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549.御絵伝に見る親鸞聖人のご生涯 (32):下巻第一段(4)

20190628下巻第一段西本願寺本  20190628下巻第一段西本願寺本2

 引き続き、『御伝鈔』の御文と訳文を記します。

 空聖人罪名藤井元彦、配所土佐国 [幡多] 鸞聖人(親鸞)罪名藤井善信、配所越後国 [国府] このほか門徒、死罪流罪みなこれを略す。

 法然聖人の罪人としての名は藤井元彦(ふじいのもとひこ)、流された先は土佐国の幡多(はた)というところ。親鸞聖人の罪人としての名は藤井善信(ふじいのよしざね)、流された先は越後国の国府(こくぶ)。このほか門徒で死罪、流罪になった者は多いけれど省略します。


 このように、法然聖人と親鸞聖人は僧侶の身分を奪われ還俗させられて、藤井元彦、藤井善信と名乗らされることになり、法然聖人は土佐の幡多(実際に行かれたのは讃岐国・香川県までだったと伝えられています)に、親鸞聖人は越後の国府の地に流されることとなりました。

 親鸞聖人が流された先「国府」は現在の新潟県上越市に当たるようですが、詳細な場所についてははっきりしていないのだそうです。
 また、聖人がどのような形で越後に赴かれたのかという点についてもいろいろな見方があるようです。聖人が恵信尼公と結婚されたのがいつなのか、越後に向かわれた時には結婚しておられたのか、という点に関することです。

 かつては、聖人は流罪先の越後で恵信尼公と結婚されたとする説が有力だったそうです。

 その根拠は、恵信尼公の父が越後に所領を持っていた三善為教公であったことや、恵信尼公が晩年に京都から越後に移り住まわれ多数の下人を持っておられたことから、恵信尼公は越後育ちとで聖人とご一緒になられたのも越後だったとするものです。しかし、父の三善為教公は京都に生活の根拠を持ちながら越後介として越後に所領を持っていたと見られること、恵信尼公ご誕生の4年前に越後介の任を解かれていたこともあって、恵信尼公は京都で生まれ育てられたとされる見解も出されています。
 また、越後で結婚されたとする説の背景には、流刑人が家族を帯同することなどあり得ない、ということもあったようです。しかし、平松令三氏によれば、当時の法令では「流人は妻妾を棄放して配所に行ってはならない」とされていて、逆に家族を伴わなければならなかった、ということのようです。従って、恵信尼公と京都で結婚されたのであれば、当然にご一緒に配所に向かわれたということになります。
 さらに、越後配流の4年後の承元5年(1211年)に親鸞聖人と恵信尼公との間に信蓮房が誕生します。聖人と恵信尼公の間には、すでに信蓮房の姉に当たる小黒女房と兄に当たる善鸞がありましたので、このことも聖人が京都で結婚されていたという根拠になっているようです。

 このように、親鸞聖人が越後に配流となられたのは恵信尼公と結婚された後だった、という見解が現在では有力になっているようです。

 かくて親鸞聖人は師である法然聖人と別れられて、配所の越後に向かわれました。この時、法然聖人は75歳、その後、許されて京都に戻られますが1212年、80歳でご往生されます。従って親鸞聖人にとっては、この承元元年(1207年)が法然聖人との最後のお別れとなりました。

(図は、越後に向かわれる聖人のお姿を描いた西本願寺本の伝絵です)
 左は「流罪の聖人を送り届ける武士たち」、右は「聖人を載せた輿が越後に向かうところ」とされています。
 当初の伝絵には法然聖人と親鸞聖人が出立される場面は描かれておらず、その後四幅の御絵伝が制作されるようになって、出立の場面が差し替えられて入れられるようになったということです。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)

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548.最近の話題(33):梅を収穫しました

20190624梅   20190624梅2

 6月22日に裏の畑の梅を収穫しました。数日前から実が少しずつ落ちるようになっていましたので、そろそろ取り入れなければと思っていたところ、これから天候が崩れるという予報もあり、その前に取り入れることにしたものです。
 裏の畑には10本の梅の木があります。祖父が、ここと、現在駐車場になっている場所に梅の木を植えてくれていて、今はこの畑の方が残っています。10本あるのですが、そのうち奥の方の5本は日当たりがよくないからか、余り実がつかないという状況になっています。

