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567.掲示を変えました

20190830掲示s  20190830掲示2s

 これまで、時々ご紹介をしていましたが、屋外の2か所および本堂の掲示で、次回の法座のご案内と「ことば」を掲示しています。昨日、9月1日の秋の法座の準備としてその掲示内容を変えました。

 法座のご案内は11月10日にお勤めします報恩講のご案内、今回の「ことば」は次の言葉にしました。

 「憎い人、はいない 『憎い』と思う  私がここにいる」
 (この言葉は、ネットで出遭った言葉から一部を変えて使わせていただいています。)

 この言葉に出遭って次のようなことを感じました。

 「私たちは、いつも私たちの周りにいる人について評価をします。人だけではなく物についてもそうですが、「良い悪い」、「好き嫌い」などプラスの評価、マイナスの評価を下します。
 しかし振り返ってまますと、どんなときでもいい人、逆にいつでも悪い人、という人もいないということに気づかされることがあります。私にいつも辛く当たっていた人が、思いかけず優しい一言をかけてくれた、というようなこと、また逆のケースなどを経験することがあります。

 このようなことが起こる背景として、一つにはその対象となる人が変わるという面があります。人は時々刻々に変わり続けています。私の思惑とは別にそれが私にとってよいことなのか、悪いことなのかとは関係なく、人は変化していきます。「この人はいい人」と思った時には、その人はもう別の人になっているのかもしれません。

 そしてもう一つの原因は、対象となる相手が変わるだけではなく、私自身も常に変わっていくということがあります。気にいっていた相手がそうでもなくなるということはTVのドラマだけではなく私たちにも起こりますが、その要因は私自身が変わったということもあり得ます。

 変化し続ける私が同じく変化し続ける人を評価するのですから、その関わり方は常に姿を変えていきます。
 そのような中で間違いのないことは、私が下す判断や評価は、その中心にいつも「私」が据えられていること、常に「私にとってどうなのか」ということに基準があるということです。変わり続ける私が、その「私を中心」にして、これまた変わり続ける周りの人を評価、判断していることになります。
こうしてみると、「あの人はよい人」と言えることがあったとしても、その「よい人」はたまたまその時の私にとってよい人であっただけかもしれません。次の瞬間にそのよい人は姿を変えるかもしれませんし、私自身が変わるかもしれません。そこで間違いなく存在しているのはその時「よい」と思っていた私だけだということになります。

 「あの人が憎い」と言っている場合も、その時そのように判断した私だけが残っているということになりそうです。相手も変わり、私自身も変わっていくのですが、厄介なことは、その私はその判断に囚われてしまいそこから踏み出すことが難しい、ということなのかもしれません。特に相手によくない感情を抱いた場合がそうでしょうか。

 私たちはそのような状況から抜け出ること、自分を中心にして考え人を評価することをやめること、その評価にとらわれることをやめること、ができればいいのですが、これはどうも難しいように思われます。
 私たちが逃れることが難しい、代表的な煩悩に「貪欲(とんよく:むさぼり)、瞋恚(しんに:いかり)、愚痴(ぐち:おろかさ)」があると教えていただきました。これらの煩悩の背景には、自分を中心に考える、それにとらわれるということがあって、私たちがこれらの煩悩から自由になることは、極めて難しいことのように思われます。
 しかし、私たちが自分中心にものごとを考えることから自由になることは難しいことだとしても、私たちがこの煩悩に囚われてしまう存在であること、に気づくことはできると思います。人の評価をするときに、その評価は自分中心になっているのではないか、一度下した判断ににこだわっているのではないか、と立ち止まって思いなおすことはできると思います。

 難しいことかもしれませんが、いつでも「自分中心になっていないか」と振り返ってみることができるということは大切なことだと改めて思います。」

(写真は、本堂の掲示です)

 雨で屋外の掲示の入れ替えができずにおります。今日にはやらねば・・・・です。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください) 
 
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566.法座の準備を行いました

20190826草刈

 8月25日、秋の法座の準備として総代さんにお集りいただき、駐車場および周辺の草刈りをお願いしました。

 ご協力いただいたのは次の方です。
 (写真後列左より)今橋庄二さん、斎藤晃治さん、西睦生さん、清水孝義さん、山根惣一さん、杉山博子さん、山本千代子さん、吉屋博志さん、田中光明さん、埴生和彦さん、埴生充さん、木村成子さん、
 (前列右より)金子富士夫さん、井上啓志さん
 また、岩﨑昌彦さんは当日都合で参加できないからと、山門に至る道の草刈りを前もって行っていただきました。

