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558.歴史を訪ねる(19):大内氏歴史文化研究会(3)「京都の祇園祭と山口の祇園祭」

20190729講演会案内   20190729鷺舞人形s

 7月20日、山口県立図書館で「大内氏歴史文化研究会」の講演会「京都の祇園祭と山口の祇園祭」が開催され、聴講することができました。この講演会は以前ご報告しました「大内義隆の遷都計画」に次いで「大内氏遺跡指定60周年記念事業」の一環として催されたものです。

 講師は奈良大学教授の河内将芳氏で、京都と山口の祇園祭についてその関連や、その後の展開などについてお話を聞くことができました。
 後で気づいたことなのですが、7月20日は山口の祇園祭の初日「御神幸」の日に当たっていました。その講演を聞いた後で実際に山口の祇園祭を見ることができるという配慮の行き届いた企画になっていて、私も当日「鷺(さぎ)の舞」を見学することができました。
 今回はこの講演の内容についてご報告します。

 山口の祇園祭は、八坂神社の祭礼として7月20日から27日にかけて催されるものです。社伝によりますと山口の八坂神社は、応安2年(1369年)に都の文化に深い憧憬の念を持っていた大内弘世公が京都の八坂神社から勧請(かんじょう)して建立されたものとされています。
 その後、京都の八坂神社の祭礼である祇園会(祇園祭)も山口八坂神社で執り行われることとなりました。その開始の時期について、講演会の資料では長禄3年(1459年)大内教弘公の時代だとされていましたので、神社建立から約90年後ということになります。

 山口の祇園祭の中に「鷺の舞」という舞を奉納する神事があります。祭の初日7月20日に舞われる舞なのですが、その舞がいつ頃山口に伝わったのか、その後どのような展開があったのか、というお話しも聞くことができました。

 この「鷺の舞」は鷺の衣装を着けた踊り手2人が囃子に合わせて舞います。これも京都から導入された神事なのですが、この舞の山口伝来については、八坂神社勧請と同時期に伝わったとする説がある一方、永正17年(1520年)の記録ではこの鷺の舞について記載がないところから、山口で行われるようになったのはそれよりも後のことだとする説があるようです。後者の説によりますと、天正11年(1583年)には舞に関する記録があるところから、この約60年の間に始まったと考えられるているようです。
 本家の京都八坂神社の祇園会は応仁元年(1467年)以降応仁の乱の影響により中止されていて、明応9年(1500年)に33年ぶりに再興されたというお話しがありました。しかし鷺舞の方は、その後絢爛豪華になっていった山鉾や傘鉾の中で影が薄くなって江戸時代中期には廃絶状態になり、ようやく近年になって再興されたということです。
 また島根県津和野でも鷺舞が行われています。これは津和野の弥栄(やさか)神社の祭礼で奉納されるものですが、その起源は天文11年(1542年)に時の城主吉見大蔵正頼公が山口の大内義興公の息女を迎え入れたことにより、津和野に伝わったものだとされています。こちらもその後一時廃絶となったものの、江戸時代初期に再興され、現代では鷺舞といえば津和野というようにその名が広がっています。
 この他に、東京浅草浅草寺や神奈川県、福島県の神社でも鷺舞が奉納されているという情報がありますが、いずれも中断したものを再興したものとされています。

 津和野の鷺舞を見たことはないのですが、山口の鷺の舞は津和野のものと比較すると簡素なもののようです。しかし、このように見てみますと、鷺舞は京都に始まって山口に伝わったのですが、京都でも廃絶、山口から伝わった津和野も一時中断されていたということで、山口の鷺の舞が最も古い形を引き継いでいるのではないかというコメントもされていました。

 当日、講演会の後に山口の鷺舞を見ることができましたので、これについてはもう一度取り上げたいと考えています。
 
(左の図は講演会の案内、右の写真は津和野の鷺舞をかたどった人形です)

 右の人形は、もう40年前になりますが、津和野に行った際に気に入って購入したものです。スマートな木彫りに厚手の和紙で作られた羽と袴が鮮やかなもので、小さな土産物店においてありました。

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557.御絵伝に見る親鸞聖人のご生涯 (35):下巻第二段(2)