 取り入れは昼過ぎからとりかかり夕方までに完了しました。収穫した梅の実は22.5㎏、例年になく大きな実のように思います。作業は、取り入れた実を洗いヘタをとり、その後、梅干し用のものは焼酎に浸し8%の塩を加えるというものです。梅干し用に15㎏、残りを梅ジュースなどの用途に使うことにしました。

 子供の頃、この梅ジュースを「梅酢(うめず)」と呼んでいました。当時は井戸水で薄めて飲んでいましたが、その井戸水が冷たくて、特に夏には嬉しい飲み物でした。今でも時々飲むのですが、同じ井戸水で薄めて飲んでも、子どもの頃のように「冷たい」と感じなくなっているように思います。冷蔵庫で冷やした水、市販されている清涼飲料水など、私たちの口がもっと冷たい水に慣れてしまって、井戸水の冷たさが分からなくなっているのかもしれません。

 このヘタを取る作業に手間がかかります。
 梅一つが20グラムとすると、22.5㎏は1,100個以上となります。一部ヘタがとれているものもありますが、それ以外は先のとがった串状のもの(金属製ではなく木製が良いと言われているようですが、実際には十字のドライバーの先を使うことにしています)で、ヘタを取り除くのです。
 その作業をしながら、梅干しを生産している人は大量の梅をどのように処理しているのだろうか、と考えておりました。ヘタを取り除かないと梅が痛みやすいのだそうですがヘタ取りを自動化するのは難しそうだし、そう言えば完熟して落ちた実だけを使っているというのが「売り」の梅干しがあったけど、その場合はヘタを取る作業が楽になるだろうから地面に傾斜を付けてシートを敷いて集めるのが効率的だな、などなど。いずれにしても、販売されている梅干し、梅干しに限らずあらゆる食物がそうですが、が私たちの口に入るまでにたくさんの作業を通じて多くのご苦労をいただいていることを改めて思い返しておりました。

 あと、紫蘇を加える、土用干しをする、再度漬け込むといった作業が残っています。

 実は、先日受診した定期検診で塩分をとりすぎているという診断を受けました。最近は血液の検査で塩分の摂取量が推定できるのだそうで、塩分の摂取を控えるようにとのアドバイスでした。それで、それまで毎食一つは食べていた梅干しをしばらくやめることにしました。なんでも、梅干し一つの塩分量は2グラム近くもあって一日一個にとどめた方がよい、のだそうですから。
 せっかく漬ける梅干しなんですがね・・・

(写真は、取り入れ前の梅、処理の終わった後の梅です)

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547.御絵伝に見る親鸞聖人のご生涯 (31):下巻第一段(3)

20190520下巻第一段2

 しばらく間が空きましたが、引き続き御絵伝下巻第一段の3回目になります。

 『御伝鈔』の御文と訳文です。

 主上臣下法に背き義に違し、忿りをなし怨を結ぶ。これによりて真宗興隆の大祖源空法師ならびに門徒数輩、罪科を考へず、みだりがはしく死罪に坐す。あるいは僧の儀を改め、姓名を賜ひて遠流に処す。予はその一つなり。しかればすでに僧にあらず、俗にあらず。このゆゑに禿の字をもつて姓とす。空師ならびに弟子等、諸方の辺州に坐して五年の居諸を経たり」と云々。

 するとその上奏に対して天皇やそれにつかえる臣下たちは、法律をはきちがえ、道理にそむいて、腹をたて、不実な行為をするに至りました。 このために、真実の仏教を興隆させる中心人物の源空法師とその門弟数人は、罪の内容を検討されることもなく、無法にも死罪に処せられた者があり、また僧の身分を剥奪され俗人の姓名をつけられて、遠国へ流罪になった者もありました。私も流罪になった一人です。こうなったらもはや僧侶でもないし、俗人でもありません。ですから、これから私は禿の一字をもって私の姓とすることにしました。こうして源空法師とその弟子たちは、辺鄙な国に流されて、五年の月日がたちました。」と書いておられます。