 ひところの猛暑に比較すれば凌ぎやすい天候でしたが、皆さまにはご苦労をおかけしました。おかげさまできれいな環境でお参りの方をお迎えできます。有り難く厚くお礼申し上げます。

 以下当日の写真です。

  20190826草刈2   20190826草刈3

 なお、秋の法座は下記によりお勤めいたします。お誘いあわせてお参りいただきますよう、ご案内いたします。

1.日時 
 9月1日(日)10:00~(午前中)

2.場所
 壽福寺本堂

3.ご講師
 二木文生 師(豊浦組 光善寺ご住職)
 二木師は初めてのご出講です。

4.その他
 おときを準備します。(仏教婦人会の皆様にはお世話になりますがよろしくお願いいたします)
 午後に勉強会を予定しています。今回は、『仏説阿弥陀経』の2回目となります。ご一緒に学びましょう。
 
(最初の写真は作業開始前の参加者の皆さんです)

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565.御絵伝に見る親鸞聖人のご生涯 (38):下巻第三段(2)

     20190823下巻第三段西本願寺本

 御絵伝の下巻第三段の後半部分です。

 聖人板敷山(いたじきやま)といふ深山(しんざん)をつねに往反(おうへん)したまひけるに、かの山にして度々(どど)あひまつといへども、さらにその節をとげず。つらつらことの参差(しんさ)を案ずるに、すこぶる奇特(きどく)のおもひあり。よつて聖人に謁(えっ)せんとおもふこころつきて、禅室にゆきて尋(たず)ねまうすに、上人左右(さう)なく出であひたまひけり。すなはち尊顔にむかひたてまつるに、害心(がいしん)たちまちに消滅して、あまつさへ後悔の涙禁じがたし。ややしばらくありて、ありのままに日ごろの宿鬱(しゅくうつ)を述(じゅつ)すといへども、聖人またおどろける色なし。たちどころに弓箭(きゅうせん)をきり、刀杖(とうじょう)をすて、頭巾(ときん)をとり、柿の衣をあらためて、仏教に帰しつつ、つひに素懐(そかい)をとげき。不思議なりしことなり。すなはち明法房(みょうほうぼう)これなり。上人(親鸞)これをつけたまひき。

 (そのころ聖人は、いつも板敷山という深山を通って往きかえりしておられたので、その山の中で何度も待ち伏せをしたのですしたが、どうしてもうまく行きませんでした。そこでつくづくと、どうしてこのように行き違いになるのかを考えてみたところ、どうも聖人という人はただ人ではないように思われましたので、会ってみようと、お住居を訪問しました。すると聖人は何のためらうこともなく出て来られて、会うことができました。そしてそのお顔を拝しますと、あの危害を加えようとした心が忽ちに消えて、それどころか後悔の涙がとめどなく流れました。
 ややしばらくしてから、これまでのつもりつもったことをありのままにひとおもいに申し述べましたところ、聖人はすこしも驚いた様子がありません。この山伏はその場で持っていた弓矢を折り、刀や杖を投げ捨て、修験者の象徴とされていた頭巾をはずし、柿渋で染めた着衣をぬいで、本当の仏教に帰依しました。かれは最後には浄土往生の素懐をとげたのですが、これが明法房で、この名は聖人がつけられたのでした。)


 御文には、親鸞聖人は板敷山を通って往復されていたと記されています。
 平松氏によりますと、この板敷山は聖人がお住まいになっておられた稲田から南方8キロのところにあり、霞ヶ浦の湖岸に広がる平野部に出ていく通路だったということです。
 私はこの地域の地理については全く知識がないのですが、この地は現在の石岡市周辺に当たり、当時は常陸国の国府が置かれていて、政治経済の中心地だったということです。聖人は板敷山を通ってその国府に足を運ばれて、念仏のみ教えを弘めておられました。前回にも記しましたように、聖人のみ教えは多くの人びとに受け入れられ、聖人をお慕いする人びとの輪は広がっていきます。

 そのことを快く思わず、聖人を恨んだ修験者の一人について記されたのがこの下巻第三段です。
 その修験者は聖人に危害を加えようと板敷山で何度も待ち伏せするのですが、うまく行きませんでした。なぜうまく行かないのだろうと、いぶかり、直接聖人の庵を訪ねます。聖人に危害を加えようとやってきたのですが、聖人はためらうこともなくお会いになります。修験者はその聖人のお顔を拝したとたん、聖人を害さんとした心が忽ち消え、後悔の涙がどめどなく流れました。そして聖人に帰依することになり、明法房という名前を受けて聖人の高弟となられます。