20190726下巻第二段八嶋s

 御絵伝下巻第二段の第2回目になります。

 親鸞聖人が越後を離れ常陸国に向かわれる途中の逸話が伝わっています。覚如上人が著された『御伝鈔』では触れられていませんが、聖人の奥様の恵信尼公が記された『恵信尼消息』に取り上げられた逸話です。
 
 この『恵信尼消息』は、越後に戻っておられた恵信尼公が親鸞聖人が亡くなられた後に、京都におられる娘の覚信尼公に送られた8通の便りを指します。恵信尼公は聖人のことを懐かしく回想されますが、すでに学びましたように、公はその中で親鸞聖人が比叡山で堂僧として修行をされていたことを記されていました。比叡山時代の聖人のことは、この消息が発見されて初めて知られるようになったとされますように、『恵信尼消息』は聖人のご生涯や聖人と恵信尼公の関わりについて多くのことをお伝えいただく資料でもあります。

 その『恵信尼消息』の中に、越後から関東に向かわれる途中のことと思われる次の一文があります。

 三部経、げにげにしく千部よまんと候ひしことは、信蓮房の四つの歳、武蔵の国やらん、上野の国やらん、佐貫と申すところにて、よみはじめて、四五日ばかりありて、思ひかへして、よませたまはで、常陸へはおはしまして候ひしなり。

(浄土三部経を心を込めて千回読もうとされたのは、 信蓮房が4歳の時で、 武蔵の国か上野の国か、佐貫というところで読み始めて、 四、 五日ほどして思い直し、 読むのをやめて常陸の国へ行かれたのです。)


 ここで、恵信尼公は佐貫(さぬき)というところで起きたことを記されています。その時親鸞聖人は浄土三部経を千回読もうと思い立たれます。その前に記されている文によりますと、聖人は「すざうりやくのためにとて(衆生利益のために)」読み始められたのですが、4、5日して思いなおして読むことをやめて常陸国に向かわれた、と恵信尼公は記されています。

 この文によって、親鸞聖人は佐貫(現在の群馬県明和村にある佐貫だろうとされています)という場所を経由して常陸国に向かわれたことが分かります。『恵信尼消息』のこの一文によって聖人が常陸国に向かわれた経路が分かるのですが、そのことと併せて私たちは、聖人が一度は始められた三部経の千回読誦をやめられたこと、そしてなぜそうされたのか、ということについて聞かせていただくことが大切だと思います。

 同じご消息には、恵信尼公が、寛喜3年(1231年)に親鸞聖人がひどい風邪をひかれたことと、その時の親鸞聖人とのやり取りを記されたものがあります。その中で聖人は17,8年前(建保2年=1214年頃)に経験されたことを話され、それを受けて恵信尼公が記されたのがこの一文です。
 親鸞聖人は風邪をひいて苦しい中『無量寿経』を絶え間なく読んでいたのだと恵信尼公に言われます。しかし、そのことで聖人はかつて三部経を千回読もうと始められ、思いなおして中止されたことを思い起されます。恵信尼公は聖人のお言葉を次のように伝えられます。

 みづから信じ、人を教へて信ぜしむること、まことの仏恩を報ひたてまつるものと信じながら、名号のほかにはなにごとの不足にて、かならず経をよまんとするやと、思ひかへして、よまざりしことの、さればなほもすこし残るところのありけるや。人の執心、自力のしんは、よくよく思慮あるべしとおもひなしてのちは経よむことはとどまりぬ。

 (自ら信じ、 そして人に教えて信じさせることが、 まことに仏の恩に報いることになると信じていながら、 名号を称えることの他に何の不足があって、 わざわざ経典を読もうとしたのかと、 思い直して読むのをやめました。今でも少しそのような思いが残っていたのでしょうか。 人が持つ執着の心、自力の心は、 よくよく考えて気をつけなければならないと思った後は、 経典を読むことはなくなりました。