 覚如上人が親鸞聖人の言葉を引かれて記されているように、朝廷は興福寺の訴えを受けて、それまでの姿勢を変えて法然聖人始め専修念仏の一門を罰するという動きに出ました。その結果、善綽房、性願房、住蓮房、安楽房の4名が死罪、法然聖人、親鸞聖人を含む8名が流罪に処せられるという苛烈な断罪となりました。
 親鸞聖人がこの弾圧を「法に背き義に違し、忿りをなし怨を結ぶ」と厳しい口調で非難されているのは、この処罰がそれまでの例に比較して格段に厳しいものだったからです。平安の時代には長く死罪は行われず、1156年に保元の乱で敗れた源平の武将が斬られるまで350年間その例はなかったということです。その死罪が僧侶4名に対して、法律も慣行も無視して強引に行われたのです。
 平松令三氏によりますと、当時僧侶を罰するには「僧尼令(そうにりょう)」という奈良時代に制定された法律によるしかなかったということです。しかも、その法律によって死罪に処せられたという例は見られず、流罪も国家体制への謀反とみなされるような重罪、例えば平家一門の支配を転覆させようとした罪に問われた僧俊寛が喜界島に流されたようなケースが対象となっていました。しかもこのような処罰を実施する場合は、朝廷でしかるべき手続きがなされていたのですが、今回の専修念仏一問の処罰にあたってはそのような手続きもとられなかったとされています。
 
 朝廷がこのように専修念仏断罪に舵を切った背景には、後鳥羽上皇が熊野詣に出かけられた12月に、法然聖人門下の住蓮房、安楽房たちが催した法要に上皇の2人の女房が参詣し、発心し出家するという事件がありました。帰京した後鳥羽上皇はこれを知り激怒されます。そのことで、朝廷の専修念仏に対する姿勢が一変し、上記のような非常に厳しい断罪になったとされています。いわば、後鳥羽上皇の感情的な強権発動により、4名の死罪、法然聖人、親鸞聖人はじめ8名の流罪が断行されました。

 その結果、法然聖人は還俗させられ土佐の国に流罪、親鸞聖人も還俗させられ越後に流罪となりました。親鸞聖人はそのことを受けて、自分は「僧にあらず、俗にあらず(非僧非俗)」と称されました。
 この場合の「僧」は、寺院において持戒を守り修行に励み、仏法をもって王法を支える国家公認の僧を意味しますが、今回還俗させられた聖人は名実ともに「非僧」になられたことになります。しかし一方で、法然聖人のお導きによりお念仏の教えに帰依されたのですから、世俗の権力を尊しとする「俗」ではなく「非俗」でもあります。そして聖人は「禿の字をもつて姓とす」と記されていますが、「禿」は「剃髪もせず結髪もしないさま」を表す言葉だということで、以後聖人はご自身のことを「愚禿釋親鸞」と称されることになります。

(図は、自坊の御絵伝の下巻第一段の後半の二図です)

 下は、法然聖人が輿に乗ろうとされている所です。上は親鸞聖人の輿を描いており、右が輿を運び出そうとしている所、左にはすでに門を出て路上を進んでいる所が描かれています。法然聖人はお姿が描かれていますが、親鸞聖人の方はお姿が見えません。
いずれも、お送りしている門弟の方々は袖に顔を当てて涙にくれています。
 その他に、武器を持った武士が描かれていますが、これは「検非違使」呼ばれ都の治安維持などを担当していたということです。

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546.歴史を訪ねる(16):大内氏歴史文化研究会(2)「大内義隆の遷都計画」

20190617大内文化s  20190617大内文化2s

 少し前になりますが、5月26日に「山口県教育会館」で開催された大内氏歴史文化研究会の第13回講演会を聞きました。初めて参加した第12回に続けての2回目でした。
 当日の演題は[大内義隆の遷都計画-もうひとつの戦国時代-]というもので、講師は、米国プリンストン大学教授で日本の中世史を専門に研究しておられるトーマス・D・コンラン氏でした。