 明法房は親鸞聖人よりも11歳年下でしたが、聖人に先立つこと12年、建長3年(1251年)に往生されます。都に戻っておられた聖人がそのご往生の報を聞かれて、常陸国の門弟に宛てて送られたお手紙に次のように記されています。
 「明法房が浄土に往生なさったということは、驚くようなことではありませんが、本当にうれしく思っています。」(『親鸞聖人御消息』第2通)
 また、同第4通には、
 「何よりも明法房が往生の本意を遂げられたことは、常陸の国の往生を願っておられる人々にとって、よろこばしいことです。」、「明法房などが浄土に往生しておられるのも、かつてはとんでもない誤った考えを持っていたその心をあらためたからに他なりません。」と記されます。
 聖人は、明法房のご往生の知らせをお聞きになって、稲田での明法房との出遭いを深い感慨をもって思い出しておられたことと思います。

 明法房は「弁円(べんねん)」と呼ばれていたとも伝えられていて、この下巻第三段は「山伏済度の段」あるいは「弁円済度の段」とも呼ばれています。しかし、平松氏によれば、弁円という名前が記録に表れるのは江戸時代以降からだそうで、実際に弁円という名前だったのかどうか確かではないのだそうです。

 (以前ご門徒さんのお宅で拝見した「べんねん」と記された軸では、弁円は庵の縁にではなく地面に山伏の姿のまま跪いていました。)

(お詫びと訂正です)

 前回の図で、親鸞聖人は先端が二つに分かれた鹿杖(かせづえ)を手にしておられる、と書きましたが、自坊の絵をよく見ますと先端は二つに分かれていないようです。平松氏は赤野井別院の御絵伝について説明をされていたものですが、このように図柄が違っているものもあるようです。

 (こちらが、赤野井別院の御絵伝です。赤野井別院は滋賀県守山市にある別院です。)
  20190823下巻第三段赤野井別院

(図は、西本願寺本伝絵の下巻第三段です)

 御絵伝では1枚の絵に4つの場面が描かれていましたが、伝絵では山伏が2名描かれている図と、この図の2枚に分けて描かれています。
 この図では少し見えにくいのですが、絵のほぼ中央に親鸞聖人が庵の入り口のところで2人の人物に会われているところ、左には山伏に対面されている場面が描かれています。

 前回の自坊の御絵伝と比較してみますと、今回の山伏は右の庵の入り口では長髪で着物を着ていますが、左の聖人と向かい合っている場面ではその着物は脱いで縁に置かれ、既に剃髪し墨染の衣に着替えた姿に描かれています。
 他の図を見てみましても、いわゆる伝絵(絵巻物)ではこの剃髪、黑衣姿で描かれているようでが、絵伝になるとまだ剃髪せずに柿色の衣姿になっているようです。
 時代が下って絵伝が作成された頃にはこのように絵柄が変更されたようですが、なぜこのような違いができたのでしょうか?柿色の衣装の方が聖人が山伏に対しておられるという緊迫感があることからこのように変更されたのかもしれません。
 
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564.御絵伝に見る親鸞聖人のご生涯 (37):下巻第三段

201908119下巻第三段自坊

 「御絵伝に見る親鸞聖人のご生涯」は、下巻第三段に入ります。4幅の御絵伝では3幅目の一番上の図に当たる部分です。

 『御伝鈔』下巻第三段の最初の御文と現代語訳です。

  聖人(親鸞)常陸国にして専修念仏の義をひろめたまふに、おほよそ疑謗(ぎほう)の輩(ともがら)は少なく、信順の族(やから)はおほし。しかるに一人の僧[山臥(やまぶし)と云々(うんぬん)]ありて、ややもすれば仏法に怨(あだ)をなしつつ、結句(けっく)害心(がいしん)をさしはさみて、聖人をよりよりうかがひたてまつる。

(親鸞聖人は、常陸国で専修念仏の教えを弘められましたが、大部分のところではそれを疑ったりそしったりする連中は少なく、信じしたがう人びとがほとんどでした。
 ところが修験道の行者だと称する一人の僧が、そんな念仏による仏法の弘まりに恨みを抱き、敵愾心を燃やして、聖人に危害を加えようと、その機会をねらうようになりました。)


 親鸞聖人の稲田でのご様子を伺うことができるのは、前回の第二段と今回の第三段の二つの段です。
 今回の第三段では、聖人が常陸の国で説かれた念仏の教えに対して、多くの人びとはそのみ教えを喜び、信じ従い、それを疑ったりそしったりするものは少なかったと記されます。しかし、それでも念仏の教えがひろまることに対して、恨みを持ち、さらには聖人を害しようとその機会を狙ったものもいたのだと記されています。