 聖人の師である法然聖人は称名だけが正定業(衆生の往生が決定する行業)だとされたのですが、三部経の千回読誦を始められた親鸞聖人は、名号を称える他になにの不足があって読経を行おうとしたのか、と思い返されて読誦を中止されたのです。
 このように法然聖人に帰依されてから13年佐貫の地でそのことに気づかれたのですが、その後17年、病による夢うつつの中で『無量寿経』の経文が口に出で、文字が目に浮かんだということを述べられました。聖人は私たちに、衆生を救済するという目的であれ自分が読経しそれを実現したいという自力の思いが、逃れ難くも強く私たちを取り込んでいるのだということを、ご自身の体験として示していただきました。
 
(図は、専修寺本の伝絵です)
 
 図の右に「国分寺也」とあるのは下野(しもつけ)の国分寺のことではないかとされています。また、左に「下野国むろのやしまのありあさまなり」と注記がありますのが、これは、風光明美で知られた「室の八嶋」のことだとされていますので、この水は海ではないことになります。

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556.歴史を訪ねる(18):長島一向一揆

20190722願証寺s  20190722願生寺2s 

 前回は、戦国時代に本願寺教団が中心となって戦われた一向一揆についてその概要を学びました。今回は、そのうち「長島一向一揆」と呼ばれている一揆について情報をまとめます。

 長島一向一揆は、元亀元年(1570年)から天正2年(1574年)の間、伊勢長島(現三重県桑名市)を中心とした地域で織田信長に対抗して戦われた一向一揆です。時期としては一連の一向一揆の中の最終局面に当たります。

 この長島(元々は七島だったそうです)の地は、木曽川、揖斐川、長良川のいわゆる木曽三川の河口付近の輪中(わじゅう:集落を水害から守るために周囲を囲んだ堤防、あるいはその堤防で囲まれた集落のことをいいます)地帯です。上記の川が枝分かれして陸地から隔絶された地形になっていたということです。

 文亀元年(1501年)(開基については諸説があるようですが)に本願寺第8代宗主蓮如上人の6男の蓮淳上人により願証寺が創建されました。それ以来、本願寺門徒は地元の国人領主層を取り込んで、この地域を支配するようになりました。
 永禄10年(1567年)織田信長は、美濃の稲葉山城(現在の岐阜城)を攻め落とし美濃国を平定しましたが、城主だった斎藤龍興は長島の地に逃げ込んだとされます。龍興を追った信長は伊勢に攻め入り北伊勢を服属させましたが、長島の地には力が及ばなかったようです。
 その結果、伊勢長島は信長に敵対する勢力の拠点という性格を持つことになりました。

 元亀元年(1570年)本願寺が信長に対して蜂起した石山戦争に当たって、信長に対して立ち上がるようにとの檄文が全国に発せられます。これに呼応して本願寺門徒や北伊勢の豪族が信長に対して起した戦が長島一向一揆です。

 この頃信長は、近江国(現滋賀県)で朝倉氏、浅井氏と対峙しておりこの長島の蜂起に対抗する勢力を送ることができませんでした。しかし、朝倉・浅井連合軍と和睦を結びこの方面の憂いをなくした信長は、元亀2年(1571年)再度伊勢に侵攻します。  
 この第一次合戦は一揆軍の勝利に終わり、信長の長島攻略は失敗に終わります。ウイキペディアの情報によりますと、この戦で戦った兵は一揆方が10万人、信長方が5万人という多数になっていました。

 次いで天正元年(1573年)、朝倉義景、浅井長政を滅ぼした信長は再び長島攻略を目指します。この第二次合戦で信長軍は一揆方の城を陥落させ北伊勢を平定しますが、用船の調達が難渋したことなどにより、水に囲まれた長島への直接攻撃はできずに終わりました。
 この第二次合戦で戦った将兵の数は、一説には一揆方が2万人、信長方が8万人とされています。

 天正2年(1574年)信長は三度目の長島攻撃に着手します。信長は、長島の特徴を考慮し水軍を強化し、自身の主要な軍勢を総動員する形で、長島攻略を進めます。総数で12万ともいわれる信長軍の攻撃により一揆勢は守城を落とされ、苛烈な攻撃を受けて多くの命(3万人とも言われます)が失われました。
 このように長島の地を失った一揆勢は完全に崩壊し、輪中の自治組織、自治領も消失することとなりました。

