郎の二人の兄弟だったのだということです。これは初めてお聞きする話ですが、確かに黒五郎という名前は妙だなと思ったこともあり、なるほど、というお話しでした。黒五郎の近くに笛太郎という地名があります。これもこの地区に縁のある人の名前だとお聞きしたことがありますが、この笛太郎氏の姓は須子氏だったとのこと、これも初めて知りました。ただし、「それは自分の家系ではなかった」と須子正実氏のお話しでした。

 墓碑のある場所に往き帰りする途中で、「ここは○○(門名です)の家があった所」という話が出ました。かつては寺の周辺のお宅のほどんどが岩﨑という姓で、通常はお互いを門名で呼んでいたとお聞きしていました。「しんや(新家)」「ふるや(古家)」「えき(駅)だろうかと子供の頃思っていたのですが(浴)かもしれません」など私も覚えている門名もありましたが、初めて耳にするものもありました。
 かつて黒五郎に住んでおられて今は宇部や小野田、厚狭などに移っておられる方が多くあります。このような人がこの黒五郎の地に住んでおられた、ということも消えてしまいそうで、それを記録に残しておくことも必要だと思いました。
 また昔は山を越えて隣の地区に通じる道が多くあったそうですが、ほとんどは今では通れなくなっています。これも、できれば一度実際に歩いてみて、記録を残しておく必要があると思いました。

(写真左は岩﨑昌彦さん、須子正実さん、右は墓碑のおもて面です)

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571.歴史を訪ねる(21):長島一向一揆(2)「願証寺」

20190913古地図  20190913地図

 これまで、「歴史を訪ねる」として、「一向一揆」「長島一向一揆」について学びましたが、今回は長島一向一揆に関連の深い願証寺(願證寺:10月に予定されています念仏奉仕団の3日目にお参りする予定です)について情報をまとめておきます。旅行の「しおり」の「一向一揆と願証寺」の記事の資料としたいと思います。

 願証寺は、本願寺の第8世蓮如宗主の6男蓮淳(れんじゅん)上人(1464~1550年)が第9世実如宗主の命により、創建されたと伝えられています。また、願証寺はそれより早く文永元年(1264年)に開かれ、願証寺の寺号を本願寺第3世覚如宗主より受けており明応6年(1497年)に蓮淳上人を住職として迎えた、とする説もあるようです。
 いずれにしても願証寺は天文6年(1537年)までに寺基を長島(七島とも呼ばれ、当時は七つの島からなっていたようです)に持ち、長島は願証寺の門前町としても賑わったと伝えられています。

 蓮淳上人は第10世宗主の証如上人の外祖父にも当り、本願寺で力を持っておられたこともあって、願証寺は伊勢、美濃、尾張の3国の寺院を統べる有力な寺院になりました。長島を含む当時の桑名郡は近江、伊勢、美濃の有力豪族の勢力争いの地でもあり、その中で願証寺に拠る門徒勢力は大きな力を持っていました。
 また当時から伊勢から尾張に向かう街道は、桑名からは舟に乗ることになり、長島はその要衝の地でもありました。

 織田信長との関係で見ますと、永禄10年(1567年)美濃の斎藤龍興が信長に追われて長島に逃れるなど、長島の地は反信長勢力の拠点という性格も持つようになりました。木曽川などの流れの中にある地の利(当時の伊勢湾は現在よりも深く入り込んでいて、七島はその中に浮かぶ島だったようです)を生かした難攻の地ですが、信長にとっては戦略上も重要であり、なんとしても手中に納めたい地でもあったということです。

 前回見ましたように、このような情勢の中、第11代顕如宗主のもとに信長勢との間で戦われた大坂戦争(石山戦争:1570~1580年)に呼応する形で、長島で一揆勢が蜂起しました。
 一揆は三度の大きな合戦の末一揆方の敗北に終わり、その拠点であった願証寺も破却されました。

 その後、天正12年(1584年)頃、織田信雄(のぶかつ:織田信長の次男で、当時この地域を支配していました)の許しを受けて、願証寺は尾張国清州に再興されました。さらに慶長年間(1596~1615年)には伊勢国桑名に願証寺が再建され、その後、長島又木の地に旧願証寺の門徒のために祐泉寺(後に誓来寺)が建てられました。その後桑名の願証寺は、真宗高田派に転派するということがありましたが、長島の誓来寺は本願寺派寺院として存続し、明治になって願証寺と改称します。これが、10月にお参りする願証寺ということになります。

 前回もご紹介しましたように、願証寺には「長島一向一揆殉教之碑」が建立されています。多くの犠牲者を出して戦われた長島一向一揆を偲んでお参りしたいと思います。

(図左はネットで見つけた長島の古地図を再現したもの、右は現在の長島周辺です)