 それが今回の段に登場する修験道の行者と自称する僧です。
 平松氏によれば、親鸞聖人が常陸国におられたころには、庵を結んでおられた稲田の近くの筑波山地は修験道の行者、いわゆる山伏(山臥)が修行を行う行場となっていたのだそうです。修験者は山中で修行を積み、特殊な力を身につけたとして加治祈祷の呪法(じゅほう)を行っていたようです。
 平松氏は、その一方で、この地域は信濃の善光寺とつながりが強く、すでに善光寺信仰も広まっていたとされます。従って、山伏たちの呪法と善光寺の念仏信仰とが対立する状況にあったということになります。
 
 そのような中、親鸞聖人が説かれる専修念仏の教えは多くの人びとを引きつけ、急速に広がりを見せました。
 修験の山伏にとっては、聖人のみ教えがひろまることは自身の存在を否定するものとして受け止められ、聖人に対する反発、怨念が増高し、中には聖人に危害を加えようと企むものも出てきました。
 下巻第三段はそのような背景の中で生じた出来事です。

(図は、自坊の御絵伝の下巻第三段です)

 この図は以前にも出てきました「異時同図画法」という、異なった場面を1枚の図に描く手法で描かれています。右の山伏と思われる2人、その左ではそのうちの1人が走っているところ、次いで聖人の庵の入口、それから屋内を描いた4つの場面です。

 この4つの場面すべてに登場しているのが、一人の修験道の行者です。彼は、三番目と四番目の部分では鎧は脱ぎ捨てて茶色に白い斑点模様の衣装に変わり、四番目の絵では手に何かを持っている所が描かれています。この手に持っているものは、修験者の象徴である頭巾だという説明と、切り取った自身の髪の毛だという説明がありました。どちらなのかよく分からないところです。

 親鸞聖人は、この絵の中では三番目と四番目の部分にお姿が描かれています。三番目の聖人は先端が二つに分かれた杖をついておられますが、平松氏によれば、これは鹿杖(かせづえ)と呼ばれる杖で中世の念仏聖に通有の持ち物だったということです。

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563.御絵伝に見る親鸞聖人のご生涯 (36):下巻第二段(3)

IMG_4030 (2)1 
 
    少し間があきましたが「御絵伝」に戻り、下巻第二段の後半です。
 『御伝鈔』の御文と現代語訳です。

 幽棲(ゆうせい)を占(し)むといへども道俗あとをたづね、蓬戸(ほうこ)を閉(と)づといへども貴賤ちまたにあふる。仏法弘通(ぐずう)の本懐(ほんがい)ここに成就し、衆生利益の宿念たちまちに満足す。このとき聖人仰せられてのたまはく、「救世菩薩の告命(ごうみょう)を受けしいにしへの夢、すでにいま符合せり」と。

 (すると、ひっそりとかくれて住むつもりで庵室の戸も閉じていたのですが、僧尼や一般在家の人びとがつぎつぎとやってきて、門前は民衆でいっぱいになりました。仏法を社会に弘め、民衆を救済したいという聖人のかねてからの念願は、こうして達成されたのでした。そのとき聖人は、「青年のころ、京都六角堂の救世観音さまから聞かされた夢のお告げとピッタリだね」とつくづくおっしゃったことでした。)


 下巻第二段の前半では、聖人が越後国を出られ常陸国の笠間郡稲田郷に隠居されたと記されていました。
 今回の部分では、その稲田郷での様子が記されます。それによりますと、聖人の草庵にはその教えを聞きたいと多くの人びとが押し寄せるように来られたとされます。道俗(僧侶もそうでない人も)、貴賤(身分の高い低い)様々な人びと、もちろん男女も問わずに聖人の教えに耳を傾けたことが想像されます。

 親鸞聖人は、その様子を、若い頃京都の六角堂で救世観音から受けた夢告と「ピッタリだね」(この現代語訳は平松氏の訳によります)と仰ったということが記されます。
 この六角堂で聖人が受けられた夢告というのは、御絵伝上巻第三段で学びましたように、聖人が29歳の時に京都の六角堂に百日間参籠された際に受けられた夢告のことです。
 その95日目に聖人の夢の中に救世観音があらわれて、「行者宿報設女犯 我成玉女身被犯 一生之間能荘厳 臨終引導生極楽(前からのいろいろな縁によって妻帯をするようなことになった場合は、私(救世観音)が玉のような女の姿になって、つれそってあげよう。そして一生の間よくおごそかに飾ってあげて、臨終になったら極楽へつれて行ってあげよう。)」という言葉とともに「これは私が人びとを救おうと願って立てた誓いなのだ。善信よ、お前はこの誓いの趣旨を説明して、あまねく一切の衆生に聞かせなさい」と告げられました。親鸞聖人は、東の方向に多くの人びとがいることに気づき、その救世観音のお言葉の趣旨をこの人びとに説こうと思ったところで目覚められた、という逸話です。