 前回記しましたように、一向一揆は第8代宗主蓮如上人の世におこりました。その後実如上人、証如上人の時代を経て第11代宗主顕如上人の時代にこの長島一揆の敗戦と石山戦争をもってその終焉を迎えます。
 本願寺の4代の宗主と一揆が立ち向かった時の権力者との相克は、その時代に応じて複雑な背景があったようです。もう少し情報を整理したいと考えています。

(写真は、現在の長島の願証寺と境内の「長島一向一揆殉教之碑」です。)

 写真は以前はウイキペディアのものを借用しておりましたが、先日桑名市在住の友人にお願いして写真を撮っていただきましたので差し替えました。右の写真に「長島一向一揆殉教之碑」が写っています。
 1975年には願証寺で一向一揆400年追悼法要が勤修されたとお聞きしています。10月の団体参拝の3日目に訪問する計画になっています。

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555.歴史を訪ねる(17):一向一揆

20190719吉崎御坊跡   20190719蓮如上人像

 前々回の記事でご報告しましが、今年10月に計画されている念仏奉仕団の参加者にお配りする「しおり」に掲載する「長島一向一揆・長島願証寺」の記事を担当することになりました。1ページの記事なのですが、以下収集した情報の一部をまとめておきます。

 長島一向一揆は1570~1574年の間、伊勢長島(現在の三重県桑名市)を中心に戦われた一揆のことを言いますが、最初に、「一向一揆」とはどういうものだったのでしょうか。

 『浄土真宗辞典』では「一向一揆」は「本願寺門徒を中心とした一揆のこと。文明年間から天正年間にかけて、畿内・東海・北陸各地で勢力を持ち、当時の政治・社会に大きな影響を与えた。」とされ、加賀一向一揆(文明6年・1474年~)に始まり、永正3年(1506年)の畿内や北陸などでの一揆、天文元年(1532年)前後の畿内での一揆、元亀元年(1570年)からおよそ10年に及ぶ石山戦争や、それに呼応して蜂起した伊勢国長島一向一揆などがある、とされています。

 「一向一揆」の「一向」は「一向宗」という言葉から来ています。この「一向宗」について『浄土真宗辞典』に尋ねますと、「元来は本願寺などの真宗諸派を含む浄土系諸宗派の包括的通称であったが、蓮如の頃には本願寺教団の呼称として広く用いられるようになった。」とされています。第8代宗主蓮如上人(1415~1499年)の頃には本願寺教団を指す言葉となっていたようです。
 ただ、蓮如上人は『御文章』(1帖目15通)で、親鸞聖人はその教えを「浄土真宗」と名づけられ「一向宗」と名乗るようにとは定めておられず、「一向宗」という名は当方から言い出したことではない、と記しておられます。従って「一向宗」という呼称は、本願寺教団を外部から呼んだ呼称だということになります。

 上記の文明年間から天正年間(1469~1593年)という時代は、応仁の乱(1467~1477年)から室町幕府の滅亡(1573年)、豊臣秀吉による天下統一(1590年)に至る戦乱の時代にあたります。
 (防長の歴史でみますと、大内義隆公が陶晴賢に討たれた「大寧寺の変」が1551年ですから、ちょうどこの時代に当たります。)
 それまで権力を維持してきた勢力や新たに台頭してきた勢力が衝突し、権謀術数を繰り広げ、血で血を洗う戦いの時代でした。本願寺教団もそのような社会情勢の中で、各地で抗争に巻き込まれあるいはその当事者となり多くの門信徒に影響を与えることになりました。

 そのうち加賀一向一揆は、文明5年(1473年)蓮如上人(当時は越前国吉崎御坊におられました)の時代に、当時の加賀国(石川県の南部に当たります)の守護富樫家の内紛に関わる形で戦が始まりました。長享2年(1488年)には一揆勢は、対抗することになった富樫政親を滅ぼし、以後約100年の間加賀国を実質的に支配していました。しかし天正8年(1580年)織田信長の配下の柴田勝家により一揆は制圧されました。

 石山戦争(大坂戦争)は、元亀元年(1570年)第11代宗主顕如上人の時代に織田信長に抗して始まった戦です。防長の毛利氏を始め織田信長に対抗する勢力の支援も受けて戦われましたが、天正8年(1580年)織田勢と和睦することとなり、本願寺は石山の地を退去し鷺森(現和歌山市)に移ることとなりました。