 コンラン氏が講演で話されたのは、大内義隆が陶隆房(後の陶晴賢)に討たれた「大寧寺の変」の引き金となったのが、義隆が企てていた「山口への遷都計画」だったということでした。大内義隆が山口遷都を計画していたということは今回初めて知りましたし、信田の丸城に拠っていた万倉杉氏もこの変に深く関わっていたこともあり、講演を興味深く聞きました。

 従来、隆房が主の義隆に対して反乱を起こしたのは、義隆が戦をきらい文治に傾いたことに対して隆房が反発したことが原因だとされています。義隆が厭戦に転じた直接の原因となったのは、義隆が自ら出兵し出雲の尼子晴久を攻めた戦で大敗を喫し、後継としていた養子の大内晴持を失ったことによるとされています。その敗戦の後、義隆は領土拡大や戦闘に関心を失い、武断派の陶隆房や内藤興盛などを遠ざけて、文治派の相良武任(さがらたけとう)などを重用するようになります。
 このような義隆に対して、隆房は軍備を強化するように進言するのですが、義隆は取り合わなかったとされています。さらに、その政治も武任に任せ、自身は学芸や茶会などに没頭し公家のような生活を送るようになったようです。また、冠位を得ようと朝廷に多額の寄進を行うなどもあって、膨大な経費を要することになり、年貢の増徴も行われるなど、いよいよ反発を強める結果となりました。

 10年以上続いた応仁の乱の後、山口は乱により荒廃した京都に比べてはるかに安定し栄えた都市で、多くの文化人が大内氏の庇護を求めて都から逃れて来ていたと言われています。強大な守護大名として、大内氏はその経済力で朝廷を支える存在でもあったようです。そのような環境と、義隆の厭戦気分、文化嗜好が相まって義隆の「公家化」が進展して行ったとされています。
 そのような義隆の姿勢を背景にして、武断派と文治派の対立はいよいよ先鋭化していきますが、その中で、武任が危険を感じ山口を出奔したり、また戻って実権を取り戻したりと目まぐるしく情勢は変化していきます。

 コンラン氏は、その義隆が山口に天皇を迎えて都を移そうという計画を持っていたのだとされます。当日の資料の中の『中国治乱記』という文書に次のような記述があると紹介されていました。
 「そのころ京都は乱れて帝位も穏やかでないので、周防山口に皇居を建立し、天子もここに移されてはどうだろうかと、大内殿から建議があったので二條殿や転法輪三條殿、持明院中納言殿、その他公家衆は皆山口に下向した。」
 (古川薫氏が『大内氏の興亡』という書を著されているのですが、そこでも『中国治乱記』のこの部分の引用がありました。ただ、氏の著書の中では「転法輪三條殿、持明院中納言殿」という名前は見えず、「二条殿をはじめ公家衆は多く山口へ下向した」とされ、ニュアンスが少し違っているように思われます)
 いずれにしても、京都から多くの公家衆が山口に下ったことは間違いのないことのようです。

 そうすると、公家衆は義隆の庇護のもと権威を誇り、武骨な武断派を軽侮するというようなこともあったようです。このような事態は、それでなくとも義隆の公家化に不満を募らせていた武断派の怒りをさらに強めていったということは容易に想像できることです。
 さらに、コンラン氏は、天文21年(1552年)の朝廷の元日の節会(せちえ)を山口で行うという計画が進められていたとされています。節会に向けて多くの公家衆が山口に集まっており、重要な朝廷行事である節会の費用、多くの公家衆の滞在費など、また膨大な費用が必要になります。そのことが隆房に謀反を決意させた要因だとされています。