 この夢告を受けて親鸞聖人は直ちに法然聖人の許を訪ねられたように、親鸞聖人にとっては大変に重要な出来事でした。聖人は稲田の草庵の様子を、六角堂での救世観音の夢告の体験に重ねられたのです。
(図は、稲田の草庵を描いた伝絵で、東本願寺に伝えられているものです)

 この東本願寺本と呼ばれている伝絵は、康永2年(1343年)に制作されたものといわれています。覚如上人が最初に伝絵を制作されたのが永仁3年(1295年)親鸞聖人が亡くなられてから33年後、覚如上人26歳の時ですから、それ以来48年を経ての制作でした。当初の伝絵にはこの稲田の草庵の様子を描いた図は入っていなかったのですが、この東本願寺本には加えられていて、これがその後の御絵伝の基本になったとされているものです。

 茅葺と見られる建物の右奥に見えるのが親鸞聖人です。縁側や庭、門前に様々な人が集まってきているのが見え、まさに道俗、貴賤、男女が溢れるように集う様子が描かれています。

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562.ご紹介します(22):「空と湖水」

20190812表紙 (2)s   20190812表紙3

 今日は、植松三十里さんという方が書かれた「空と湖水」という書籍をご紹介します。7月5日に発行されたところです。

 この本は、三橋節子さんという日本画家の生涯を描いた本です。実は同じ節子さんについて昭和52年に発行された「湖の伝説」という本がありました。もう40年以上前に梅原猛氏が書かれた本なのですが、私はこの本を読んで受けた驚きと感銘について今も記憶しています。
 今回節子さんについて描かれた本だということで、植松さんの本を興味をもって読み、また梅原氏の本ももう一度図書館から借りてきて読みなおしました。以前梅原氏の本も手元にあったのですが、こちらに帰る引っ越しの際に置いてきたようで、図書館から借用ということになりました。

 三橋節子さんは昭和14年3月京都に生れました。京都市立美術大学日本画科専攻科を修了、日本画家としての歩みを始められ、その後多くの賞を受賞するなど順調に日本画家としての地歩を固めておられました。
 ところが昭和48年34歳の時に、以前から感じていた右肩の痛みについて診察を受けたことろ、痛みの原因は鎖骨腫瘍で手術により右腕を切断することが必要だということが分かります。同年3月、節子さんは画家にとって命ともいえる利き腕の右腕の切断手術を受けられます。手術の後、節子さんは残された左腕のリハビリに取り組まれるのですが、専門家も驚くほどのスピードで左手の能力を獲得され左手による制作を始められました。
 その後も手術以前にもまして制作に取り組まれ、多くの作品が高い評価を受けました。しかし、48年12月がんが左肺に転移していることが分かり、肺の手術を受けられますが、がんは肺全体に広がった状態で手術による回復は絶望的であることが判明、その結果は節子さんの両親やご主人に告げられます。
 翌昭和49年1月に節子さんは退院、その後も体調のよくない中、残された時間を惜しむように精力的に制作に取り組まれていました。しかし、病気は確実に進行、翌年昭和50年2月節子さんは転移性肺腫瘍で亡くなられました。35歳の若さでした。

 節子さんが描かれた絵を集めた「三橋節子画集」という本があります。昭和55年3月に梅原氏が責任編集者として出版されたものです。その中に、ご主人の鈴木靖将氏がまとめられた「図版目録」があり、節子さんの画業を一覧できるようになっています。
 その目録を見ますと、節子さんが手術の半年後昭和48年9月に百号(縦162センチ、横130センチ)の大作を2点、そのうちの一つが「三井の晩鐘」なのですが、を完成させて毎年出品されていた「新制作日本画展」に出品されたことが分かります。その12月に再手術を受け翌年1月の退院の後、亡くなるまでの約1年間に描かれた作品として13点があげられています。2度の手術の間の体調も万全ではなかったものと思われます。そのような中で、ものすごい集中力で制作に取り組まれたことがよく分かります。