 このように、「一向一揆」は、本願寺教団を中心に僧侶、武士、農民、商工業者などによって形成された勢力、自治組織、自治地域、戦闘だったのですが、最後は織田信長との抗争の末に歴史上からその姿を消したものです。

(写真は吉崎にある蓮如上人に関わる遺跡です。現在吉崎には本願寺の吉崎別院があります)

 写真左は吉崎御坊跡、右は御坊跡の蓮如上人の銅像(彫刻家の高村光雲氏の作で昭和9年に建立されたとのこと)です。
(左の写真はネットからお借りしました。右は2009年に私が撮ったものなのですが、イマイチの写真です。)

 京都におられた蓮如上人は、延暦寺などの勢力から執拗な攻撃を受け、文明3年(1471年)越前国吉崎(現福井県あわら市)に移られ、この地に吉崎御坊を建てられました。吉崎御坊は北陸の信仰の中心地となりましたが、富樫氏との戦いの中、文明7年(1475年)上人は吉崎を退去し若狭小浜を経て河内に移られました。その後京都山科に本願寺を移されましたが、その山科本願寺も破却を受け、明応5年(1496年)に大坂石山の地に石山本願寺を建立されました。この石山本願寺が後の石山戦争の舞台となります。

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554.御絵伝に見る親鸞聖人のご生涯 (34):下巻第二段


20190712下巻第二段自坊

 御絵伝の下巻第二段に入ります。4幅の御絵伝では3幅目の下らか5番目の絵です。
 以下、『御伝鈔』の御文と訳文を掲げます。下巻第二段の最初の部分に当たります。

 聖人(親鸞)越後国より常陸国に越えて、笠間郡稲田郷といふところに隠居したまふ。

 (親鸞聖人は、越後国(新潟県)から関東の常陸国(茨城県)へ移って、笠間郡稲田郷(いまの笠間市稲田町)というところに隠居せられました。)


 前回の下巻第一段の最後の部分に、聖人は勅によって罪を解かれたけれどしばらくの間越後にとどまっておられた、と記されていました。今回、その後聖人は関東に移られたと記されます。『御伝鈔』には記されていませんが、建保2年(1214年)に、聖人は奥様の恵信尼公や子供さんを伴われて関東へ移られたと考えられています。聖人42歳の時でした。

 聖人がなぜ越後から関東に移られたのだろうか、という点で様々な議論があったとお聞きしています。
 前回、京都に戻られなかったことについてその背景をみましたが、なぜ同じ越後で念仏の教えを弘めるのではなく関東に移られたのだろうか、越後もすでに念仏の教えがひろまっていたのになぜ越後を離れられたのだろうか、という点です。
 覚如上人は『御伝鈔』でその背景となることについては、全く触れられていません。

 平松令三氏の『聖典セミナー 親鸞聖人絵伝』やその他の資料によりますと、その背景として次のような説が出されたそうです。
 恵信尼公の実家である三善家の所領が関東にもあってその縁を頼って移られたとする説、聖人のご著書である『教行信証』を著すに当たって「一切経」を参照するに必要があり常陸国が至便の地であったとする説、さらには、聖人は越後の農民と共に常陸の国に移住されたとする説などです。
 また、平松氏によりますと、近年、親鸞聖人は善光寺の勧請聖(かんじんひじり:念仏を弘めつつ募財を行う僧)たちと共に関東に赴かれたという説も有力になっているということです。

 善光寺は長野市にあるいずれの宗派にも属さない単立の寺院で、創建は7世紀中頃だとされています。ちょうど越後から常陸に至る中間の地に位置していて、聖人が常陸に移られる途中で善光寺によられたとする説、百日間滞在されたとする説もあるということです。
 平松氏によりますと、善光寺の本堂にには大きな花瓶に松の木が1本生けられていて、その松は「親鸞松」と呼ばれているそうです。善光寺では、親鸞聖人が参詣されたときに献上されたことを受け継いでいこの様式にされているということです。
 さらに真宗高田派の専修寺(現在、本山は三重県津市にありますが、かつては現在の栃木県間岡市に創建されました)では、仏前にお供えする花は「高田の一本松」と呼ばれる松の木一本だけなのだそうです。善光寺の松と同じ形であり、このことも親鸞聖人と善光寺とのつながりを示すものではないかとされています。