 関連する事項を時系列に従ってまとめますと、次のようになります。

1467~1478年 応仁の乱
1507年(永正4年)大内義隆誕生
1526年(大永6年)後奈良天皇即位
1528年(享禄元年)義隆、父大内義興死亡により第16代当主となる
1534年(天文3年)義隆、後奈良天皇即位礼にあわせて銭2千貫朝廷に寄進。太宰大弐の位を所望するもならず
1535年(天文4年)後奈良天皇即位式
1536年(天文5年)義隆、太宰大弐に叙任される。北九州を平定
1541年(天文10年)隆房を総大将に安芸を平定
1542年(天文11年)隆房の策により出雲に出兵するも大敗、1943年養子晴持は溺死。文治派、相良武任台頭する
1547年(天文16年)最後の勘合貿易。以後貿易による利益はなくなる
1548年(天文17年)義隆、従二位に叙せられる。
              この頃杉重矩は、不穏な動きをする隆房について義隆に進言するも聞き入れられず
1550年(天文19年)義隆、フランシスコ・サビエルに引見。義隆は立腹し、サビエルは畿内に去る
           陶、内藤の謀反の情報があり、義隆、これを詰問するも放置
1551年(天文20年)サビエルに再び引見、布教を許可
           隆房謀反、内藤興盛も義隆を支援せず
           義隆、湯本「大寧寺」にて自刃。多数の公家も殺される
1552年(天文21年)隆房、大友晴英(後に大内義長に改名)を大内家当主に据える
1553年(天文22年)杉重矩、厚狭長光寺にて自刃
1555年(弘治元年)隆房(晴賢)、厳島の戦にて毛利元就に敗れる

 この乱の中で、京都から山口に来ていた多くの公家衆の命も容赦なく奪われたとされています。武断派の不満、恨みは文治派に向けられると同じく公家衆にも向けられていたことが分かります。

 万倉杉氏の第5代、重矩の名前が出てきましたが、重矩は同じ武断派ながら元々隆房と対立する関係にありました。しかし、隆房が義隆に対して兵をあげたときには、重矩はこれに加わり義隆を自刃に追い込みます。
 その後、武任が義隆に提出したとされる「相良武任申状」に、重矩が隆房の不穏な動きを義隆に知らせ、隆房を討つように進言したことが記されており、これを隆房が入手したことから、両者の対立は決定的なものになります。隆房は、蟄居していた重矩を攻め厚狭の地で自刃に追い込み、重矩を義隆殺害の首謀者としてその首級を晒しました。これを恨んだ重矩の子重輔の復讐など、以前に記したような、文字通り血で血を洗う壮絶な抗争が続きます。

 このように「大寧寺の変」の背景には様々な要因が混在しているようですが、直接の引き金になったのが何なのか、義隆の「山口遷都」計画もその中にあるのかもしれません。コンラン氏は、現在大内氏に関する著書を執筆中ということですので、その刊行を楽しみにしていましょう。

(写真は、講演の案内と公演中のコンラン氏です)

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545.新聞版「壽福寺だより」を発行しました

20190614紙面  20190614紙面2

 新聞版「壽福寺だより」6月号を発行し、ご家庭にお届けしています。
 今月号の内容は次の通りです。

〇1面
 「降誕会法要をおつとめしました」

 「宇部北組の初組会が開催されました」
  初組会での審議事項と今後の検討事項について報告しています

 「夏法座のご案内です」

〇2面
 「『花フェス2019』を開催しました」
  4月13日に開催された花まつりのイベント内容をご報告しています

 「ご存知ですか(19)本山の建物修復工事」
  このブログでもご紹介した本山の建物修復工事とそれに伴うお勤めの勤修方法の変更についてご紹介しています

 「ご紹介します(8)篠原光徳さん」
  これもブログでご紹介した山口朝日放送の番組に登場した篠原さんのご紹介です

 「念仏奉仕団への参加者を募集しています」
  新聞と一緒に念仏奉仕団の募集資料をお送りしています。

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544.最近の話題(32):頂法寺を訪ねました

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 5月28日、本願寺で朝のお勤めにお参りした後に、京都の頂法寺を訪ねました。学生時代を含めて京都や関西に長い間住んでいたのですが、頂法寺を訪ねるのは初めてのことでした。

 頂法寺は別名を六角堂と呼ばれる天台宗系の単立寺院(宗派に属さない寺院)で、京都市営地下鉄の「烏丸御池」駅から徒歩3分のところにあります。親鸞聖人が比叡山を下りられて100日間参籠され、その後法然聖人の元を訪ねられた、「六角堂」はこのお寺だったと伝えられています。