 2冊の本の表紙に取り上げられている絵を観賞したいと思います。

 最初の写真、左、植松三十里氏の本の表紙にとりあげられているは「三井の晩鐘」という昭和48年9月の作品です。
 節子さんの作品には近江の伝説に取材したものが多いのですが、この「三井の晩鐘」も民話をもとにした作品です。
 「昔、近江の里に若い漁師がいたのですが、見知らぬ美しい娘と結ばれます。子供もできたのですが、あるとき妻は夫に、自身が琵琶湖の龍神の化身であってもう湖に帰らなければならない、と言って引き留める夫を振り切り湖に戻ります。残された夫は夜になると乳飲み子を抱え浜に出て妻を呼びます。すると妻が表れて子供に乳を与えては湖に帰っていくというようなことが繰り返された後に、妻は自分の右の目をくりぬいて、これを子どもになめさせてください、と告げます。子供はその目を口にすると泣きやんだのですが、右目がなめ尽くされ今度は妻は左の目を与えます。妻は、両方の目がなくなって私は方角が分からなくなりました、これから毎晩子供を抱いて三井寺の鐘をついてください。そうしたらその音であなた方の無事を確かめることができます、と言い、それから毎晩三井寺で晩鐘をつくことになった」という民話です。

 この絵には、手前に目をなめている子供、その後ろにもう一つの目を手にして龍をまとわりつかせている盲目の女性、左に大きな鐘が描かれています。
 節子さんは、同じ日本画家のご主人との間に、男の子(草麻生:くさまおう)と女の子(なずな)を授かっていました。この絵は節子さんが右腕を切断した6か月後、再発が分かる3か月前の9月に描かれました。医師から再発の可能性について告げられていた節子さんには、再発への恐れやその場合に子供たちを残していかなければならないことなどが胸一杯にあったと思われます。  
 そうして見ますと、この龍女は節子さんの自身の姿であって、大切な子供に何か残しておいてやりたい、という痛切な思いが描かれていると思われます。
 手術後に驚くべき回復力で能力を獲得して描かれたたくさんの絵も、節子さんが子供たちを始めたくさんの人びとに残したいと願い描かれたものだといえます。

 右、梅原猛氏の本の表紙は、「花折峠(はなおれとうげ)」と題された絵で、昭和49年9月の作品です。花折峠という美しい響きのこの峠は京都から若狭に行く街道の途中に実際にあります。かつて訪ねたことがありますが、山間を縫う峠で、この峠についても次のような民話が伝えられています。
 「昔、やさしくて誰にも好かれる娘と、反対に何かにつけて評判のよくない娘の姉妹がいました。二人は一緒に花を頭に載せて遠くの里に売りに出かけるのが常でした。そんな二人でしたから優しい娘の売り上げがいつもよくて、もう一人の娘はそのことを恨んでいました。そんなある日、大雨になりました。こころ優しい娘は持ってきた雨具を二人で使いながら帰っていましたが、急流にかかっていた丸木橋のところで、評判のよくない娘は優しい娘を橋から急流に突き落とします。優しい娘は急流に飲み込まれて流されていきました。突き落とした娘は急いで里に帰るのですが、すると優しい娘が何事もなかったのかのように鼻歌交じりで夕飯の準備をしています。驚いた娘が丸木橋のところに戻ってみると、その辺り一面に茎の折れた花が散らばっていました。その後この場所を花折峠と呼ぶようになった」という民話です。

 この絵の中央右上から左下に向けて川が流れています。その川に一人の娘が浮んでいて、その左上には花籠を頭上に持った娘が描かれています。そしてこの絵の右下部、半分以上を占める部分にたくさんの種類の花が白い色彩で描かれているのが印象に残ります。しかもその花の茎はほとんどと言っていいほど全てが途中で折られているのです。前記の民話を節子さんが絵にしたもので、川に浮かんでいるのが心優しい娘だと考えられます。
 節子さんがこの絵を描いたのは、肺のがんの治癒が絶望的だということが分かり、そのような中でも制作に集中していた時、亡くなる5か月前です。
 梅原猛氏はこの絵を「花好きの節子がかいた自らの涅槃図である」と記されています。「節子も花売娘と同じく、何一つ非難さるべき所のない女であったが、残酷な運命に襲われた。しかし彼女も、その運命を、決してうらんだりせず、釈迦の如く安らかに、今、死につこうとしている」
 節子さんは、その二人の子供さんに植物の名前をつけるほど植物を愛しておられたそうです。後に残される子どもたちや、ご主人、家族のことを思いながら、それでもたくさんの花に囲まれて死を受け入れているそのような姿が見えます。梅原氏の言葉で思い起されるのですが、たくさんの動物に囲まれたお釈迦さまの涅槃図が浮かんできます。