 10月の団体参拝では専修寺にお参りする計画になっていますので、この「一本松」を見ることも楽しみにしたいと思います。
 
(図は、自坊の御絵伝下巻第二段です)

 画面には2つの場面が描かれています。
 右の図には、水辺を歩く3人の僧が描かれています。中央の白い帽子(もうす)を首に巻いておられる方が親鸞聖人です。
 この図については、越後での布教中のお姿とするものと、越後から関東に向かわれるお姿とするものとがあるようです。前者ですと水は海を描いたものということになり、後者ですと「室の八嶋」という景勝地や「霞ヶ浦」だとされているようです。

 画面中央の小さな橋を渡り、岩場(一節には筑波山と)を越えたところに稲田の草庵の様子が描かれています。ここでも聖人は白い帽子を着けておられます。

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553.宇部北組広報班、若僧会


20190712霧
  20190712霧2

 7月10日に吉部の常光寺さんを会場に、宇部北組の広報班の打ち合わせが実施されました。この広報班は、「御同朋の社会をめざす運動」宇部北組委員会の広報部門を担当する組織です。
 6名のメンバーで構成されていて、組のホームページの運用、組報「ご縁だより」の発行などを担当しています。

 当日は広報班の打ち合わせに先立って、宇部北組の若僧会の総会が開催されました。この若僧会は組内の(若手の)僧侶を構成員とするもので、研修や他の組との交流を行うなどの活動をしています。広報班の打ち合わせの前に開催されましたので、こちらにも出席をしました。
 若僧会の活動についてはこのブログの初期に一度ご紹介したことがありましたが、その後の情報は余り載せていませんでしたので、広報班と併せて当日のご報告をします。

〇若僧会
 1.2018年度活動報告、会計報告
  広島別院の秋季永代経法要に参拝した旨報告がありました

 2.2019年度活動計画、予算
  今年度の活動として、10月に予定されている団体参拝の参加者にお配りする「しおり」を作ることが提案されて、分担して作成することになりました。団体参拝参加者に晨朝のお勤めについての説明や、本山、大谷本廟についての情報、その他訪問先についての情報をお伝えする案内となるものです。大変良いアイディアだと思いました。
  私もその「しおり」の一部になる「長島一向一揆・長島願証寺」(参拝の後の3日目に訪問を予定しています)について記事を作成することになりました。

〇広報班
 1.ホームページ
  3月31日までの2018年度アクセス解析として、訪問者数2,392、ページビュー6,699だったという報告が行われました。今後、ツイッターやYouTubeといった情報発信の方法についても情報収集し活用について検討することになりました。

 2.組報「ご縁だより」第3号
  10月1日発行予定で準備を進めることになり、担当を確認しました

〇キッズサンガ
 宇部北組の子供会行事として9月23日に宝林寺さんを会場に開催されます。
 春に実施しました「花フェス2019」は、ご門徒さん以外も含め幅広い年代の方に参加していただく行事として開催しましたが、キッズサンガは小学生を中心にした子供さんを対象にしてお寺で実施し、お寺に親しんでもらうきっかけにしたいと考えて実施される行事です。
 当日は計画の概要の報告があり、担当などを確認しました。ボッチャというスポーツを楽しむ計画になっていて、これは楽しみです。

(写真は、7月11日の朝の境内の様子です)

 濃い霧が立ち込めていました。今年は梅雨に入っても雨が少なく、夏法座の日は晴天となり喜んだのですが、稲が心配だというお話しをお聞きしました。10日の夜まとまった雨になりましたが、少しは回復しましたでしょうか。

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552.夏法座をお勤めしました

20190707夏法座集合写真

 昨日7月7日、ご講師に中山和泉師をお迎えして夏法座をお勤めしました。梅雨に入っていましたが、快晴の天候に恵まれました。

 ご講師はお話しの中で、『教行信証』の総序の最初の次の御文を紹介されました。
「ひそかにおもんみれば、難思(なんじ)の弘誓(ぐぜい)は難度海(なんどかい)を度(ど)する大船(だいせん)、無礙(むげ)の光明は闇(あん)を破(は)する恵日(えにち)なり」
(わたしなりに考えてみると、思いはかることのできない阿弥陀仏の本願は、渡ることのできない迷いの海を渡してくださる大きな船であり、何ものにもさまたげられないその光明は、煩悩の闇を破ってくださる智慧の輝きである)