 聖徳太子が創建されたと伝えられる(実際は10世紀後半ではないかとされているようです)お寺で、古くから広く京都の人びとの信仰を集めていました。また京都の町衆の生活や文化、自治活動の中心を担ってきたと言われています。六角通りを隔てた飛び地に鐘楼(鐘つき堂)があるのですが、戦国時代に京都に戦乱の危機が迫るとこの鐘が鳴らされるなど、都の中心の役割を果たしていたようです。

 六角堂は現在の烏丸通から少し入ったところにあり、周囲はビルが林立しその谷間のような場所にあります。
 境内に隣接して「いけばなの池坊」の本部ビルがありました。元々「池坊」というのは頂法寺の本坊のことで、代々寺の住職として経営、管理に当たってきたのだそうです。また、歴代住職が本尊の如意輪観音に花を供えていて、その花が評判を呼んだことから、華道の中心となったという経緯があるようです。

 境内に遺されている親鸞聖人ゆかりのものとして、「親鸞堂」と呼ばれるお堂と聖人の立像がありました。
 「親鸞堂」は小さな六角のお堂で、中に二つの像が安置してありました。説明板によれば、その一つは、聖人が夢告を受けられる「夢想之像」、もう一つは六角堂参籠の姿を自ら刻まれたとされる「草鞋の御影」だとしてありました。

 聖人の立像は、この「親鸞堂」の向いにある銅像で、説明板によれば、聖人が参籠から比叡山に戻られる姿だとされていました。

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 上の写真左は六角堂の全景、中はビルのに囲まれた六角堂。右は六角の形が分かります。
 右の写真は、「六角堂を上から撮りたい」と境内にいた女性に聞きましたら、「池坊ビルの3台のエレベーターのうち1台が「スケルトン」になっています」と教えてもらって、撮ったものです。六角形の屋根を二重に重ね、手前には入母屋造りの礼堂という建物を附設した複雑な構造になっています。現在の六角堂は明治10年に建立されたということです。

  201906104.jpg  201906108.png  201906107.png   
 この左は聖人の銅像です。中は「親鸞堂」の中の「草鞋の御影」、右は「夢想之像」とされているものです。この2枚は、頂法寺のHPからお借りしました。

(最初の写真左は親鸞堂、右は堂の中の2体の聖人のお像「草鞋の御影」、「夢想之像」とされるものです)

 外から撮った2体のお像は鮮明ではありませんでしたので、お寺のHPからお借りしました。

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543.山口教区門徒総代会全体会

20190607大來氏 (2) 

 6月3日、山口別院で山口教区門徒総代会全体会が開催され、井上啓志さん、岩﨑明さんと出席しました。

 当日は次の内容で開催されました。

1.開会式
2.総会
3.講話
 午前:「身近な仏教~何気ない日本語を振り返る」(大來尚順氏)
 午後:「子ども達を育むために(重点プロジェクトについて)」(荻隆宣氏)
4.閉会式

 〇総会では、2018年度の活動報告、決算報告、会計監査報告および2019年度の活動方針、予算について報告が行われました。
 その中で、久保会長は「総代は聞法のリーダーとして活動しなければならない。住職から『ご門徒に育てられた』と言われるような門徒・総代になろう」と決意を述べられました。私たちも思いを新たにしなければならないことです。

 〇午前中のご講師の大來氏については、『訳せない日本語 日本人の言葉と心』(以前このブログでも取り上げました)の著書として知っていましたが、直接お話しをお聞きするのは初めてでした。
 大來氏はレジュメで、「いただきます」「おかげさまで」「すみません」「どっこいしょ」「いってきます」という私たちが日常的に使う言葉を、身近な言葉だけど「大切な言葉」、そして英語に翻訳しにくい言葉として取り上げ、その中に込められた仏教の教えについて話をされました。
 