 私がこの節子さんの生涯を知って、驚き感銘を受けたのは二つの点です。
 その一つは、がんに侵され利き腕の右手を切断するという、普通の人間ならば絶望して全てを投げ出してしまうような状況に直面しながら、驚異的なスピードで残された左手の能力を獲得し、制作に没頭し、優れた多くの作品を作り出したことです。右腕切断の手術の後、そして肺の手術の後とさらに加速するようにたくさんの作品を残されました。
 死が間違いなく近くにある、という感覚を持った時に、私たちはこのような力を発揮できるのだろうか、ということを考えさせられます。近くにあるかどうかは別にして死が間違いなくあるのだと、私たちは口にはします。しかし本当に、これではいけないと思い、残された時を節子さんのように力の限り生きているのだろうか、といつも自身に問いかけなければならないと改めて思います。

 その二つ目は、節子さんがこのようないわば理不尽な厳しい状況のなかでも、周りの人に感謝の気持ちを持ち続け、決して自身の不幸を嘆くことがなかったということです。
 節子さんがこのように厳しい状況の中で制作に取り組むことができた背景には、ご主人や、ご自身のご両親、嫁ぎ先のご両親の支えや励ましがありました。そして二人の子供さんの存在も大きな力になりました。梅原氏は、節子さんを力づけたご主人の言葉を紹介されています、「右手は無くなっても、俺の手と合わせて三本あるじゃないか」と。
 このような多くの力に支えられ、残された時間を思い、子どもたちのことを思い、節子さんは制作に向かわれました。そして父の三橋時雄氏の文では、最期のとき、苦しい息づかいの中から「ありがとう、幸せやった」という言葉を残されたそうです。

(左は「空と湖水」の表紙、右は「湖の伝説」の表紙です)

 それぞれ「夭折の画家三橋節子」「画家・三橋節子の愛と死」という副題が付されています。


(以下は、2019年9月20日追加分です)

 梅原猛氏の「湖の伝説」の本は引っ越しの際に置いてきたようだ、と書いていたのですが、こちらに持って帰っていたことが分かりました。なぜそうしたのか記憶がないのですが、いつも使っている本棚とは別の本棚にあったのです。気に入った本でしたから、見つけることができて喜んでおります。
 それで、以前置いていた本(宇部市立図書館からお借りしたものでした)の図を今回「発見した」本の図に置き換えました。そして図書館の分は、こちらに移転です。といっても、図書館の蔵書であることを示すラベルがちょっと見えるだけの違いなのですが・・・・

     20190812表紙2 (2)s

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561.宇部北組キッズサンガのご案内です

20190809s.jpg

 下記により、宇部北組の仏教子供会主催のキッズサンガが開催されますので、奮ってご参加ください。

1.実施日時
 9月23日(祝)10:00(受付9:30から)~13:00

2.場所
 宝林寺(宇部市小野8043-1 tel 0836-64-2548)

3.実施内容
 ・勤行、法話
 ・「ボッチャをしよう」(ボッチャを楽しみます)
 ・昼食(カレーライスをご用意します)

4.参加対象
 小学生(未就学児、中学生の参加もお待ちしています)

5.参加費
 無料

 今年4月に実施しました「花フェス2019(花まつり)」は、ご門徒さんの子供さんから対象を広げ、ご門徒さん以外の幅広い年齢層の方にもご参加いただきたいを企画されましたが、今回の「キッズサンガ」は、子どもさんにお寺に親しんでいただきたいと企画されたものです。
 一緒にボッチャ(私は初めてですが)を楽しみませんか?

 (このブログの前回記事で新聞の内容をご案内していて、このキッズサンガについてご案内をしていないことに気づきました。このブログを記録としても利用していますので、前後しましたが掲載しました)

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560.新聞版「壽福寺だより」を発行しました

20190805紙面2  20190805紙面 

 新聞版「壽福寺だより」8月号を発行しました。
 今月号の内容です。

〇1面
 「夏法座をお勤めしました」

 「お盆のお勤めに伺います」

 「秋法座のご案内です」

〇2面
 「山口教区総代会全体会」
  6月3日に開催された教区の総代会全体会のご報告と、大來尚順氏のご話のご報告です

 「ご存知ですか(20)三重県の真宗史跡」
  団体参拝で訪問する予定の「一向一揆と願証寺」(このブログでも2回にわたって取り上げました)および「専修寺」をご紹介しています

 「キッヅサンガに参加しませんか」
  9月23日に開催を予定していますキッズサンガの案内です

(写真を入れ替えました)