 ご講師は、その後で、お母さんが外から帰ってきた子供さんに残された次のような書置きを紹介されました。当時はイモがおやつだったのでしょう。
 「おかえり、かあさんははたけにいます、(そこにある)イモをたべたらはたけにおいで」

 外から帰ってきた子供さんは、この書置きを読んでほっとした気持ちになったことと思います。子供さんは一人で外に行っていたのでしょうから、不安や寂しさがあったでしょう。帰ったらお母さんに会える、と駆けるようにして自宅に向かう姿が思い浮かびます。でもお母さんは自宅にはいませんでした。その代わりにこの書置きがありました。
 そこにはいないけれど、お母さんは自分のことを気にかけていてくれる、自分のことだけを思っていてくれる、そして自分のことを畑で待っていてくれる・・・・ひょっとしたら、家にお母さんがいたのよりもずっとお母さんが自分のことを大切に思っていてくれると感じたかもしれません。

 親鸞聖人が『歎異抄』に記されたお言葉、
「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」
(阿弥陀仏が五劫もの長い間思いをめぐらしてたてられた本願をよくよく考えてみると、それはただ、この親鸞一人をお救いくださるためであった)
 も思い浮かびました。

 このお母さんが子供さんのことを思うように、阿弥陀さまも私一人を大切に見護り、見捨てることはない、とお誓いいただいたのだと、お聞かせいただきました。しかし、その私の方はというとどうでしょう。この子供さんがお母さんのことをいつも慕っているほどに阿弥陀さまのことをお慕いしているのだろうか、ともう一度振り返させられる思いがしました。
 
 午後には、7名の方と一緒に勉強会を持つことができました。
 当日はお斎がありませんでしたので、お握りを準備し井上愛子さんが作られたお漬物と一緒にいただきました。そのお握りのお米がおいしいくて、一同「これはうまい」から始まり、「どこの米がうまい」「うまいコメの見分け方」などと話が盛り上がり、キュウリやダイコンのお漬物と一緒においしくいただきました。
 それから、これも井上さんから差し入れしていただいた、吉部の伝統のお菓子「竿まんじゅう」も一緒に味わいました。以前もご紹介しましたように、この「竿まんじゅう」は「おいでませ吉部」で製造販売されている郷土のお菓子で、現在は毎月第一日曜日だけ販売されているそうです。ちょうど、当日がその販売日に当たったことになります。

 その勉強会は、今回から『仏説阿弥陀経』についてご一緒に学ぶことにしました。
 当日は、「お経とは?」「お経はどのようにして伝わった?」に続き、『仏説阿弥陀経』の概要について学び、最初の「如是我聞」の部分を学ぶことができました。

 勉強会の最後に皆さんにお願いをしたのですが、この勉強会を通じて、お経についての知識をつけるのではなく、お釈迦さまが私たちに伝えたいと説かれたことをお経から直接に聞かせていただきたいと思っております。

    20190708スモークツリー1     20190708タラヨウ1
 上の写真左は当日の阿弥陀さまの前のお花です。岩崎勉さんからスモークツリーとニシキギをご寄贈いただきました。有難うございました。
 右は勉強会で皆さんにご紹介したタラヨウ(多羅葉)の葉です。モチノキ科の植物で、先端が尖ったものを使って写真のように葉の裏に字を書くことができます。紙が貴重品だった時代には紙の代わりに使われたそうです。以前にもこのブログでご紹介ましたようにインドでお経を記した貝多羅葉(ばいたらよう)というヤシ科の植物があるのですが、用途がそれに似ているところからタラヨウという名前になり、「葉書」の語源だとされています。そんなところから別名は「郵便局の木」、小野の郵便局に植えてあった木から葉を3枚いただいてきました。

(写真は、恒例の集合写真です)