 その中で、「すみません」という日本語の意味の深さを改めて感じました。
 この言葉は訳しにくいだけでなく、「謝罪」と「感謝」と「依頼(呼びかけ)」の3つの意味を持った言葉だとされます。そしてその3つに共通して流れているのは「済みません」「澄みません」、「申し訳ない」という思いで、迷惑をかけててしまう自分自身に向かう内省、自責に向かうものだと言われます。氏は、このことは物事の結果を他者に求めない仏教の教えに通じるものだとされます。
 お釈迦さまが亡くなられる前にお弟子さんが「これから何をよりどころにしたらよいのでしょうか」と問われたことに対して、「自灯明」「法灯明」ということを説かれたと伝えられますが、「人に頼るのではなく、自らをよりどころにしなさい。法(真実の教え)をよりどころにしなさい」という教えです。大來氏は、この言葉の根底には、責任を他に求めず自分に引き受ける、という姿勢があるとされます。
 私たちは様々な場面で、不都合の原因、うまく行かなかった原因を他に押し付けて、自分は逃れようとしてしまいがちです。いろいろな言い訳をして、「すみません」とひとこと言って終わらせよう、などということもあります。しかし、この「すみません」という言葉が、自分が逃げずに引き受けることだということを思えば、それこそ、ひとことの「すみません」では済みませんゾ、ということになります。
 
 仏教用語は私たちの日常用語にたくさん入っていて、それは気づかないうちに私たちの行動や思考の中に入っていると考えられます。しかし、大來氏が言われるように、掌を極端に目に近づけると皺が見えなくなるように、私たちには近すぎてそのことが見えなくなっているということはよく分かります。
 私たちが気づかないうちに私たちの行動のバックボーンになっていたもの、仏教的な考え方が、これからも私たちの大切なよりどころとして残るのかどうかが問われている時代なのだと思います。難しい時代にさしかかっていると、改めて自身を見なおさなければならないと思います。

(写真は大來氏です)

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542.ご報告:初組会が開催されました

20190603センダン   20190603センダン2

 5月29日、宇部北組の初組会が開催され、住職と井上啓志さんが出席しました。
 この初組会は、年度の最初に開催される組会(宇部北組内の17か寺の僧侶とご門徒さん各1名が出席する組の決議機関です)です。

 以下、当日の内容をご報告します。住職は司会を担当しました。

1.勤行
2.議長、副議長選出(福川氏、藤本氏を選出しました)
3.議案審議(いずれも承認されました)
 ・2018年度宇部北組教化活動報告(市川組長)
 ・2018年度会計決算報告(杉形副組長・会計担当)
 ・2018年度会計監査報告(山本監事)
 ・2019年度宇部北組教化活動計画(市川組長)
 ・2019年度会計予算案(杉形副組長)
 ・2018年度各教化団体の活動報告、会計報告および2019年度の活動計画、予算
  総代会、仏教婦人会、仏教壮年会、子供会、連続研修会、坊守会、若僧会、「御同朋の社会をめざす運動」の各担当者より報告、説明がありました

 以下、ポイントを記しておきます。

 ・「花まつり」
  4月13日に「花フェス2019」として、子供さんだけではなくご門徒さん以外の広い年齢の方に参加いただこうと広く呼びかけて実施しました。実施に当たっては、「御同朋の社会をめざす運動」委員会として組を挙げて検討、実施されました。

 ・子供会行事
  「花まつり」が上記のような形で実施されたことを受けて、別途、子供さんを対象とした行事をお寺を会場にして実施することになりました。

 ・連続研修会
  第6期が昨年修了となりましたが、今年度は開講せず、引き続き今後の実施について検討することになりました。

 ・山口別院報恩講
  11月28日が宇部北組の参拝日となっていますが、当日は宇部北組が奉仕組となります。

(写真は、センダンです。)

 左は5月23日美祢市伊佐の万倉地で、右は5月26日山口市の椹野川沿いの運動公園で撮影しました。
 椹野川沿いにはセンダンの大きな木が見られます。一方、美祢市の方は、この辺りにはこの一本だけで、これまで気づかずにいたものです。
 弱い香りがあるようですが、「栴檀は双葉より芳し」という諺の栴檀は「白檀」のことだそうで、こちらのセンダンではないようです。

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