 古地図では、伊勢湾が入り込んでいたことが分かります。点線で囲まれている七つの島が七島(長島)に当たるものだと思われます。地図上で「願證寺」と表示されているのは、一揆の拠点となった願証寺です。
 この記事を書くに当たって、桑名市の教育委員会に電話でお話しをお聞きしたのですが、この願証寺のあった土地は、その後明治時代の河川改修工事で長良川の流路に水没したのだそうです。
 旅行でお参りする予定の願証寺は、左の地図では「長島城」のある島、右の地図では「なばなの里」(旅行で訪れる予定になっています)のすこし東北にあります。

 古くからの治水工事で、木曽川、長良川、揖斐川の3つの川の流れが大きく変わったことも見ることができます。

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570.歴史を訪ねる(20):山口「鷺の舞」

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 以前記事を載せましたように、「大内氏歴史文化研究会」の行事として「京都の祇園祭と山口の祇園祭」という講演会がありました。その同じ日7月20日の夕刻に祇園祭の「鷺の舞」が行われ、見学することができましたのでその様子と感じたことを記しておきます。
 当日と9月5日に、その行事を取り仕切っておられる頭屋(とうや)の方二人にお話しをお聞きし、600年以上前から伝わる行事を受け継いでおられるご苦労も伺うことができました。

 鷺の舞は祇園祭の初日に、山口市の堂の前町にある万福寺というお寺の境内で舞われるところからスタートとなります。

 この万福寺には大内義隆公が奉納されたと伝えられる黑地蔵という像が本尊として祀られています。
 小さな境内なのですが、本堂の蟇股(かえるまた:以前同じ文化研究会の講演で話を聞いて興味をもって見るようにしています)には大内家の家紋の沢潟(おもだか)が彫られ、屋根には大内菱という紋が付されているように、大内氏とつながりのあるお寺であったことが偲ばれます。頭屋の方の話では、大内義隆公の菩提寺とされた龍福寺(現在は万福寺の北近くにあります)ともかかわりのあるお寺だそうです。

 鷺の舞は、役者(舞を舞う者)が6人、囃子方3人、警護役などが6人の合計15人で奉納されます。
 役者の6人は、雌雄の鷺役で2人、カンコと呼ばれる少年2人、シャグマ(赤熊髭)と呼ばれる者2名で構成されていて、その舞は、猟師のシャグマが庭で舞う二羽の鷺を射ようとするのを、カンコの少年が小鼓を叩いて鷺に危険を知らせ猟師の邪魔をして鷺を助ける、というストーリーになっています。
 これに太鼓1人、笛2人、警護役4人、提灯持1人、笠鉾1人がついて舞が舞われます。
 最初に万福寺で舞われた後、その年の頭屋宅の前、札の辻の交差点、八坂神社で舞われ、最後に御旅所と呼ばれる場所で舞われます。

 堂の前地区には頭屋と呼ばれるお宅が4軒あって、この4軒で鷺の舞を仕切って来られたのだそうです。長い間には人の出入りがあるのですが、基本的には4軒の特定の建屋に住む人が頭屋になるということで引き継いで来られました。その4軒の頭屋は順番にその年の責任者として舞の世話をすることになります。

 このように頭屋を中心にして鷺の舞が行われるのですが、その準備や当日の実施は、保存会を始め堂の前地区の人が活動されます。ここでも地区に住まわれる方が減り、高齢化しているという問題を抱えておられるというお話しでした。
 ただ、町内に五階建て20戸のマンションがあって、ここに住んでおられる方(相対的に若い方が多い)も積極的にこの祭に参加されていて、大きな力になっているというお話しもありました。7月20日の当日に提灯を持っておられる人に話を伺ったのですが、その方も地区の外からマンションに移ってきた方でしたが、お祭りに参加できることを喜んでおられるようでした。

 舞に当たっては上記のように、15人の方を集めなければならないのですが、頭屋さんにお聞きすると、この役をやりたいという方もあって調整する方にも気を配らなければならないこともあるようです。カンコ役の2人は幼稚園の年長組から小学校の3年生くらいの子供さんの役なのですが、希望者があってもすぐにやってもらうことができないこともあるそうです。地区を離れて外に住んでいる人にも祭で役をやりたい、と希望される方もあるとか、いろいろな形で祭りが支えられているということも感じられました。

 このマンションが建設された時、マンションの居住者は町内会に入りたいと希望されたのだそうですが、町内会の方に受け入れに消極的な意見もあったのだそうです。しかし、今となっては入ってもらっていてよかった、と頭屋のお一人は仰っておられました。もちろん新旧の居住者の間では様々な問題が生じることもあるのでしょうが、新しい住人が間違いなく地区の活動を支えておられるということを感じました。

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(上の写真、左は万福寺本堂の蟇股、中は舞が始まる前の町内の人、右は頭屋さん宅前での舞の様子です)

 山口の鷺の舞は津和野のものに比べて派手なものではないのだそうですが、堂の前の地区の皆さんが支えて来られている様子が伺えました。

(最初の写真、左は万福寺境内で舞われた舞、右は万福寺の境内です)