 以前掲載しました長島の願証寺を取り上げた記事で、願証寺の写真はウイキペディアから借りておりましたが、今回入れ替えました。桑名市に在住の友人にお願いして写真を撮っていただくことができましたので、入れ替えることができました。写真を借りているというのはなんとなく落ち着かないものですから、ほっとしたという感覚です。ご協力いただいた友人にお礼申し上げます。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)

559.ご紹介します(21):「秋吉台で出会った花」

20190802中沢本   20190802中沢本2

 今日ご紹介するのは『秋吉台で出会った花』という本で、著者は中沢妙子さんという方です。

 この本は、私にとっては愛読書というよりは常備本とでもいう存在です。
 梅雨が明けて、先日から天候と時間を見て(時々)山歩きをするようにしています。最近は秋吉台を歩くことが多いのですが、この本はいつもリュックの中に入っていて、途中で見かけた植物について調べる時に重宝している本なのです。

 この本には、秋吉台で見られる植物792種が取り上げられていて、写真と説明文で紹介されています。
 ご本人の言葉によれば、中沢さんは「もともと植物については全くと言っていいほど無知だった」そうですが、お住いの山口からくじゅう(久住・九重)に通って花の写真を撮ることを楽しみにされていました。その後、知人から「遠いくじゅうまで行かなくても秋吉台に行ってみては」と勧められて秋吉台に通われるようになったのだそうです。

 それからもう20年以上もの間、ほとんど毎日のように秋吉台を歩き、植物を観察し記録して来られました。「たこさんの秋吉台日記」というHPを持っておられますが、その記事によればその間に観察した植物は1554種にもなるのだそうです。
 それらの中には、植物学の定説に修正を加えるようなこともあったということです。その例として、アキヨシアザミの分類に関する文章がこの本にあります。アキヨシアザミは秋吉台に固有の植物なのだそうですが、従来はモリアザミというアザミの仲間の変種だとされていたのだそうです。しかし、中沢さんの観察結果も含めてアキヨシアザミは秋吉台特産の独立した種だという見解も出されているということです。

 中沢さんがインタープリター(解説者)として案内される植物観察のツアーが催されています。これは4~5時間で、中沢さんから植物についてお話しを聞きながら散策するという楽しいツアーで、一時はよく参加していました。
 そのツアーでのやり取りで今も覚えていることがあります。
 秋吉台のカルストロードのそばでハマヒルガオの群生を見つけたことがありました。元々は海岸に分布しているこの植物がなぜこのような高地の秋吉台にあるのだろうと不思議に思っていて、ツアーに参加した時にそのことを中沢さんに尋ねたことがありました。それに対して中沢さんから即座に答えが返ってきました。「それは海岸で採取された砂が工事に使われ、その中にハマヒルガオの種子が紛れ込んでいたのでしょう」その答えは私にとって思いもつかないものでしたが、なるほどと深く納得できるものでした。それまでの疑問が一気に疑問が解消された思いで、今もそのことを思い出します。

 この本の初版に秋吉台科学博物館名誉館長の庫本正さんが、「秋吉台の植物に憑かれた人」と題して次のように紹介文を寄せておられます。
 「秋吉台の植物熱中人がいよいよ皆様の前に現れて、体験された草花とのやりとりを語り始めたのです。この本は写真も文章も中沢さんの渾身の表現です。秋吉台の自然を歩く際、ポケットに入れておき、植物図鑑とすると同時に植物の世界の魅力を知るバイブルにしてください。」
 (ポケットにいれるにはちょっと重いかもしれませんが、全く同感です。また観察ツアーにも参加しましょう。)
 
(左は『秋吉台で出会った花』の改訂版、右がその初版です。)

 初版は2010年12月10日に発刊されました。私は2013年4月にこちらに帰ってきてこの本が欲しいと探したのですが、書店では既に売り切れとなっていました。それでやむなく必要なときには図書館で借りていました。というようなことで、こちらの版は手元にはなく、今回は厚狭の図書館から借りてきました。
 その後2014年4月1日に改訂版が出されて、求めたのが左です。ポケットならぬリュックに入れて持ち歩きましたので、擦り切れております。

 改訂版の外見は初版と同じように見えますが、内容では、取り上げられている植物に入れ替わりがあるほか、大きな違いは植物を初版とは違った分類体系で分類し直しておられる所です。植物の分類体系は、遺伝子解析の技術を取り込んで大きく変わりましたが、改訂版ではその新しい体系に従って分類されています。中沢さんは新しい体系でまとめる苦労について記されていますが、改訂版発行にはそのようなご苦労もあったことが分かります。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)
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