 好天のもと、明るい向拝で撮影することができました。

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551.御絵伝に見る親鸞聖人のご生涯 (33):下巻第一段(5)

20190705下巻第一段専修寺本20190705下巻第一段専修寺本1

 御絵伝の下巻第一段の5回目、最後の部分となります。『御伝鈔』の御文と訳文です。

 皇帝[諱守成、佐渡院と号す]聖代、建暦辛未歳、子月中旬第七日、岡崎中納言範光卿をもつて勅免。このとき聖人右のごとく禿の字を書きて奏聞したまふに、陛下叡感をくだし、侍臣おほきに褒美す。勅免ありといへども、かしこに化を施さんがために、なほしばらく在国したまひけり。

 そののち順徳天皇(諱は守成、号は佐渡院)の建暦元年(1211年)11月17日に、岡崎中納言範光よりご赦免の勅令が下りました。このとき聖人が右のように禿の字を姓として天皇に奏上されたところ、天皇は感嘆せられ、お側につかえる臣下たちもたいへんほめたたえた、といいます。そして赦免ののちも、その地の人びとを教化するために、なおしばらくの間そのまま越後にとどまっておられました。

 承元元年(1207年)朝廷の弾圧により、法然聖人のお弟子さんたちは死罪や流罪に処せられました。その後、建暦元年(1211年)朝廷は赦免の勅令を発し、法然上人は都に戻られます。当時も後鳥羽上皇が権勢を振るっていた時代ですので、この勅免も上皇の了解のもとに行われたものと考えられます。
 法然上人は都に戻られたのですが、その2か月後に80歳でお亡くなりになります。

 親鸞聖人も同時に赦免を受けられたのですが、今回の『御伝鈔』に記されていますように、越後に残られ都にはお帰りになられなかったようです。その理由として、平松令三氏は次のような点を挙げておられます。

 第一に法然上人がお亡くなりになったことです。親鸞聖人は法然聖人を敬い、慕っておられました。もう一度お会いしたいという思いを強く持っておられたことと思われますが、その師の示寂を知られて、親鸞聖人の中で京都に戻る意味が薄れていったのではないかとされています。
 また、法然聖人が在京の頃「自分の歿後に門弟たちが一か所の集まることがないように」とされていたことも親鸞聖人の判断の背景にあるのではないかとされています。門弟が集まると、どうしても内部に争いが生じること、また集団心理から過激な行動に走るものがあらわれそれが弾圧の原因となること、などを危惧されたものだとされています。
 さらには、1211年の3月に、親鸞聖人と恵信尼公の間に息男の信蓮房が誕生されています。乳飲み子を抱えて長旅をすることを避けるということもあって、直ちに行動を起こされなかったのではないかとされています。

 そのような背景もあって越後にとどまられた親鸞聖人ですが、聖人の越後時代の生活の様子を伝える資料はほとんど伝わっていないようです。お弟子さんの記録で越後時代のものとされるのは一人だけだということで、越後での教化の活動の様子もよく分からないのだそうです。

(図は、専修寺本の伝絵に描かれた越後の庵室です。)

 「越後国府の御下著の御庵室也」と記されています。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)

550.夏法座に向けて草刈りをお願いしました

20190701草刈  

 6月29日、夏法座に向けて草刈りをお願いし、総代さん(代理の方も含めて)16名の方にお集りいただき作業を行うことができました。
 梅雨に入っていましたが、作業中は曇りで時々晴れ間が見える天候の中、約1時間半で駐車場周辺、石段周辺、山門に至る道の草刈りと後片付けを終えることができました。
 雨にはなりませんでしたが、蒸し暑い中ご苦労をおかけいたしました。お礼申し上げます。

 改めて、夏法座のご案内をいたします。

1.日時
 7月7日(日)10:00~ 午前座のみです

2.ご講師
 中山和泉師(白滝組 西楽寺ご住職)

3.その他
 午後に勉強会を予定しております。今回から、『仏説阿弥陀教』についてご一緒に学びます。
 当日お斎はありませんが、軽食をご用意いたします。

    20190701草刈2     20190701草刈3
 こちらの写真左は石段周辺の作業中、右は作業を終わって一息中、です

(最初の写真は、作業にかかる前の皆さんです)

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