 左の写真の鷺の後ろはシャグマ、手前にはカンコの少年、右奥に笛2人、鼓1人が見えます。ちょっと見えにくいですが、頭部の赤いのが雌の鷺です。

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569.秋の法座をお勤めしました

20190906集合写真  

 9月1日、ご講師に下関市吉見の光善寺の二木文生氏をお迎えして秋の法座をお勤めしました。二木氏は昨年、宇部北組の仏教婦人会連盟の総会でご講師にお迎えした方で、壽福寺には初めてのご出講でした。
 ご講師は、南無阿弥陀仏という名号と私たちがいただく信心、そして私たちの口にでていただくお念仏が一つものだとお話しになりました。阿弥陀さまの、私たちを救わずにはおれないと願われた「そのままでいいから私に任せなさい」という南無阿弥陀仏の呼び声が私たちに届いていただき、それによって私たちは信心をいただき、それが私たちの口にお念仏となっていただくのだと説かれました。

 ご講師は、たとえ話しとして次のようなお話しをされました。ちょっと長くなりますがご紹介します。
 「昔大変なほら吹きの男がいたそうです。かれは、殿様が釣り上げた魚の名前を問われて、それは「ガンガラガア」という名前の魚だと答え、殿さまから褒美をもらいます。その後殿さまはその魚を干し魚にしたのでしたが、その名前を忘れてしまいます。そこでそのほら吹き男が再び呼びだされて名前を聞かれます。ほら吹き男も自分が言った名前を忘れていて仕方なく「グングラグウ(でしたっけ?)」だと答えます。しかし、家来の中に元の名前を憶えていたものがいて、ほら吹き男が嘘を言ったことがばれてしまします。怒った殿様はほら吹き男の首を撥ねようとするのですが、ほら吹き男は、「イカが干されたらスルメになるように名前は変わるけれど本質は変わらない」と言います。それを聞いて殿様は感心し、男を許してもう一度褒美を与えた」というようなお話しでした。
 名号と信心とお念仏、それぞれ呼び方、言葉は違っていますが、それは阿弥陀さまが私たちの姿、迷い苦しみ恐れる姿を見て、間違いなく一人残さずに救うと誓われた願い一つなのだと、ご講師は示されたものだと受け止めさせていただきました。

 おときの後、午後には第17回の勉強会を開催しました。10名の方とご一緒に、2回目になりますが『仏説阿弥陀』について学ぶことができました。

 法座に当たっては、今回も多くの方にお世話になりました。
 すでにご報告しましたように、8月25日には総代さんに駐車場や参道周辺の草刈りをお願いしました。
 法座の当日には、仏教婦人会の会長井上愛子さん、監査役の志賀信子さん、井上幹子さん、山本信子さんにおときの準備、給仕、後片付けをお願いしました。秋の法座の「名物」そうめんは、出汁や香りに工夫がされた美味しいもので、多くの方がお代わりしておられました。

(写真は、当日の集合写真です。雨のために本堂での撮影となりました。)

 前日の快晴から一転、雨のためもあってお参りの方が少なかったのは残念なことです。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)

568.実践運動推進協議会および同朋運動研修会の開催計画

20190902楠総合センター   20190902ルネサンスホール

 8月30日、宇部北組の今年度第2回目の法中会(住職の会議です)が開催され、次の行事について検討と確認を行いました。

1.「御同朋の社会をめざす運動」(実践運動)推進協議会
  日時 10月14日 9:30~12:00
  会場 楠総合センター
  出席対象者 宇部北組内の門信徒、僧侶、寺族
  テーマ 「浄土真宗とSDGs」
 (この推進協議会は毎年開催され今回は第4回の開催となります。今回は、宗門の総合研究所の研究員から宗門としてのSDGsへの取り組みについて説明いただき、出席者で班別に話し合いを行い、その内容を報告、意見交換します)

2.同朋運動研修会(公開講座)(前記協議会の午後に開催されます)
  日時 10月14日 13:30~15:45
  会場 楠総合センター「ルネッサンスホール」
  出席対象者 宇部北組内の門信徒、僧侶、寺族、および一般の方にも参加を呼びかけます
  テーマ 「SDGsと人権問題」
 (山口教区内で発生した差別はがき投書事件を契機として人権問題について学びを深める研修会です。一般の方にも呼びかけて公開で開催するのは今回が初めてのこととになります。)
 
 このSDGsは、持続可能な開発のために国連で採択設定された17のグローバル目標と169のターゲット(達成基準)からなるもので、貧困の撲滅や飢餓の終焉、国内外での格差の是正、気候変動への対処など幅広い活動を設定したものです。

 このブログでもご報告しましたように、専如ご門主は昨年、本山での御正忌報恩講のご親教でSDGsの達成に向けて取り組むことを示されました。これをうけて宗門としても「重点プロジェクト」にとりあげて活動を進めることとしており、今回の研修会もその一環として開催されるものです。

(写真は会場の「楠総合センター」’(左)とその「ルネッサンスホール」(右)です)

 写真はネットからお借りしています。近くにあるのに手元に写真がなかったものですから。

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